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 その日も彼女に見られながら私は帰宅しました。警戒心が少なくなっていた私は今日もいる、と思う程度でそれ以上の思いはありませんでした。ですが、部屋に入って晩ご飯の支度をしている時、インターホンの音とともに、勢いよく扉を叩く音が聞こえたのです。それこそ先ほど東さんが話してくれたような勢いで


   プルルル、ドンドンドン、プルルル、ドンドンドン


 と。誰が来たのだろうと私は玄関扉の覗き穴をのぞいて見ました。築四十五年のアパートですから玄関の映像が映し出される便利なセキュリティアイテムはありません。ですが、今ではその方が良かったと思っています。


 もう、大方予想できてる方はいらっしゃるかと思いますが、そうです、扉の前にはあの少女が立っていたのです。しかも、ただ立ってるだけでなく、本来見えないはずの覗き穴から少しでも私の姿を視認しようと、覗き込んでいたんです。


 私は驚きのあまり立ちすくんで、彼女のことを見ていました。すると、少女の赤い眼が三日月型に曲がって笑ったのです。あんな目で笑う人を私は初めて見ました。まるで「悪質サークルには気をつけましょう」のポスターに描かれているような、首筋を舐められているような感覚になる眼で笑ったのです。


 少女はそのまま覗き穴を舐め始めました。私は巨大な蛇に呑まれるような思いがして、慌てて覗き穴から眼を放しました。ですが、それでも扉の奥からは舌で丁寧にマーキングするかのように唾液を溢れさせて、覗き穴を舐め続ける音が聞こえて来ました。


 これはどうするべきなのだろうか、私は困惑を続ける頭の隅で考えました。普通の人であれば警察に連絡するのが常套なのでしょうが、相手は私にしか見えないはずの幽霊です。ただひたすら帰ってもらうのを待つしかできませんでした。しゃぶり音はそれから数十分続き、ある所でふと気配が完全に消えました。大ごとにならず安心したのですが、翌朝、学校に行こうとしたら覗き穴のところに粘性の強い液体がべっとりとついてて寒気を覚えました。それは慌ててティッシュで拭って捨てました。


 そこから彼女は本格的に私に対して「攻撃」を開始しました。


 ある夜、私はいつも通りベッドに入って眠りました。私のベッドは「つばめ荘」の間取り的に窓側に設置しています。そして、その日もやることを終えて寝ようとベッドに入ってしばらくした頃、どうにも寝付けなかった私は何か飲もうと目を開けて不意に窓の方を見ました。もちろん、防犯のために窓には水玉模様がしつらえられたカーテンがかかっています。ですが、この夜はカーテンの締まりが悪かったらしく、隙間が若干できており、外の様子を伺うことができました。


 そこで私は見たのです。


 赤いワンピースを着た少女が、顔にかかった髪の毛の隙間から充血した眼を私の方に一直線に向けているのを。私は悲鳴を上げてベッドから転げ落ちました。寝起きだからと言うのもあるのでしょうが、この悲鳴の原因は、おそらく就寝という私のプライベートの中で最も大切でデリケートな部分に彼女が触れたからでしょう。


 私はそのまま後退りしましたが、どうするのが正解か分からないでいました。この部屋から逃げるべきか。でもそしたら彼女が追ってくるかもしれない。では、籠城する? 援軍が望めない状況で籠城戦を選択して難を乗り越えた戦国武将を私は知りませんでした。


 そんなウロボロスのような矛盾に陥っていると、突如、インターホンの鳴る音が聞こえました。真っ先に考えたのが、あの時のように彼女が私を来訪しに来たということでした。それを裏付けるかのようにカーテンの隙間から赤いワンピースの姿は消えています。嫌だ、行きたくない。そう震えていると、玄関の奥から声がしたのです。


「すみませーん、隣の萩野ですけど、大丈夫ですかー?」


 それは右隣の部屋に住む萩野さんの声だったのです。私は安心して扉を開けようとしました。ですが、すぐに思い直しました。果たしてこの扉の奥にいるのは私の知ってる萩野さんなのだろうか。映画鑑賞を趣味にしてる私は人気のあるホラー映画も何個か見て来ました。そこでは扉の奥から知り合いの声がして開けると怪物がいる、なんてことは往々にしてあることです。


 試しに私は覗き穴から外の様子を確認しました。すると、そこには茶髪ボブがよく似合う女性が立っていました。萩野さんだと確信した私は念のためチェーンをかけたまま扉を開けました。幸いにも扉の奥から現れたのは私の知ってる萩野さんでした。


「大丈夫ですか? 悲鳴が聞こえたんですけど……」


 そこで私の感情は堰をきったように溢れ出しました。来るとは思っていなかった援軍が来てくれた。そのことに安心した私は、その場で泣き崩れてしまいました。ようやく気づいたのです。あぁ、私はここまでも赤いワンピースを着た少女に恐怖していたのだと。彼女は私を守ってるのではなく、私に恐怖を擦り込んでいたのだと。


「と、とりあえず、何があったか聞かせてもらってもいいですか?」


 萩野さんは心配するように私の肩をさすりながら言いました。私は何度も首を縦に振ると、一度ドアを閉めてチェーンを外します。その際、この間に萩野さんが少女に成り代わっているのではないかと思いましたが、扉を開けてもそこには同年代の女性が立っているだけでした。


 部屋に入ってもらった私は萩野さんに少女について全てを説明しました。駅のホームで見かけた時から、尾行されていた時、そして覗き穴を舐められた時のことも。そのことについては萩野さんも知っていました。どうも隣の部屋の扉を叩き続ける奴がいるなと不謹慎に思っていたそうです。そこで、私は再び安心しました。彼女の存在は私だけが認知できるものじゃない。他の人にも感じるのだと。


 では、あの少女はいったい……。


 そんな疑問を抱えたまま私は萩野さんに今夜起きたことを手短に説明しました。萩野さんはすぐに納得してくれて、彼女が現れた窓の方を何回か確認してくれました。


「一通り外を見てみましたけど、いませんでしたよ」


「ありがとうございます」


 私はお茶とお茶請けを出しながら礼を言いました。


「やはり、ストーカーなのでしょうか?」


「うーん、でもそれにしては妙に不気味ですねぇ。かと言って幽霊だと一括りにするのは違う気もします」


「そうですよね……」


「ストーカーかもしれませんし、一度警察に相談してみたらいかがですか?」


「で、でも私、ストーカーされるような覚えはありません。生徒にも信頼されていますし、男性関係でトラブルを起こしたことは一度もありません!」


「当人はそう思ってるかもしれないけど、相手側は別の捉え方をされているかもしれませんよ。例えば、道ですれ違ったとか、そんなので一目惚れしてストーカーを働く輩もいますから」


「そ、そんな……。私、そんな綺麗でもないのに……」


「またまたご謙遜を。十分きれいですよ。少なくとも女性である限り、異性から興味を持たれるのは覚悟しておいた方がいいですね」


「そんな……」


 私は無力感に襲われました。だって、自分は何もしてないのに、道ですれ違っただけでストーカーされるかもしれないなんて、あまりにも身勝手で不条理です。それでは世の女性はストーカーされて最終的に殺される、という常に最悪の可能性を抱えながら日々過ごさなければならないじゃない。そう言うと、萩野さんはこう言って宥めてくれました。


「それは女性だけじゃなくて男性も、全ての人間が持ち得る可能性です。男性だってストーカー被害に遭わないわけじゃありませんし、いつ殺されるかも分かりません。けど、そんな極小の可能性に怯えていては何もできなくなります。まずは『私は大丈夫だ』と思うこと。そこから今起きている現状に対処する道を模索しましょう」


 その言葉に私は幾分か心が軽くなった気がしました。どうやら感情の起伏が大きすぎて精神状態がだいぶ不安定になっていたようです。本来なら何気ないことにも過剰に反応するようになっていました。私は改めて萩野さんにお礼を言うと、明日は早めに家に帰って警察に相談しようと決めました。

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