3

 あぁ、助かった。こんなところはもう懲り懲りだ。一度脱出して、綿密に計画を立ててから再度決行しよう。そう思った矢先に、足音は再びトイレの中に戻って来て扉を勢いよく叩き始めたのです。これには安心し切っていた垣本もたまらず短い悲鳴を上げて、個室の隅っこに座りなおしました。


   


 扉を叩く音はまるで子供のように嬉々としていました。からかうように甲高い笑い声を上げてるのが何よりの証拠でしょう。この扉の奥にいるやつは一体誰なんだ、と垣本は相手が幽霊だとか何だとかそういった思考を全て飛び越して震え慄きました。たとえ相手が幽霊であれ、余程まともな精神をしていない。いや、自分が知らないだけで幽霊というのはみんな頭がおかしいのか? 垣本の恐怖はもはや何も考えたくないほどまで高まっていたそうです。


 そして、帰ったと思ったら叩かれて、帰ったと思ったら叩かれる、そういった行為が数回は続いたそうです。正確な数も、どれくらいそれが続いていたのかも垣本は憶えていませんでした。一刻も早く、一刻も早く終わって欲しい。ただただ手柄目当てにこのFビルに入ってしまった自分を悔やんでいたそうです。


 最後の方になると、扉の奥の何者は手ではなく頭を扉にぶつけるようになりました。そして、時々甲高い奇声を上げながらこう言ったそうです。


「も〜しも〜し、ウフフフ、起きてますか〜、グフフフ。あ〜さで〜すよ〜、ドュフフフ。千鶴くん、学校に遅れちゃうわよ〜、オホホホ、起きなさ〜い、イヒヒヒヒ」


 男性の声なのですが、明らかに頭のネジが外れた男の声だったそうです。男はそんなわけの分からないことを言いながら頭をぶつけ続けました。その度に垣本は体を痙攣させました。もう嫌だ、もう嫌だ、夢ならば醒めてくれ。現実ならば助けてくれ、と心の中で繰り返し祈りました。


 十分ほど続いた頃でしょうか、扉の奥にいる何者は、


「あぁ、いいこと思いついたぁ」


 と、粘っこい口調で言ったきりしんとあたりは静まりかえりました。まるで何事もなかったかのようにしんとした事で垣本は困惑しました。一体何が起こったのか、しばらく考えることを放棄していた脳味噌が再起動するまで幾分か時間がかかったそうです。そして彼は、扉の奥にいた何者かは自分よりも面白い事柄を見つけてそっちへ向かった、と結論づけました。トイレから出る足音がしなかったのは、そいつが幽霊だったからとよく分からない理屈をつけて立ち上がり、上を向いたその時!



 なんと扉の上から顔が覗いていたのです。しかも、その顔は彼曰く形容しがたい顔でした。なんと顔の皮はほとんど剥がれていて所々むくんでおり、メガネをかけていました。加えて骨が変形しているのか左右の形が非対称で、それによって捻れた口は笑みを浮かべていました。想像しづらいですよね。もちろん、私もどんな顔かは想像できませんでした。ただ、一つ分かるのは垣本は明らかに恐ろしい「何か」を見たということです。


 話を戻しましょう。垣本はその形容しがたいほど変形した顔から、こいつこそが戦時中の人体実験によって体と頭がおかしくなった外国人の怨霊だと直感したそうです。やばい! 地獄に落とされる! 垣本は我慢できずにとうとう大きな悲鳴を上げました。しかし、その「何か」も負けじと甲高い笑い声を発したそうです。それが怖くて再び悲鳴を上げる。さらにそれよりも甲高く笑う。そのラリーがこれまた数回繰り返されたそうです。


 しかし、最終的に叫び疲れた垣本は得体の知れない「何か」を前にどうすることもできず、ズボンを濡らして意識を失ってしまいました。


 そして気がつくと、目の前には数人の警察官がおり彼は住居侵入の罪で逮捕されました。最上の名誉を求めた男の末路が小便で濡れたズボンを履いたまま警察官に連行される、というのはなんとも皮肉なものです。


 取り調べの途中で垣本は何度も例の幽霊について聞きました。もしかしたらFビルの人間なのではないかと思い、質問する内容も変えてみました。しかし、何度質問してみても、あの夜Fビルに人はいなかったと言われたそうです。では、彼があの夜みた男は一体……。


 垣本は三〇〇件あまりの窃盗の罪で有罪判決を受けました。懲役は異例の二十年。これについて彼は二度とあんな幽霊を見ないで済むなら楽なものだと語っていました。



 

 さて、話は以上となるのですが、最後に一つだけ。実は、この一連の怪異話には裏があるのです。先ほどの水島さんの話と同様に、これを聞くと今語った話が全く別の話に聞こえるわけですよ。


 どんな内容か知りたいですか? でしたら、是非ともわたしの著書「犯罪者はその時なにを思ったのか」を読んでいただきたいと思います。竹房出版から一五〇〇円で販売しておりますので、ぜひ本屋に寄った際にはお買い求めください。


 以上で私の話は終わりとなります。最後までお聞きいただき、ありがとうございます。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る