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 ですが、そこに幽霊はいませんでした。橋の下には小川と、それを囲むように河原が広がっているのが辛うじて確認できたそうです。川は中流と上流の間に位置していたため、河原には大きい石と小さな石が点在していました。それらをつなぎ合わせると、確かに見る影もなく潰された女性の顔から虫が湧いているように見えなくもありません。


 K君は安堵の息を漏らしました。


(な、なぁんだ、やっぱり先輩の見間違いだったんだじゃないか)


 ですが、そう思った時、フッと先ほどまで自分を照らしていた車ののです。えっ、とK君は車のあった方を見ました。しかし、あたりは電灯もない真っ暗な場所ですから、車の影すら見えません。


 エンストでも起こしたのか。最初はそんなことを思っていたそうです。しかし次の瞬間、彼の背後でヘッドライトがつきました。


 あれ?


 さっきまでと反対側からヘッドライトで照らされている。誰か来たのだろうか? しかし、先輩の話だと吊り橋の先は遊歩道になっていて車は立ち入ることができないはずだ。では一体……。


 K君が確認する暇もなく、そのヘッドライトも消えてしまいました。辺りは再び暗闇に包まれます。明らかに異常な現象が起きてることだけが理解できました。とりあえず、来た道を戻ろう。幸い、吊り橋は一本道ですので、自分がどこから来たかはすぐに分かったそうです。K君は急いで橋のたもとに向かって小走りしました。端っこまで行って戻ってくるという当初の目的はすっかり忘れていたそうです。


 あたりは真っ暗だったため数メートル先が辛うじて見えるくらいでした。十七年前の話ですので、スマートフォンなんてありません。携帯も持っていなかったK君はあたりを照らすものがないまま、急いで橋のたもとに向かいました。そして、ようやくS先輩の車の影が見えて来ました。ああ、よかった。怖い思いをせずに済んだ。そう安心して駆け出そうとしたその時……。


 車の前に誰かが立っているのが見えたそうです。それは血のりでカピカピに固まった髪の毛を顔に垂らした女性でした。どこかの高校のジャージを身に纏い、裸足でひた、ひたとこちらに向かって歩いて来ます。K君の恐怖は一気に頂点まで達しました。悲鳴を上げたくても上げられない。もし上げれば彼女が襲ってくるかもしれない。とにかく、あの怨霊と接触することだけは避けないと。そう思いながらK君はゆっくり後ずさりし始めました。


 しかし、どこぐらいまで行った時でしょうか。こればかりはK君も全く記憶にないと言っていました。ともかく、悠久の時を幽霊と寄っては離れ、寄っては離れてを繰り返していた時、と彼女の首がもげたのです。K君はすぐに先輩が道中で言ってたことを思い出しました。首のない幽霊がここには出る。いや、違う。首と胴体が離れた幽霊がここにはいるんだ。


 落ちた首は転がってK君の方に向きました。絡まった髪の毛から垣間見える顔はぐちゃぐちゃに潰されて、目が飛び出し、鼻の骨が浮き出ていたそうです。そして、所々から蛆虫が皮膚を食い破って穴を開けている様子がありありと見て取れました。


 これだけでも逃げ出したかったのですが、その顔がニヤリと笑ったのをK君は見たそうです。肉と肉が癒着してくっついてしまった口がミチミチと無理やり引き裂く音を立てて徐々に開いていき、最終的にはニヤリと笑って見せたのでした。その口の中にはいくつもの甲虫や多足類、その幼虫や羽虫など、様々な虫が蠢いていたそうです。


 ここでK君の沸点が切れました。彼は自分でも驚くほど大きな悲鳴を上げて来た道とは逆に走り出しました。場所は谷を渡る吊り橋の上ですから、叫び声は幾重にも山彦となって繰り返し聞こえました。もう恥も外聞もありません。まるで、甲子園の九回裏、ツーアウト・ランナーなしのバッターぐらい全速力で走り出しました。


 走り続けて、走り続けて、ようやく橋のたもとが見えて来ました。ですが、出たからなんだというのだろう。ここは見知らぬ山奥で、自分の走ってる方向は来た道と逆だ。何なら怪しいヘッドライトが点灯した方角でもある。このまま自分は進んでもいいのだろうか。そんな問いをパニックになった頭の隅で考えながら走り続けていると、ついぞ橋を渡り切ってしまいました。


 しかし、彼の目標は橋を渡り切ることではなく、あの気色悪い幽霊から逃げることでした。渡り終えるや否や、K君は近くの雑木林を見つけてそこに飛び込みました。もう、気が動転してしまって、何をやっても正しいと思えたのでしょうね。きっと核ミサイルのスイッチを押すことさえ躊躇わなかったはずです。


 雑木林に入るとガサガサと自分のことを追いかける足音が聞こえました。やはり幽霊は俺のことを追いかけていたんだ。しかも、足音からして増えている。K君は身体中を枝に引っ掻かれながら無我夢中で走り続けました。


 気がつくと、あたりは自分の足音以外は聞こえなくなっていました。奴らを撒くことができた、とK君はここでようやく真の安息を手に入れて地面に座り込みました。ですがすぐに気づいたのです。


 ここはどこだ? 


 見知らぬ土地の雑木林をひたすら走り回りました。あたりは木々と草が生茂るだけで、どこを向いても同じ光景が広がっているだけでした。ついぞ、自分がどこから来たのかすら分かりません。K君はそのままヘナヘナと座り込んでしまいました。


 やがて空は白んで、鳥たちの鳴き声が辺りから聞こえて来ます。そして日が昇る頃、動物たちが活発に動き始め、草木を揺らしました。その音に最初は幽霊が追って来たのではないかと怯えたそうですが、すぐに安心して眠り込んでしまったそうです。


 そこで彼は不思議な夢を見ました。幼稚園の頃から小学校、中学、高校と日々の忘れていた思い出が次々と目の前で過ぎ去っていったのです。ああ、これが走馬灯か。K君はそう思うと同時に死を意識しました。


 次、目を開ける時は天国だろうか。いや、もしかしたら地獄かもしれない。そんなことも考え始めました。やがて空腹も限界に来て彼は夢すら見なくなりました。


 再び目を開けるとそこは天国でも地獄でもなく病室でした。彼は二日間山を遭難していた所を無事に発見され、救助されていたのです。でないと、この話はできませんからね。たくさんの人がお見舞いに来てくれたのですが、中でも印象的だったのは一緒に肝試しに行こうと彼のことを誘い、幽霊を見て怯えていたS先輩だったそうです。


 彼は誰よりも人一倍大きな花束を持って来て渡すと、


「すまない!」


 と、K君の目の前で土下座をしだしました。K君が理由を尋ねようとも、宥めようとしても、「すまない」とひたすら頭を地面に押し付けていました。それは面会時間ギリギリまで続き、看護師さんに声をかけられてようやく病室を後にしたそうなのです。なぜ彼がそんなことをしたのか、同じサークルの友人に聞いてみても分からないの一点ばりでした。


 夏休みが終わって学校に戻ると彼が所属していたテニスサークルは存在せず、S先輩も学校を辞めていたそうです。あれ以来、先輩含めたサークル関係者とは疎遠になってしまい、会うこともありませんでした。ですが、K君は時々夢を見るそうです。顔の潰れた幽霊とその隣で土下座するS先輩の姿を。もしかしたら、あの幽霊と先輩は繋がっているのかもしれない。そう思いながら彼はいまだにあの夜の恐怖と戦っているのだそうです。

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