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——突如、先輩が悲鳴をあげて上体を起こしました。そのスピードは人間とは思えないほど素早く、それでいて腰を中心とした綺麗な弧を描いていました。先輩はそのまま欄干から勢いよく手を離し、それこそ大減点をくらいそうなほど無様な尻もちをついてしまいました。
「アァ……、アアアァ……、アアァ‥…」
それだけの醜態では終わらず、S先輩は低い喘ぎ声を途切れ途切れに出しながら、地面を這うようにしてK君たちの元へ戻ってきました。彼の顔は今まで見たことないくらいに真っ青で、ヘッドライトに当てられた目は血走って、今にも飛び出しそうな勢いです。
「だ、大丈夫ですか、先輩」
K君は急いで先輩のもとへ駆け寄り這いつくばった彼の肩を担いで起き上がらせました。彼の肩は自分の手を振り払うくらい震えており、先輩の恐怖が尋常でないことを物語っていました。その様子に二人の女の子は完全に萎縮してしまい、互いの身体を抱きしめながら不安げな瞳でS先輩のことを見つめます。
「何があったんですか」
「で、で、ででで、出たんだよ」
若干過呼吸を起こしていた先輩はそれでもなんとか言葉を捻り出しました。
「は、橋の下から、俺の名前を呼ぶ声がしたんだよ。そ、そんなことあるわけねえ、と思ったんだけどよ、みょ、みょうにはっきり聞こえるもんだから、の、覗いてみたんだ。そ、そしたら、い、いいいいい、いたんだよ。女の幽霊が!」
興奮気味で喋り続けるものですから、とりあえず落ち着かせるために先輩を車の座席に座らせて水を飲ませました。それでいくらか先輩も落ち着いたらしく、その幽霊の特徴を話し始めたのです。
「顔という顔は見れなかった。顔が本来あるべき場所はぐちゃぐちゃに潰れていて、へ、変な虫も湧いていたからな。け、けど、髪の長さと、上着の隙間から辛うじて見えた鎖骨の感じ、女であることは間違いない。最初は俺も恐怖のあまり声が出なかったよ。人って真の恐怖に直面すると、悲鳴を上げれないんだなって思った。
で、でも、その堰を破る出来事が直後に起きたんだ。彼女の顔が、ぐちゃぐちゃに潰れた彼女の顔が笑ったんだよ。肉が裂けるような音を立てながらニンマリ笑って見せたんだ。そして言ったんだぜ。『やっと見つけてくれたわね』って。もうそこからは無我夢中だった。本当、ヘッドライトがあって助かったよ」
早口で捲し立てるように喋るS先輩に二人の女の子は完全に萎縮していました。無理もありません。そんな幽霊の話を実際に聞かされたら、誰だってビビってしまうでしょう。しかもその話がつい先刻、自分たちが見ている目の前で起こったのであれば、その恐怖は計り知れません。
けど、図太いK君の反応は違いました。確かに先輩の語った幽霊はリアリティがあったかもしれません。けど、それは言ってしまえば先輩という媒体を通して聞いたものであって、ホラー映画と大差ありませんでした。なぁんだ、そんなものか。それなら、まだ下手なB級ホラー映画の方が幾分かマシだ。これで、この勝負は俺の勝ちだな。そんな余裕の笑みを浮かべて言いました。
「せ、先輩。そんなことでビビってんすか。だ、ダサいっすね」
しかし、言葉を発してみて初めて気づいたそうです。自分の声が震えている。まさか、俺も先輩の話を聞いて怖気付いたのか? いやいや、そんな馬鹿な。俺は生まれてこの方、一度も怖い思いをしたことがないんだぞ。子供なら誰もが一度は通る、親を同伴した真夜中のトイレもやった事がないんだ。そんな俺がビビるわけないだろ。
一方、S先輩はK君の発言に驚いた様子でした。先輩である自分が後輩に馬鹿にされたのです。それはどんな人間であれ、一定の屈辱になるでしょう。ムキになった彼はこう言い返しました。
「なら、お前はあの幽霊が出てきても平気だっていうんだな?」
「もちろんです。そもそも幽霊なんていませんよ。なにか川石や水を見間違えただけですって」
「そ、そんなことはない。俺ははっきり見たんだ」
「……またまたぁ、そんなこと言って、俺のことを怖がらせようとしてるんでしょ」
からかうK君をS先輩は黙って血走った眼を向けていました。彼が何も言ってくれないので、あたりはしんと静まり返ります。聞こえてくるのはリンリンと鳴く虫の音とザザザという濁流のような小川のせせらぎのみ。
この時K君は一滴の冷たい汗がスーッと背骨に沿って落ちたのを感じたそうです。その汗から彼はこう思いました。あぁ、ヤベェな。俺、ビビってるわ。ですが一度S先輩に強気な姿勢を見せたところで今さら弱腰になるわけにはいきません。何しろ、ここには女子が二人もいます。ここまで先輩のことを煽っておいてやっぱり怖いですと言えば、K君はサークルの中で笑いものになってしまいます。
「い、いいですよ」K君は大きく息を吸い込んで言いました。
「そこまで言うなら俺が見てきてあげますよ。なんなら端っこまで行って戻ってきてあげますから、待っていてください」
そして、三人の反応も見ないまま吊り橋を渡り始めました。橋に足をかけると、ブゥンと鈍い金属が引っ張られる音が微かに聞こえます。まるで「よく来たね、君のことをずっと待ってたんだよ」と言ってるみたいでした。このまま橋自体が壊れるんじゃないか。K君は吊り橋が轟音を立てて崩れ、そのまま暗い谷底へ真っ逆さまに落ちていく自分を想像してしまいました。
けれども心を奮い立たせてゆっくりと、でも確実に歩を進めました。絶対に止まってはダメだ。絶対に。一歩一歩丁寧に地面を踏みしめます。その度にギィ、ギィ、と吊り橋が音を立てて軋みました。K君の心臓もギィ、ギィと締め付けられている感じがします。それは彼が今まで感じたことのない痛みでした。
これ以上進んだらどうなるんだ。
これ以上この痛みが増したらどうなるんだ?
鉄骨が崩れ落ちないだろうか。
心臓が潰れるんじゃないだろうか!
鼓動はますます大きくなっていき、川の音と一緒に聞こえてきました。
その時——、
「K」
せせらぎと心臓の鼓動をすり抜けるようにその声は聞こえたそうです。明らかに自分の名前を呼んでいる。止まらないと決心していたK君は本能的にピタッと足を止めてしまいました。しかも、その場所はS先輩が幽霊を見たという場所とちょうど一緒だったので、彼の恐怖はますます大きくなっていきました。まずい、まずいまずいまずいまずい! 彼の心臓は心破裂を起こす限界点ギリギリまで痛み出します。
「——K君」
またしても名前を呼ぶ声がしました。ここで彼は二つの選択肢を迫られたそうです。一つはこの声を無視して先に進むこと。二つ目は声の主を確かめるために先輩と同じように欄干から身を乗り出してみることでした。本来なら一つ目を躊躇なく選びたかったそうです。
しかし、ここで立ち止まってしまった以上、何かしらの異変が起きたことは橋のたもとにいる三人にも分かってしまいます。下手に無視したら後が大変だ。そう考えた彼は二つ目の選択肢を選ぶほかありませんでした。
本来なら、あの段階で一つ目の選択肢を選んでも、そこまで追及されないだろうとK君は私に話しながら後悔していました。立ち止まったのも本当に幽霊がいるか確かめたかったから、と言い訳すればよかった。そう悔やみながら、彼は先を話してくれました。
つまり、K君はS先輩と同じように欄干に手をかけ、恐る恐る谷底を覗いてみたのです。やめてくれ、やめてくれ、と思いながら彼の頭は先輩から聞いた幽霊をありありと思い描いていました。顔面が見る影もなく潰されて、所々から虫が湧いている女性の顔を。
やめてくれぇ、やめてくれぇ
やめてくれぇ、やめてくれぇ……
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