一の噺「水島哲郎——吊橋」

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 捜査資料:水島哲郎 三十五歳(男) 会社員 死因:頭部を複数回殴打したことによる脳挫傷




 では、始めさせていただきます。そこまで込み入った話ではありません。怪談噺でよくある典型的なものを一つ紹介させていただきます。


 これは私の同期から聞いた話なんですがね、ここは雰囲気を出すためにも彼のことをK君と呼ぶことにしましょうか。K君は私が感心するほど図太い人で、普通なら敬遠するような事を平然とやってのけてしまうんです。


 例えば、会社でゴキブリが出た時、彼はそれを足で踏み潰し、何食わぬ顔で素手で白濁色と黒光りの外殻が混ざった死骸を持ってゴミ箱に捨てていました。まあ、これが横着なエピソードになるかどうかはわかりませんが、それほど彼は怖いもの知らずだったのです。


 一方の私は生来弱腰のものですから、彼のことが羨ましく、仕事終わりの飲みで聞いてみたのです。どうやったら君のように逞しい人間になるのかと。すると、K君は、


「まあ、昔から怖い話とか好きだったから、生まれつきなのかもしれないな」とぶっきらぼうに答えました。


 こういった人の性格は生まれつきが多いものです。ましてや大人が一朝一夕で自らを変えることなんてそうできません。やはりそうだよなぁ、と私は少し落胆しました。しかし、ぬるくなったビールを一口飲んでふと興味を覚えたのです。ここまで怖いもの知らずのK君、彼が怖いと思ったことはあるのでしょうか?


 私は麦芽の味が下に絡み付いているうちにそのことを尋ねてみました。すると、K君はしばらく下を向いて唸っていました。目を瞑り、時々ピクピクと眉を動かして、まるで心の奥深く、何重にも封をした箱を前に開けるべきか、開けないべきか悩んでいるように見えたのです。


 それほど彼にとって重い話なのか。であるならば、無理に聞かなくてもいいだろうと思った私は、すぐにはぐらかそうとしました。ですが、その前にK君は意を決して口を開けたのです。


「実は、大学時代に一度だけ、本当に生死の狭間を彷徨った出来事があるんだ。それはあまりにも恐ろしすぎて、今でも夢にフラッシュバックしてくる。俺はその恐怖を払拭するためにも、こうして虚栄を張ってるのかもしれないな」


 そう言って彼は語り始めました。皆様にお話しするのは、その一部始終でございます。




 それは彼が大学入ってまもない十八の頃でした。ですので、ちょうど十七年前でしょうか。彼は私立大学のテニスサークルに所属していました。中高で野球をやっていましたが、受験が終わったことによる無気力さからそこまで興味が湧かず、そのサークルに入ったのも楽しそうだからというまた曖昧な理由からでした。


 このテニスサークルでは毎年、夏と冬に合宿を行うのですが、その年の夏合宿は北アルプスの青少年施設で行われました。正確な場所は風評被害になるからと教えてくれませんでした。


 ことが起こったのは合宿最終日の夜でした。その夜には慰労も兼ねて飲み会が盛大に執り行われたそうです。未成年もお酒を飲み、トイレに駆け込む人もいるくらいアルコールが飛び交いました。

 

 そんな中、サークルの責任者として飲酒をしていなかったS先輩が、K君と同期の女の子二人を誘って四人で肝試しに行こうと言い出したのです。どのような流れでそうなったかは分かりません。ですが、大切なことはこの同期の女の子二人が未成年ながらも飲酒しており、気分が高揚していたことです。


 K君はすぐに思いました。これはただの肝試しではない。なぜなら、お酒に酔った女の子と人目がない場所に行くのです。何が起こるかでしょう。


 肝試しの場所は施設から車で二十分ほど山道を走らせたところにある吊り橋になりました。聞いた限り、どこにでもある深い谷の上にかけられた鉄骨の吊り橋です。


 S先輩曰く、この吊り橋には心霊好きなら誰でも知ってる噂がありました。それは夜にそこを訪れると、着物を身につけた首無しの女性が現れるんだそうです。


 どうやら、数十年前に吊り橋から飛び降り自殺した女性の怨霊らしく、吊り橋を渡ってくる時もあれば、橋の下から突然足を掴んでくることもあるそうです。そして足を掴まれた者はそのまま下の谷へ引きずり下ろされて、実際に命を落とした人もいるんだとか。


 S先輩はその話を運転しながら迫真の語りで披露するものですから、女の子二人は怖がって酔いも覚めてしまいました。この時K君は何かおかしいと気づいたそうです。そういうが目的であれば酔いを覚ますほど怖い話をしなくても良いのではないのか。


 まさか、S先輩は本当に肝試しするために自分達を誘ったのではなかろうか。思えば席順も男子二人が前で、女子二人を後部座席に座らせています。K君は途端に自分が恥ずかしくなり、幼稚な発想をしていた自分が馬鹿らしく思うようになりました。


 仕方ない。今日のわんちゃんは諦めて、いつかのために格好いいところを見せてやろう。一人勝手に意気込んだK君は座席を座り直しました。幸い、怖いもの知らずだったK君にとって肝試しは得意分野でした。怖がる女子に大丈夫だよと抱擁しながら男らしさを見せてやろう。そう思って彼は車に揺られながら頭の中でこれから起きることをシミュレートし始めました。


 それから十数分後、一同はついに例の吊り橋に着きました。幽霊が出る噂の場所だけあって、あたりに電灯はなく、下を流れているであろう小川のせせらぎがまるで濁流のように聞こえていました。


 車のエンジンはつけたままK君たちは車を降ります。女の子たちは怖がって互いの手を握りながら降りましたが、K君は彼女らに良いところを見せるため、怖い素振りなどいっさい見せずに辺りを歩き回りました。


「ねえ、K君。そんなに歩き回って大丈夫なの? 間違えて足を踏み外したら大変だよ。こっちに来ようよ」女の子の一人が言います。


「大丈夫、大丈夫。俺、こう見えて怖いものとか好きだから」


 そう言うと、ちょうど車から降りてきたS先輩が笑みを浮かべました。


「ほう、それは楽しみだな。じゃあ、どっちが度胸が強いか勝負してみるか」


 その誘いにK君も良いですよ、と即答しました。別段、幽霊とか信じていなかった彼は、ここで先輩よりもかっこいいところを見せて、女子二人にアピールしようと考えていたのです。


 ルールはこうでした。吊り橋を一人で渡って、端まで行ったら戻ってくる。その際に走ったり叫び声を上げたら減点。どちらに度胸があったかは女の子二人の独断で決めることにしました。


 しかも、万が一足を踏み外して谷底へ落ちないために、橋を渡ってる間は車のヘッドライトで照らし続けることにもなりました。なぁんだ、余裕じゃないか、とK君は思ったそうです。明かりもあるなら、これは肝試しではなくただの散歩だ。度胸試しにすらならないと考えていました。


 まず最初に、S先輩が橋を渡り始めました。ヘッドライトで橋を照らしていますから、先輩が今どの位置にいるのかはっきりと分かります。先輩は普段通り短パンのポッケに手を突っ込んで、テクテクと歩き始めました。


 彼が橋の真ん中あたりに来た時でしょうか。S先輩はふと立ち止まって、辺りをキョロキョロしだしたのです。その際、こちらを確認するように何度も振り返りました。何か感じ取ったのではないかと、たもとにいた三人は思ったそうです。先輩はしばらく辺りを見回すと、何かに引き寄せられるように欄干の方へ歩き出しました。


「えっ、なになに? S先輩、どうしちゃったの?」


 女の子の一人がもう一人の子の二の腕にしがみつきながら言います。


「大丈夫だよ。きっと、俺らを怖がらせるための演出をしてくれているんだろ」


 そうは言ってみたものの、K君自身、先輩の行動に違和感を覚えていました。確かに先輩はそのキャラからよく人をからかう行為をしていたそうです。しかし、今回の彼の所作は明らかに不審な「何か」を感じているようでした。まさか、本当に出たっていうのか。K君は心の中で苦笑しながらS先輩の行動を注視しました。


 欄干の側まできたS先輩は、そのまま欄干の上に手を乗せました。そして、体重を預けるようにゆっくりと下を覗き込みます。


「ねえねえねえねえ。本当にやばいんじゃない?」


「いやいや、大丈夫だって」


「大丈夫じゃないって、大丈夫じゃないって、大丈夫じゃないって! ほら、今にも落っこちそうじゃん。やばいよ、本当にやばいよ」


「そんな心配することじゃないよ。いつものことでしょ。ねえ」とK君はもう一人の女の子に尋ねました。


「? ……そ、そうね。あと少し様子を見てみましょう」


 しかし彼女の様子は答えとは裏腹に目元が怯えの色を帯びていました。。確かに、欄干に手をかけた先輩の上半身はほぼ橋から飛び出しています。もし、そこにいたずら好きの誰かが背中を押した瞬間、真っ逆さまに落ちてしまいそうでした。


 先輩はなおも体を傾けて橋の真下を覗こうとしています。これ以上乗り出せばさすがに危なくなる。そう思って止めに行こうと思った次の瞬間です。——

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