0014 後悔はない


 いつもどおりの距離をいつもどおりの速度で走り終えたセガルタは、小型の端末のデータを確認してから家の中へ入った。熱気を囲い込むフードを背に落とし、流れる汗を袖口で拭う。それだけでは逃げそうにない熱気に、パーカーを脱ぎ捨てた。はあ、と体内の熱を逃がすように息を吐く。汗で湿った髪を大きな手で適当にかき上げ、脱いだパーカーで流れる汗を押さえた。

「あ、おかえり。すごい汗」

「ただいま。日差しがすごく強かった。……二人はそんなところで何をしてるの」

 ダイニングテーブルにはアビーとツキナが並んで座っている。引かない汗をそのままに近づけば、二人の前にはノートや問題集が広げられていた。

「お兄ちゃんが帰ってくるまでの、宿題。……でも、少し、難しくて」

「それで私が見てあげてるの」

 汗が落ちないように気をつけながら、覗き込む。四角や丸の図形があって、数字も書き込まれているが、なんだかさっぱり分からない。

「どう。分かる?」

 セガルタは少しも悩むことなく「全く」と笑った。

「アビーは学校に行ったんだっけ」

「私もバージルも卒業試験は通っているわよ。――と言っても、私は大して良い成績でもないんだけど。まあ、これくらいの問題ならね」

 どの町にも教育機関はあるが、そこへ通う子供たちの割合は町によって異なる。

「卒業しただけでもすごいだろ。俺は行ったことがないから、どれだけすごいかは分からないけど」

 セガルタがパーカーを丸めて洗面所の方へ向かった。

 アビーは左手で頬杖をつき、問題に取り組むツキナの横顔を見る。

「……ツキやセグを見てると、本当にそんなことがあるんだって思い知らされるわね。遠い話だと思っていたのに」

「……そんなことって?」

 ツキナがアビーを見た。

 アビーは眉尻を下げた笑みを浮かべ、ツキナの髪を撫でた。

「ヴェールだからって理由で、学校にもいけないこと」

「勉強をしなくても、シンズは狩れるからなあ」

 パーカーを洗濯籠に放り込んだのか、代わりにタオルを首にかけたセガルタが言いながらキッチンへ入った。透明なコップを掴み、冷蔵庫に入った水をそこへ注ぐ。

「その分、シンズとの戦い方なんかは幾らでも叩き込んでくれるけど」

 セガルタやウォルフ、それにツキナも以前にいた町でまともに教育を受けていない。

 ツキナは加護が弱いこともあってか基礎程度は教えられたようだが、それでもこの町ラムキルの同年代にはまだ追いつけない。

 彼女の事情を知るヴェール協会ケージが学校で使われる教材と同じものを用意してくれたので、それを使ってなんとか勉強を進めているところだ。

「セグもやってみたら。もっと簡単な問題から始めればなんとかなるわよ」

「えー。読み書きと簡単な計算は出来るし、十分だろ」

 喉を鳴らして水を飲み干した彼は、そのままツキナの向かいに座った。顔も洗ったので、汗が少し落ち着いている。それでも体はまだまだ熱い、じとりと浮んでくる汗をタオルで押さえる。

「それに、俺はツキみたいにじっと机に向かってらいれない」

「あらそう? あれだけソファにじっと寝転がってられるんだから、案外平気かもしれないわよ」

「あれは休憩。勉強は休憩じゃない」

「報告書もその姿勢でやるくせにねー」

 ラムキルに辿り着かず、バージルの世話にもなっていなければ、未だに読み書きも計算も出来ないままだったかもしれない。ただひたすらに異形シンズを狩るだけの日々を消耗していくだけだったかもしれない。

 ちらりとそんなことを思いもするが、セガルタはそれ以上のを考えるのをやめた。目の前に転がっていた赤鉛筆を手に取り、器用にくるくると回す。

「勉強したら、きっと役に立つって……お兄ちゃんたちが言ってくれるから……。それに、私は、セグたちみたいに、……ちゃんとした、ヴェールじゃないし」

「ツキ。ちゃんとってなあに。……そういう風に言うやつらが、ちゃんとしてなくて、酷いのよ。ツキは何も悪くない」

 むすっと唇をすぼめるアビーを見て、セガルタが円を描く赤鉛筆の先を見ながら小さく頷いて同意する。ツキナの自身を卑下しすぎる性格は、アビーのいうたちによるものなのだろう。

 そういう意味では、自身は大して酷くはなかったのだとも思う。

「ただの向き不向きだ。同じブラックだって怯えて戦えない人もいる」

「そうそう。セグみたいに連日喜んで血塗れになってくる人の方が少ないわよ」

「……喜んで血塗れになっているわけじゃない」

 セガルタは苦笑し、赤鉛筆を置いた。

「でも、まあ、俺はシンズが狩れるなら、どこでも――それこそ、前のところでもなんとかやっていけるだろうしなあ」

「……それ、冗談だとしても、ウォルが聞いたら怒るわよ」

 アビーのじとっとした視線をひらひらと手を揺らして躱し、背もたれに体重をかける。

 きっと自分はどこででも生きていく、その点には自信があった。シンズを狩れるのなら、どこででも生きていくだろう。血に汚れることを好むわけでは決してないが、狩りが生きる理由ではあるのだ。やってることだって、今も昔も変わらず、狩りだ。どこでも、変わらない。

「ツキはツキに出来ることを、好きなようにすればいい。俺は狩りがしたいから、そうしているだけ。俺がちゃんとしている、なんて思わないほうがいい」

 彼女もやりたいことが出来ますように、と願うほどではないが思う。抜け出すまでは出来なかったことでも、やり残したことでも、なんでも。彼女の手が広がりますように、と。

 そのツキナは鉛筆から持ち替えた消しゴムを動かさないまま、セガルタを遠慮がちに見返している。

「……セグは、どうして、逃げ出したの?」

「どうして?」

「前にいたケージのことを、聞いたことがないから……。アビーは、いろいろ前の町のこととか、話してくれるし……どんなところ、だったのかなって」

 しゅるしゅるとしぼむようにツキナの頭が下がっていく。

 セガルタはなんとなく尻のポケットに突っ込んであった端末を取り出しながら、「んー」と言葉を選ぶ。

「俺は、アビーみたいに面白い話が出来ないから」

 アビーも興味津々な視線を向けてきているが、話さない、と言う代わりに左右に首を振った。

 以前にいた町について話すことは得意でなかった。面白可笑しく加工して話すことも出来ないし、ウォルフからも無闇矢鱈と話すなと言われている。それに、仲間内だからと気を緩めて話して、情報が外に漏れる心配はあまりなくとも、その内容が相棒の耳に入るのが嫌だった。相棒の嫌がる顔を見たくない。

「――ただ、ここに来たことも、前の町で育ったことも、……うん、後悔はしていないなあ」

 ゆったりとした速度で話しながら、メッセージの受信を知らせる通知が来ていることに気がついた。メッセージを開く。

「逃げ出したのは事実だけど、悪いだけの場所でもなかった。俺は、ね」

 手早く指を動かして簡単なメッセージを送り、端末を伏せてテーブルに置いた。

 ウォルフと共に以前にいた場所から逃亡したのは今に続く事実だ。逃げなければならないとウォルフが判断し、それに引っ張られて今に続いている。彼が自分の手を取って強引にでも行動に出なければならない、そう彼に決断させるような状況ではあったのだろう。――それでも、あそこにいたどの時点の自身に聞いても後悔はないと言うだろう。

 決してここのように生ぬるくはなかった。あの状況に、感覚も麻痺していただろう。

 だが、そうだったからこそ――。

「ただいま」

 と、用事を済ませてきたらしいウォルフが帰ってきた。

 セガルタは話の終わりを告げるように、よいしょ、と席を立つ。

「おかえり。ごめん、まだ準備をしていない」

「メッセージがなかなか返ってこない時点でそうだと思っていた。俺も予定より早く終わったしな」

 今日は午後からウォルフと共に狩りに出る予定だ。

 ウォルフは荷物を肩にかけたままダイニングテーブルを覗き込む。

「ツキの勉強会か。セグに聞いても分からねえだろう」

「ウォルだって分からないだろ」

「さあ、どうだろうな。どの問題だ?」

「ええと……ここ。アビーに教えてもらってるの」

 ツキナが消しゴムをかけた問題を指差すと、ウォルフが一瞬しかめっ面になったがすぐに人差し指を伸ばした。

「その消したところ、惜しいな。たぶん、ここを計算してから、こっちを――」

 同じく分からないことを予想していたセガルタが目をぱちくりさせる。相棒が自分よりも遥かに勉強に熱心なことも、机に向かうことも知っていたが、まさか解けるほどだとは。

「そうね。ウォルのやりかたでいいと思うわよ」

 ふ、と自慢気に笑ったウォルフの目を見返す。

「……なんで分かるんだよ」

「バージルに習ったからな。出来ておいて損はねえだろう。狼の運営にだって数字は必要なんだぜ、セグ」

 アビーが「ウォル、もっと言ってやって」と笑う中、セガルタはウォルフから追撃される前に「準備をしてくる」とその場を逃げ出した。



 周辺調査の依頼をこなす中、セガルタは仕留めた猪のような形をしたシンズから刃を抜いた。黒が、足元にかかる。

「ウォルは」

 決して黒の血を浴びることに対して喜ぶことはない。

 それでも、仕留めたことに対する高揚感はある。

「後悔をしている?」

 この喜びに似た感覚は、たちに植え付けられたものなのか。

 分かりはしない。

「後悔? 今の状況にか?」

 ただ。

「してねえな。お前がいるのに、何を後悔することがあるんだ?」

「――俺も後悔なんてしていない」

 過去に残してきた悔やみは、ない。

 強くなるためにあった、自身の過去なのだから。

「急にどうした」

「ううん。ちょっと、気になっただけ」

 セガルタは剣を振って、血を払った。

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