0012 お片付け



 そろそろ夕食の時間を、と思ってツカサがキッチンに立ったところでトレーラーのエンジン音が聞こえてきた。

 今日はセガルタとバージルが一緒に出ている。気付いたついでに二人の片付けを手伝おうと思い、洗う前の手で勝手口を開けた。

「おかえり――う、わ」

 真っ先に認識した姿は黒かった。

「ただいま。……あれ。真っ直ぐ停めたと思ったのになあ」

 のんびりした口調は普段どおりだが、トレーラーの横から姿を現したセガルタの姿は普段以上に黒かった。トレーラーが斜めに駐車されていることなんか全く気にならないほど、頭から足先まで黒く汚れている。顔や手はタオルで拭いてあるようだが、汚れは落ちたというより伸びたといった状態だ。

「ぶつけてねーなら十分だろ。あー……酔ったわー……」

 そんなことをぼやきながら助手席から降りたバージルは、セガルタほど汚れていない。ただ、ツカサに気付いて「ただいま」と上げた手に血がついている。

 異形シンズの黒ではない。

 人間の赤だ。

「バージル、怪我を……!」

「あー、ちょっとな。かすり傷だから心配ねーよ」

 ツカサが駆け寄るが、赤だけではなく黒も付着しているその手に触れることは躊躇う。

「すっ転んだみたいなもんだよ。向こうでざっと消毒もしたし、もう血も止まってる」

「バージル。吐き気は?」

 するりと割り込んだセガルタの問いかけに、ツカサはぎょっとした。吐き気までするようなら、ただのかすり傷だと笑っていられない。傷口に触れた黒い毒を、体が打ち消しきれずにいるのかもしれない。傷自体は流したらしいが、体の中で悪さをしているのなら水を飲んだ方がいいのかもしれない。

 ツカサが大慌てで「水を」と家へ戻ろうとしたが、バージルは「そうじゃねーから」と同じく慌てて手を振った。反対の手はセガルタを指差している。

「こいつの運転が下手くそすぎて酔っただけ! ――セグ。お前もややこしい言い方をすんな!」

「えー、ごめん。吐きそうだって言うから」

 笑ったセガルタはそのバージルの背を押す。

「どっちにせよ、シャワーは早く浴びて。それからもう一度、ちゃんと消毒をして」

「……そうさせてもらうわ。セグ、片付けは任せたからな」

 バージルに疲労の色は見えているが、表情には無理がないような気がした。

 ツカサはほっとしながら、残されたセガルタを見る。彼は湿った毛先を伝って黒がぽたりと垂れたのも気にせず、車輪止めを置いていた。首にタオルはかかっているが、黒く汚れきっている。

「手伝うよ」

「ありがとう。助かる」

 いつもどおり柔らかい笑みを浮かべたセガルタがさっそく運転席を開けようとするのを止める。

「セグ、もう少し血を落としてからの方がいいかも。その手だと、その、逆に汚しそうだよ。その間に俺も準備してくるから」

「確かに。そのとおりだ」とのんきな返事をしたセガルタが濡れた上着から腕を抜く。その様子を最後まで見守ることもなく、ツカサは一旦家の中へと戻った。

 装備品ボックスを置いた棚から分厚いゴム製の手袋と、簡易のマスクを取り出す。

 加護持ちヴェールならばシンズの体液など大したことないのだろうが、加護のないツカサからすれば恐怖そのものだ。空気や水に触れれば含まれる毒性は壊れていくが、見た目では分からない。

 ツカサは肌を隠すようにしっかりと準備をしてから最後に長靴に履き替えた。

「お待たせ。手伝うね」

 そう言って出ていくと、頭から水をかぶったセガルタがしかめっ面で黒いタオルを絞っていた。いくら流しても黒が染み込んでいるのだろう。ツカサは苦笑を添えて新しいタオルを手渡し、自身は運転席を開けた。

 汚れ防止に被せているシートを引っ剥がして洗い流そう――今日のセガルタの汚れ方を見れば拭き取りだけでは済まないと容易に想像が出来た――と、手順を考えていた頭が止まった。

 ぐ、と喉が鳴る。

 頬がひきつる。

「きょ、今日は……すごかったんだね」

 防水になったシートの上には粘ついた黒い水たまりが出来ていた。足元にもこぼれているし、ハンドルも汚れている。これでは運転の上手い下手に関係なく匂いで気分が悪くなりそうだ。

「バージルの怪我もあったし、慌てて帰ってきたんだ。……思ったより汚れたなあ。ウォルが怒るかな……」

「い、急いで帰る理由もあるんだし……そこまでは……怒られないんじゃないかな……」

 思わず怯んだツカサがゴーグルの下で何度も瞬きをし、ごくんと唾を飲み込んだ。狼の一員となって黒の血は見慣れてきた。それでも、この量は心臓が煩い。

「無理はしないでいい。こっちは俺がやるから、カサは他のところを拭いて」

 今日作ったのか、真新しい、こすったような傷がある腕が横から伸びてきた。

 ツカサはふるふると頭を振る。

「……ううん、平気だよ。それに、二人で剥がさないと溜まってる血がこぼれそうだし」

「そう。それじゃあ、向こうからシートの端を持っていてくれる? こっちは俺が持つ」

「うん。分かった」

 黒の水たまりに平然と手をつくセガルタをちらと見てから、ツカサは助手席の方へ回った。



 こまめに手袋の血を洗い流しながら、各所に散りまくった黒を拭き取っていると「あ、おかえりー」と声が聞こえた。

「お疲れさま。……今日ってそんな風になるような内容だった? ただの周辺調査だったんじゃないの」

 外出していたアビーが帰ってきたらしい。ツカサがもう不要だと判断したゴーグルを上げ、トレーラーの影から顔を出す。声をかけると、気付いたアビーも「ただいま」と手を振った。

「罠の様子を見に行ったら、ちょうど群れと鉢合わせをした」

「それは大変だったわね。……とはいえ、早く片付けないとウォルが帰ってくるわよ」

「……見つかる前にこのシートだけは綺麗にしておきたい」

 苦笑しているアビーの後ろに見えた姿に、ツカサが気がついた。同じ方向を見たセガルタもちょうど現れた姿に気付いているだろう。セガルタはどんな顔になっただろう、と思わず考えてしまう。

「残念だったな。一足遅い」

 肩にバッグをかけたウォルフが腕組みをして立っていた。

「ずいぶん汚れたまま乗ったみたいだな」

 セガルタが目線を逸らせたのが、分かった。黒い頭がゆるりとそっぽを向く。

「ウォル、おかえり。えーっと、バージルが怪我をして、それで急いで帰ってきたみたいで……」

「まー、ただのかすり傷なんだけどな」

 ツカサがセガルタの援護に出ると、ちょうどバージルも勝手口から出てきた。シャワーを浴びて消毒も終わらせたのだろう、腕にはガーゼが貼られている。

「俺は大丈夫だって言うのに、セグが聞かなくてなー」

「……血が、出ていただろ」

 む、とした口調のセガルタがバージルを振り返る。

 そのバージルは「自分が怪我する分は何も言わねーくせによ」と笑いながら、ウォルフの方へ歩いていった。セガルタの視線を連れて行きながら、ウォルフの肩に腕をかけた。

「――ってことだからよ、あんまり怒ってやるな。俺の血も派手に散っただけで大したことねーわ。すぐに止まったしな」

 ウォルフがバージルの腕の重みに負けるように、肩を下げた。ふ、と息を零して唇の片端を持ち上げる。

「怒らねえよ」

 肩にかけた荷物をアビーに手渡し、ツカサを追い払うように手を振った。

「カサ、ありがとう。もういいからシャワーを浴びてこい。今日はお前が晩飯の当番だろう」

 そして、彼は雑巾を手にとった。

「ここからは俺とバージルが片付けに参戦だ。さっさと終わらせるぞ」

「シャワー浴びたところなんだが、ま、しょーがねーわな。……おー、セグ。その手で綺麗なとこ触んな」

 ツカサは賑やかに後始末を始める三人を背に、アビーと一緒に家へと戻る。と、アビーが彼の肩をぽんと叩いた。

「晩御飯の準備、手伝うわ。片付けで疲れたでしょ」

「え、でも、大丈夫だよ。大した事もしてないし……」

「いいからいいから。早くしないと、お腹を減らしたセグが『まだー?』って煩いわよ」

 からからと笑ったアビーの背中を押され、ツカサは階段へ踏み出した。「……それじゃあ、お願いしようかな」と今夜のメニューを伝えてから、着替えを取りに自室へ駆け上がった。

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