0008 どこも悪くない
ツキナが風呂場の掃除を終えてリビングに戻ると、ソファにはいつもどおりのセガルタがいて、その隣にはウォルフが立ったままだった。
「……まだやってるの?」
あの二人の立ち位置は彼女が掃除を始める前から変わっていない。
「セグ! ごねたって連れて行くぞ!」
「行きたくない……」
しかも言い合っている内容に進展もない。
ツキナがこそこそと尋ねたバージルは掃除の間に外で煙草を吸っていたのか、ほのかに煙の匂いがしていた。
「まだやってるぞ。流石にもう終わる頃だと思って戻ってきたんだけどなー……」
呆れたように笑ったバージルが壁にかかった時計を見上げた。朝からずっと続いているやりとりだが、そろそろ終わりの時間も近い。
セガルタはソファの背にしがみつくようにして顔をうずめているが、ウォルフがその首根をぎゅっと握った。
「どこか悪いのか」
「どこも悪くない。だから行きたくない」
「悪くねえなら安心して行けるな。立てよ」
フードをぐいと引っ張られ、セガルタは「嫌だ」と呻きながらソファに顔を押し付けて抵抗している。
「セグ」
「嫌だ」
「終わったら飯に行こうぜ」
「飯だけなら行く」
「そんなわけにいくか。いい加減にしろよ」
はーあ、と盛大なため息をついたウォルフが更に強くフードを引いた。
セガルタは首が締まって、たまらず「ぐえ」と顔を上げる。しかし、腕は頑なにソファから離れない。
「ったく、いつまでソファと一体化しているつもりだ」
時間だ。
ウォルフはフードから手を離し、セガルタの背中をペシンと叩いた。
「行くぞ」
「えー……」
すると、セガルタはしぶしぶと体を起こした。表情は晴れない。
一体どんな難敵を相手に――と事情を知らない者には思われそうな渋り方をしているセガルタだが、これから向かうの町の外ではなくいつもの
「行きたくない」
「はいはいそうかよ。行くぞ」
「行きたくなあい」
「フードは被らなくていいのか」
「被る……」
ウォルフは立ち上がったセガルタの腕をがっちりと掴んだまま、有無を言わさず引っ張っていく。
「それじゃあ行ってくる。昼飯はこいつと外で食ってくるから、後はよろしくな」
「ウォルだけ行ってくればいいのに……。行ってきます……」
バージルとツキナの「行ってらっしゃい」に名残惜しそうな顔をしたセガルタだが、腕を離す気配のないウォルフに引きずられるようにして連れ出されていった。
朝一からずっと続いていた二人のやりとりがなくなり、リビングは静かになる。
「……普通の、定期検査、だよね?」
ツキナがバージルに確認をとると、彼は苦笑いで「そうだな」と頷いた。
「ただの定期検査。なーんにも特別なことなんてねえよ」
セガルタが行きたくないとごねまくっていたのは、ケージで行われる定期検査だ。
依頼をこなす
「セグって……注射が苦手なの……?」
検査と言っても、難しいことはない。
ツキナが想像できる苦手なことは、血液検査用の大きな針をした注射くらいだった。あとは幾つか測定する項目があって、怪我や不調の有無などを聞いてくれる問診があるだけだ。怖くてぎゅっと目をつむってしまうようなことは注射以外にない。
「あいつが? 自分でイルを打つくらいだしな、慣れたもんだぜ」
「そうなの? なんだか、すごく、行くのを嫌がってたから……てっきり」
「お、ツキは注射が苦手か? 俺もあのでっかい針は見てられねーわ」
苦いものを噛んだような顔をしたバージルが頬杖をついた。
「まあ、セグの場合は……そうだなー。ツキがここに来てからあいつの検査が回ってくるの初めてだもんな。毎回なんだよ、あれ」
彼はひらひらと空いた手を揺らし、苦笑のまま続ける。
「セグが嫌がってんのは注射じゃなくて問診の方だわ。あの他人嫌いは医者と顔を突き合わせてお話ってのが苦痛で仕方ねーのよ」
家の中では明るく陽気なのんびり屋であるセガルタだが、それはここには仲間しかいないからだ。一歩でも外に出れば、彼は口数を減らしてしまうし、とってつけたような笑顔を固定してしまう。
「……ここのお医者さん、とっても優しかったのに」
最近ここのケージに登録したツキナは、登録検査をしてくれた医者の記憶もまだはっきりしている。緊張してかちこちだった彼女に優しく語りかけてくれ、心を解してから進めてくれた老年の医者だ。
「あいつの場合は優しいだとか良い人だとかは関係ねーからな。ケージの医者だって信じてねーのよ。ほんと、セグの悪いところだよなー、はは」
心配しなくてもあのじいちゃん先生は信用していいからな、と付け加えたバージルが両手を組み、天井に伸ばした。
「ま、どうしようもねーわな。根深いっつうか、なんていうか。あれでもマシになってんだけどな。……ま、検査くらいはごねずに行ってくれとは、俺もウォルも思ってるよ」
肩をほぐしながら立ち上がったバージルを見ながら、ツキナは出会ってすぐの頃のセガルタを思い出さずにはいられなかった。
距離があった、なんて一言では足りないような、目に見えない拒絶。あの頃の彼は怖かった。あの張り付いた笑みの奥、目は笑っていなかった。
今でも彼がこちらの目を見て笑ってくれると、変な気分になることがある。あの時の怖さを隠していそうで、ざわつくのだ。
「とはいえ、医者を仲間とはいわねーけど、信用するまではまーだまだかかるだろうなー」
バージルたちが言うことを信じるのであれば、ツキナとツカサはセガルタが最速で受け入れた仲間らしいのだが、それでも両手足で数えられるような期間ではなかった。同じ家で暮らしてあの調子だったのだ、医者がその座につけるのは遠く先のことだろう。それか、そんな日は来ないのかもしれない。
ツキナはそうだねと頷くことも違う気がして、曖昧に首を動かす。と、視界に時計が入った。セガルタもウォルフも外で昼食を済ませると行っていたが、夜はいつもどおりのはずである。
ちょうどタイミングよく自身が食事当番だ、とツキナは疲れて帰ってくるだろう彼のために美味しいものを作ろうと決めた。
「……私、お兄ちゃんと買い出しに行ってこようかな。今日のセグは何が食べたいと思う?」
「お、ツキは優しいねー。あいつの場合、なんでも食うだろうけど、そうだなー……」
混雑する時間帯はもう外れていて、セガルタとウォルフが入った店も人がまばらだった。
注文を済ませた二人は先に出された水を飲み、息を合わせたかのように肘をついた。
「お前の問診って時間がかからねえことがないよな……」
もう少し早い時間で終わる予定が伸びたのは、決してセガルタだけのせいではない。こういうものは少しずつタイムスケジュールからずれていくものだ。だが、検査の終了時間を遅らせた原因のひとりは確実にセガルタだった。
「……同じことを何度も聞かれる」
毎回、家を出るまでに時間がかかるセガルタのことが考慮され、彼の検査はその日の最後になるよう組まれている。
「お前がきちんと答えていないんだろう」
「大丈夫なことに、大丈夫って答える以外がある?」
しかも彼の問診は時間がかかる。早く終わらせたいという気持ちが全面に出過ぎるせいか、返事がおざなりすぎるのだ。それに、身体的には全く問題のないセガルタだが、医者からは目をつけられているせいで余計に念入りの問診になっている。
「そっぽ向いた野郎が何を聞いても大丈夫しか言わねえんだろう。そりゃあ終わるもんも終わらねえよ」
ウォルフが鼻で笑ってやると、セガルタは疲れた顔でこちらを見ていた。見られないものは仕方ない、と文句を言っている顔だ。
その視線を誘導するように、ウォルフは自身の鎖骨のあたりを人差し指でトンと叩く。
「ちゃんと目を見ろとは言わねえが、このあたりなら見られるだろう。お前の場合、視線を横へ逃がすから余計に印象が悪い」
「……見てられない」
「胸元でもいい。とにかく正面を向けって」
「正面は向いてる」
「顔だけじゃねえ。目も、正面に向けろよ。――そんなだから問診が終わらねえんだろ」
ぷ、と片頬を膨らませたセガルタが目線を横へ逃した。
ちょっとだけ人の目が苦手なだけなのに、と声には出していないがウォルフには分かる。くつくつと笑いながら右手を向かいに伸ばした。相棒の頭にあるフードをぺいっと後ろへ落とす。
「飯を食う時は顔を出せ」
「……まだ来てない」
「もう来る」
ウォルフが厨房の方へ目を向けると、注文の品がトレイに乗って運ばれてきた。「はいどうぞ」と置かれたそれは見た目でも匂いでも空腹を刺激する。
二人は仲良く「いただきます」を揃え、一旦途切れた会話を再開させながら食事を始めた。
「他には何か言われたか」
「働きすぎだって言われた。――昨日はわざわざ休んだのに」
「そういうことじゃねえだろ」
「仕事っていうか、狩りはもう日常というか……趣味というか……」
「はは、いい趣味だな」
笑ったウォルフがスプーンを目の前に突きつけた。セガルタと目が合う。
「大丈夫だ。俺は分かってる」
「何が」
「お前のそれは正常だってことを」
セガルタも小さく吹き出して笑い、肩をすくめた。
「ウォルが分かってるなら、いいか」
「俺はお前のそういうところも好きだしな」
「わーい」
気の入らない喜びに、ウォルフはにいと笑みを鋭くさせた。
「ただ、その大丈夫が医者にも伝わる努力はしろよ」
「……えー」
「じゃなきゃ、いつまで経っても最初に付けられた要注意が外れないぜ」
「大丈夫だって言ってるのに、信じてもらえない」
「だから、それを正面を向いて言えって言ってるんだろうが」
わざと視線を外していたセガルタが、すぐに正面に視線を戻した。そして、柔らかそうな目を細め、穏やかに笑う。
「大丈夫」
ウォルフは優しい笑みを鼻で笑い飛ばし、首を振った。
「俺じゃなくて医者相手にそれをやれって言ってんだよ、馬鹿野郎」
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