0006 ツキナ・ツクシ



「――分かった。じゃあそこで落ち合おう」

 余韻もなく通信を切ったセガルタはその手ですぐさま次に通信を繋げた。不安に立ちすくむツキナの頭をぽんぽんと軽く撫でているうちに、次へと繋がる。

「俺だ。アビー、そっちはどう。ウォルとバージルとは連絡がとれた。向こうで合流する。――そう。完全にど真ん中。でも濃度はそこまでじゃないみたいだ」

 セガルタはいつもはのんびり調子の言葉を少し早く回しながら、すでに玄関近くに用意した幾つかの武器をちらりと見た。

 今日は依頼を受けて町の外へ出ていったのはウォルフとバージルだけだ。これだけなら何も問題ではなかった。

「車両は? 分かった。すぐに出よう。――うん。じゃあアビーからカサに伝えて」

 ところが、二人が調査に向かった周辺の黒の霧フォグの濃度が急激に上がり始めたのだ。それをいち早く観測したケージから緊急要請が入ってきて、かなり慌ただしい。

「ツキ。アビーが戻ったらすぐに出る。カサにもすぐ戻るようアビーが連絡してくれるから、二人はこのまま家で待っていて」

 町の中にも影響がでて警報が鳴り響くような悪い状況ではない。フォグが発生している地点は町からも離れているし、今日は風も弱い。

 ツキナを見下ろせば、深い湖のような碧眼が不安に染まっていた。ただ、彼女は自身に降りかかる危険を心配しているわけではないだろう。

「わ、私……何か、手伝うこと……」

「じゃあ、バージルのマスクを持ってきて。アビーのは……必要になるほどじゃないと思うけど、うん、一応持ってきておいてくれる?」

 彼女の控えめな声をかき消さないように、それでも強く、セガルタは頼んだ。

 一般人である彼女の兄とは違い、彼女は加護持ちヴェールだ。しかし、彼女はこういった緊急時であろうとケージから呼び出されることはない。

「セグとウォルの分は……?」

「いらない。この程度、ただの空気と変わらない」

 ヴェールはフォグの耐性に合わせてランクが付けられている。

 セガルタとウォルフのようにフォグが黒く視認可能になるような濃度であっても行動可能であるヴェールはブラック、ツキナのように一般人に毛が生えた程度の加護しか持たないヴェールはホワイト、そして、その間に属する殆どのヴェールはグレーと分けられている。グレーの中でも耐性の低いライトグレーと、耐性の高いダークグレーには分かれるが、普段の依頼を受けるにあたってはあまり差はない。

「バージルさん、大丈夫……?」

「マスクはトレーラーに常備してある。俺が持っていこうとしてるのは万が一の予備」

 だが、濃度が普段以上になる場合は差がないとは言っていられない。

 アビーはダークグレーではあるが、バージルはライトグレーに属する。彼はケージから出された濃度予測値の中を生身で長時間動き回れるほど加護が強くない。

 ケージの予測では濃度はこのままライトグレーがマスクを装着する基準を越える。ただ、先程相棒から直接聞いた話では、実際の現場はそこまで上がっていないようだ。逃げる余裕はあるだろう。もちろん油断は出来ないが、ヴェールの仕事も長い二人だ、この程度は慣れた事態でもある。

 セガルタは装備品が入るボックスを開け、カプセルに入った薬液イルを手のひらにしまい込んだ。そして、中身の選別が面倒になってボックスそのものを片腕に抱えた。

「セグ、これでよかった……?」

「ありがとう。ツキは心配せず抜群に美味い晩飯を用意していて。楽しみがあるほうが早く帰ってこようって気になる」

 笑いながら、ツキナが持ってきてくれたマスクを二つ、ボックスの蓋の上に置く。物々しいマスクが二つ、こちらを見ている。

 と、軽いクラクションが二度。アビーが借りた車両で戻ってきたのだろう。出てこいの合図だ。

 自身の武器はすでに身につけているし、アビーの分もすっかり準備してある。

「……行ってらっしゃい」

 セガルタは手のひらのイルを口に放り込み、奥歯でそれを噛み割った。

「行ってきます。――大丈夫」

 玄関先に置いてあった武器を空いた手のひらでしっかりと掴み、強気に微笑む。

「ここで待っていて。俺は必ず全員を連れて戻ってくる」

 一瞬たりとも安堵の色にならなかった彼女の碧眼を見返し、セガルタは家を出た。

 ツキナ・ツクシ。

 彼女は待っていてくれる人がいるだけで心強いことに、まだ気づいていない仲間だ。



 目が覚め、時計を見た。朝はまだ遠い。

 ツキナはもぞもぞとベッドの上で身じろぎしていたが、一向に眠れそうにないと分かって体を起こした。沈んでいる気持ちをなだめるように息をつく。

 あれからセガルタたちはそこまで遅くもならず戻ってきた。全員揃って夕食を取り、緊急事態が嘘のようにいつも通りの夜だった。

 だが、ツキナの気分は上がってこない。

 ヴェールだというのに役に立てないこの身が、どうしても気持ちに影を落とすのだ。生まれ持った加護の強さは彼女自身がどうこう出来るものではない。しかし、考えずにはいられない。自分がもっと強く、せめてライトグレーになるくらい耐性があればよかったのに、と。

 以前、似たようなことをセガルタに零した時は、耐性があってもそもそも未成年には依頼が来ないと微笑まれた。ただ、そう言った彼自身は未成年だろうが関係なく依頼を引き受け、ケージで活躍していたのだ。説得力がない。

 ツキナは目を伏せ、自室を出た。静かで真っ暗な廊下――を想像していたが、階下から明かりが漏れている。誰かが消し忘れたのかもしれないと思いながらそろそろと階段を降りた。

 リビングに光。

 階段に隠れるようにして覗くと、ソファにはセガルタがいた。後ろ姿でもすぐ分かる。黒髪は彼しかいないし、あのソファは彼のお気に入りだ。

 その彼がぱっと振り返った。ツキナがぎょっとしているうちに、彼は耳に刺さっていたイヤホンを外して柔らかい笑みを浮かべる。

「ツキか。どうした」

「目が覚めちゃって……。セグは……寝ないの?」

「あー、うん。ちょっと」

 彼のいつも通り、凪いだ笑い方。そこにほんの少しの苦味が混ざった。

 ソファの方へ歩くと、彼は右手を何か棒状のものを握るような形にする。そして、見えないそれを左腕に突き立てるジェスチャーをした。

「行く前に飲んだのに、うっかり向こうで一本打った」

 何をとは説明されなかったが、ツキナには分かった。濁してはいるが、イルの過剰摂取だろう。まだ神経が昂ぶっていて眠れないのかもしれない。

「ウォルたちには内緒にしておいて。先に飲んでいたことに気が付いていない」

 調整されたイルでさえ間違って使えば毒となってしまうツキナには到底不可能な使い方である。真似はしたくないが、その強さは羨ましい。

「ボックスの残りを確認されたら……気づかれると思うよ」

「明日飲まずに出て、出た先でひとつ飲んだってことにすれば数の帳尻は合う」

 からからと笑ったセガルタが体をひねって、背もたれに片腕をかけた。眠気は全くないようで、前髪を上げて両方とも見えている緑の瞳はぱっちりと開いている。

「夜更し仲間の秘密。ツキだってあんまり夜更しをしているとカサに怒られるだろ」

 黙っていてあげよう、とセガルタが人差し指を立てて口の前に立てた。そして、彼は首を傾げ、ツキをまっすぐに見つめる。

「それで、ツキはどうして眠れないの。夕方のことが怖かった?」

「みんなは私と違って強いから……。大丈夫だと……思っていたけど……」

 怖いとは少し違う気がするのだが、上手く説明が出来ない。

 答えている間も逸れない深い緑の視線から逃げるように、ツキナは目を伏せた。出会ってから暫くはこちらの目を一切見なかった彼に、こうやって覗き込まれるのはまだ慣れない。

 ツキナが上手く出てこない言葉に困っていると、セガルタはソファに置いていた端末を持ち上げて彼女に見せた。先程までイヤホンをつけて何かを見ていたらしい。

「眠れないなら、一緒にどう」

 ツキナが画面を覗き込むと、幾つかのタイトルと一緒にパッケージ画像が並んでいた。昔の映像作品だ。知らないほど昔は多様なこういった作品が次々と生まれ、大きなスクリーンで流されていたらしいが、今ではデータで残るだけだ。

「見ていて眠くなれば寝ればいいし、面白くなくても寝ればいい」

 けらけらと笑ったセガルタが手招きをするので、それに誘われる。夜更しに少々の罪悪感を覚えながら、彼が開けてくれた隣に腰かけた。

「ちょうど見終わったところなんだ。どれにするかツキが選んでいいよ」

「……でも、セグの見たいものが」

「ここには俺のお気に入りしか入ってない」

 本当に自分が選ぶのかとツキナがセガルタをうかがい見る。彼はにこにこと笑ったままで次を選ぶ気配がない。

 仕方なく、躊躇いながら、茜色が綺麗なパッケージを指差した。

「じゃあ……これ」

「いいセンス」

 彼がイヤホンの片側を渡してきたので、そうっと耳に差し込んだ。片耳ずつで聞けるようにか、彼が設定をいじっているのをぼんやりと眺めて待つ。

 茜色の、夕方だろうか。今日も同じような夕暮れの色をしていた。

「黄昏」

 タイトルを呟いた彼の声は柔らかい。

「夜更しにぴったりだ。夕焼けの場面がすごく綺麗で、落ち着く」

 静かな夜。隣の暖かさを感じながら、ツキナは端末の画面を注視した。彼の大きな手が再生のボタンに優しく触れる。

 そっと横顔を見上げると、緑の瞳がこちらを見返した。音もなく笑ってくれた目が細くなる。

 セガルタ・ゼロ。

 彼は強くて優しくて、でも全てを見透かしてきそうで少し怖い、だけど頼りにしていい大人だ。

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