0003 アビー・アライヴ


 息が弾んでいた。心地よく流れる汗を首にかけていたタオルで押さえる。

 腕に巻いて固定していた小型の端末を操作すると、走った距離と時間が出ていた。いつもと大差ない速度に満足してから、流していた音楽を止める。片耳につけていたイヤホンからも音が消えた。

 セガルタは深呼吸を一度してから鍵のかかっていない玄関を開けた。熱がこもっているフードを背中に落とし、服の裾をバタバタと動かして風を送る。

「おかえり」

 靴の砂を落として家に入ると、待ち構えていたように声をかけられた。

「ただいま」

 家といっても、血の繋がった家族と暮らしているわけではない。

 ここにいるのは狼と名付けたチームのメンバーだ。自身を含めて加護持ちヴェールが五人、そして加護のない一般人が一人。

 入ってすぐのリビングにいたアビーも、狼の一員で、ヴェールの一人だ。まっすぐに伸びた赤薔薇のロングヘアを後頭部できっちりとまとめたいつもの姿である。

「ウォルは?」

「カサとツキと一緒に買い出し。ちなみに昼も外で済ませてくるって」

「ちぇー。それなら俺も連れて行ってくれればよかったのに」

 あまり外出を好まないセガルタだが、昼食付きの外出なら出てもいい気になる。

 夕食は当番制で作っており、基本的にはこの家で食べるのがルールだ。しかし、誰が家にいるかがその日で違う昼食は各自で用意しなければならない。一人で外食に行くのは腰が重いし、作っても構わないがそれはそれで面倒くさい。しかし腹は減る。

「なあに。今日は出てもいいなって気分なの」

「……ウォルとなら」

 アビーが何を言い出すのかなんとなく察したセガルタが予防線を張る。

「それなら訓練に行くから相手になってよ」

「俺がなんて言ったか聞いてた?」

 その予防線もアビーの手にかかればいとも簡単に引きちぎられてしまう。

 セガルタは汗をかいた姿を見せつけるように両手を広げた。

「汗だくだし、行く気分じゃない」

「汗をかいたついでだ、どうぞ連れて行ってくれってポーズ?」

「俺の話を聞いてよ」

 こちらを完全に無視するアビーの解釈に笑いながら、セガルタはキッチンに入った。コップに水を注ぐ。

「走って疲れた。行くならひとりでどーぞ」

「疲れるほど走ってないでしょ」

 普段は走ってからでも依頼をこなす。毎日の習慣というほどではないが朝に走るのはただの体をほぐすためのもので、疲れ果てるようなことではない。疲れ果てるような体力ではやっていけない。

 しかし、外へ――しかもアビーの行き先は人が多い――出ると、体力とは別に気力が削られる。

「早起きしたのは走るためで、ケージに行くためじゃない」

「早く起きたから時間もあるでしょ。ねえ、セグ。相手になってってば」

 空にしたコップにもう一杯を注ぐ。

 アビーとは訓練と称して時々手を合わせる。それは出会ってすぐの頃から、今もずっと続いている。そのあたりにいる下手な男よりも強い彼女を相手にするのは楽しい部分も多いし、今日みたいに空いた時間を潰すにも苦労しない。

「報告書が――」

「終わらせたって昨日の夜に言っていたじゃない」

 適当な嘘もあっさり不発に終わり、セガルタは次の嘘を考えて視線を斜めに持ち上げた。

 絶対に行きたくないと頑なに主張するほど気分が乗らないわけではない。そんな気分の時はもっときっぱり断るし、アビーもしつこくしてこない。だが、出不精が出ていく気になるような魅力がまだ足りない。

 水を飲み込みながら言葉を探していると、アビーのはちみつ色の瞳がこちらを見上げていた。目つきの悪さを気にしていると本人が言っていたことがあるが、こうやって下から睨め上げるようにされると余計に彼女の鋭さが際立つ。

 ただ、その鋭さが身を切るほどかと問われると、首を傾げる。本人がぼやくほど、怖い目ではない。

「昼なんだけど」

「うん」

「バージルが作るって言ってたわよ。ここに残ってたら、たぶん――いえ、絶対、あの人はあんたの分まで作るけどそれでいいの」

 セガルタがぴたっと口を閉ざした。

「――私に付き合ってくれたら、昼ご飯くらいは奢ってあげる」

「よし、行こう」

 今までの態度を一転させたセガルタに、アビーは「そうこなくちゃ!」と笑った。

「気が変わらないうちに用意して。私はいつでも出られるから」

「俺も出られる」

 もとより運動をしていた格好だ。また汗をかくのにわざわざ着替えることもない。

 アビーはご機嫌な調子で奥の部屋を開けて「私とセグも出てくる。ついでに昼も食べてくるわ」と声をかけている。

 彼女の強引な誘いにのる羽目になるのはいつものことだ。これがなければもっと家に閉じこもっているだろう。

 苦笑いに楽しみを混ぜ、セガルタはフードを被った。

 アビー・アライヴ。

 彼女はこんな出不精でも嫌な顔ひとつせず連れ出してくれる、強引で力強い仲間だ。



 家からヴェール協会ケージまでは歩いていける距離だ。道中にくだらない話でもしていればあっという間に到着する。

 ケージはヴェールが登録し、依頼などを受け取る場所だ。町を統べる教会クレイドルの管理下に置かれた、ヴェールを囲いヴェールを助けるための組織である。

 アビーは正面の扉をくぐり、後ろをちらと見た。相変わらずフードを被っているセガルタがきちんとついてきている。見られたセガルタはにっと笑い、肩をすくめた。

「……ここまで来て帰ったりはしない」

「昔、帰ったことがあったじゃない」

「あの頃はアビーがもっとしつこかったからなあ。ちょっと面倒くさくて」

「ちょっとぉ? かなり面倒臭がってたわよ」

 まだアビーが狼の一員でなかった頃のことだ。そこから距離を縮めていったのも、そもそもの出会いもこのケージだった。

 ケージではヴェールの管理や、彼らへの依頼や報酬関係が主な業務だが、他にも様々な対応をしてくれる。異形シンズを倒すための基本的な装備を割安で用意してくれたり、相談にのってくれたり。そして、アビーがセガルタと出会った訓練ルームもケージで用意されるもののひとつだ。

 訓練ルームだと言っても特別な仕様がされているわけではない、ただの大きな屋内施設というだけである。端にはトレーニング機器が備え付けられているが、古いし数も多くはない。広さだけが取り柄の場所だが、ヴェール同士が交流し、繋がりを持つ場としては大いに活躍している。

 アビーが横開きの扉を開けて中に入ると、すでに何人かのヴェールがいた。端に座り込んで話し込んでいる者もいれば、トレーニング機器で鍛えている者や、ダミーの武器で素振りしている者と様々だ。

 見知った顔も多く、野太い挨拶に手を上げて返事をしながら、人の少ない方へ歩いていく。

「……人が多い」

「まあ少ない時間帯ではないわよね」

 ヴェールのためにある協会だ。ここを使うのはヴェールばかり。アビーたちと同じく町と周囲を守るために依頼をこなす者たちだ。

 そのため、一般人ばかりの町中ではともかく、こんな中ではセガルタは名前だけではなく顔も知られた有名人である。珍しく出てきた彼を見て話題をこちらに向ける人たちの隣を通り過ぎた。アビーはちらと隣の彼を見上げてみると、表情が固くなっていた。笑みはキープしているが、ただそれだけ。

 有名になると大変ね、なんて他人事を思いながら特に仲のいい仲間連中を見つけて手を上げた。

「やっほー」

「おう、アビー。今日は巣から引っ張り出せたんだな」

 ベテランの男がセガルタを見て笑った。

 アビーたちがチームの全員で共同生活をしていることを知っている者は多い。気付けばその家は狼の巣と呼ばれるようになっていた。

「そう。暇そうにしていたから」

 暇なんて言っていない、とセガルタが口を開かないのはここが外だからだ。巣の外での彼は狼というよりは借りてきた猫のように大人しいことが多い。

「セガルタ、たまには俺たちとも手を合わせてくれよ」

「……今日は先約があるから」

 答えたセガルタはのんびりと落ち着いた口調で、顔も笑ってもいるが、なんとなく声は固い。

 そのまま彼はアビーの肩を手のひらでぐいと押してきた。早くやろう、ということだろう。

「そういうことだから、またね。……一回くらい相手をしてあげればいいのに」

「えー。まあ、気が向いたら」

 そう言って小さく笑ったセガルタと目が合う。フードの下、影になった緑色の瞳は暗い。しかし、影に沈んでいるわけではない。

 彼の気が向くことはまずないだろう。人と関わりたがらない彼と目を合わせ、手を合わせることが出来るのを未だに不思議に思うこともある。

「ま、あんたの好きにしたらいいんだけど」

「それじゃあ今日はみっちりアビーの相手をしよう」

「あら嬉しい。へとへとにしてやるわよ」

「へー。楽しみだ」

 アビーが屈伸をしたり体側を伸ばしたりとストレッチをしている間、セガルタは肩を回す程度だった。朝一で走っていたので体の準備はもう済んでいるのだろう。

 体をほぐし、セガルタの前に立つ。

 彼は立っているだけだ。構えに入ることもない。普段と変わらず、薄く笑ったまま、隙だらけの彼に勝てたことはない。

 圧倒的な力量差。

 それでも、食らいつく。

「さあ、行くわよ」

「いつでもどーぞ」

 彼に勝てる日は来ないかもしれない。それでも目指す強さはそこにある

 セガルタ・ゼロ。

 彼は強いが、それに圧倒されるわけにはいかない、一歩でも追いつきたい目標だ。

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