0002 ウォルフ・ヴォード
道の端に停まった小型トレーラーの後ろから降りたのはセガルタだ。腰には細身の剣を二本下げていて、他に荷物はない。準備運動の代わりにもならないが、肩を回してほぐす。
「セグ。イルはどうする」
声を振り返ると、自然と視線が上がった。まだトレーラーに乗ったままの姿は少し高い位置にある。
「ウォルが使ってもいいって言うなら使う」
「今日の程度ならいらないって言えよ」
そう言ってトレーラーからひょいと飛び降りたのはウォルフだった。明るく、日に当たれば金にも近くなる茶髪に、晴れた日の水たまりみたいに青い瞳。見慣れた相棒の顔だ。
「使うなって言いたいなら、聞くなよ」
「使わないって言わせる練習だよ。最近、使いすぎじゃないか、そろそろバージルから小言をくらうぞ」
セガルタが不服だと言うように唇を尖らせるが、ウォルフはそれを見てふっと鼻を鳴らすだけだ。
そのウォルフは銃剣を持っていたが腰には短剣も携えているし、背中にはしっかり詰まったボディバッグが斜めにかかっている。剣以外は手ぶらのセガルタとは違ってしっかりと準備がされているようだ。
「さーて。それじゃあ素面で行こうかな」
セガルタは笑いながら首を手を当て、ゴキと鳴らした。
「ま、今日は簡単な見回りだ。気楽に行こうぜ、相棒」
「えー。気楽で済まないくらいの方が俺は楽しい」
「馬鹿言え。俺は楽しさより楽な方がありがてえよ」
「……最近、でかい獲物がいなくて体が鈍りそうなんだよ」
「平和でいいことだろうが」
横を見ると、ウォルフも同じようにこちらを見ている。
二人で揃って笑い、同じように前を向いた。
「――さあ、狩りの時間だ」
見回りの範囲は、町と町を繋ぐ大きな道とそれに沿った周辺だ。ここの安全を保っておかなければ町は簡単に孤立してしまう。
幾つもの町が放棄された結果、残された町と町は隣接していないことが殆どだ。この主要な経路が危険に晒されれば、物資も人も移動が出来なくなり、そうなれば塀に囲まれた小さな町はあっという間に腐っていく。町を守るためにも、町同士を繋ぐラインの見回りは地味でも重要度の高い仕事だ。
しかし、幾ら大事だと分かっていてもセガルタは面白くない。ウォルフは狩りの時間だと言うが、普段から見回りがされている場所では狩る獲物も少ない。
「あ。……ウォル、あそこ。崩れてる」
歩いているこの場所も放棄された町の一部だ。昔は活気もあったのかもしれないが現在に至っては人の気がなく、残された廃墟が崩れているところも多い。壁が傾いていることもさして珍しいことではない。
ただ、セガルタが見つけたブロック塀は自然と倒れたというよりは、何かがぶつかってぶちまけられたといった壊れ方だ。ブロックの端から飛び出た鉄筋がぐんにゃりと曲がって、割れた破片がこちらの道路に向かって広範囲に転がっている。
大通りからは二本ほど内側だ。わざわざこんなところを走って寄り道をして、しかもブロック塀に突撃していく車はなかなかないだろう。
「……お前が楽で済まない方がいいなんて言うからだぞ」
ウォルフの手には
「少し、濃いな。ラインまでは侵食してきていないが――」
「放っておくには危険」
ウォルフの言葉を継いだセガルタはうきうきした様子で腰の一本を抜いた。
「ウォル。行くよ」
「この濃度だ。たいした群れじゃあないだろうが油断はするなよ」
一応言っておくか、といった程度の気合いの入っていない棒読み調子にセガルタの眉が寄る。
「心がこもってないなあ」
「ああ。実際、お前の心配なんかしてねえからな」
笑う。それが合図になったように、二人が口を噤んだ。
セガルタが先行し、崩れた塀の奥を覗く。そこには何もないが、空気の澱みは濃くなった。塀の内側は広い庭――といっても現在は手入れもされておらず荒れ果てた草地――なっていた。塀と垣根に囲われているせいで、風があまり通らないのだろう。空気が悪い。
死角からの襲撃に気をつけながら中へ踏み込む。すぐ後ろをウォルフがついてきていることは感覚で分かる。膝まで伸びた草を踏みながら、庭の中心付近で立ち止まった。家主の居ない建屋は蔦が絡み、窓は割れ、扉も壊れて倒れている。隠れ家にはもってこいだ。
そこで、視線を上げる。二階の窓、暗い奥から目玉が見えた。
口角が上がる。
ふ、と息を吐く。
――同時、ウォルフが撃った。獣の咆哮が響き、潰された目玉が引っ込むように消える。
それに合わせ、セガルタは前へ踏み込んでいた。発砲音に驚いて割れた窓から飛び出してくる四足歩行を正面から迎え撃つ。驚きのまま何も分からせないほど早く、喉を掻っ切る。
真っ黒の血が孤を描いた。
走った勢いのまま足元へ崩れるその頭を踏み潰し、視線は次に狙いを定める。
狼か犬か。フォグに侵された獣は、大きな牙を伸ばした口を裂けたように大きく開いている。一つの眼球に三つも四つも虹彩を散らしたその姿は紛れもなく、異形だ。あんな気味の悪いものが普通であってはいけないとセガルタは目を細めた。
この世界を毒で侵し、全てを異形へと書き換える
吐く息は空気を汚し、毒を孕む黒の体液を撒き散らす
二階から飛び降りてきた特別体の大きなシンズへ斬りかかる。他の個体に比べて二倍も三倍もの大きさがある。どれほどの同胞を食らったのか、どれだけ濃いフォグに晒されたのかは知らないが、群れのボスとみて間違いなさそうだ。放置しておく義理はないし、飼い犬のような愛くるしさはシンズにない。
ウォルフが窓から玄関からと飛び出す小型のシンズを手際よく処理している。そんなことは見なくても分かっている。心配もない。そんなものが必要ないのは、お互い様だ。
シンズを切り裂く。溢れる黒の血を浴びながら、セガルタは口の端を更に吊り上げた。唇に散った黒を舐め取り、笑う。
毒など、幾らでも飲み干してやる。
止めの邪魔をしにきたか、横から飛びかかってきた小型のシンズが即座に撃たれ、吹き飛んでいく。いちいちウォルフの方を見たりはしない。シンズがこちらを向いたことは気付いていたし、ウォルフが撃つとも信じていた。いや、分かっていた。
信じる信じないの次元など、とうに越えている。長年を共にし、死地も並んで越えてきたのだ。自身のことはもとより、彼のことも身に染み込んでいる。
ウォルフがセガルタの邪魔をさせないように、セガルタも彼の邪魔になるシンズへ刃を突き立てる。そして、鈍い足取りで逃亡を図ろうする大物に駆けた。
隣を抜けていった弾丸を追いかけるように、剣を振りかぶる。
その間もずっと、背中には相棒を感じている。
ウォルフ・ヴォード。
彼は言葉なんてものも必要ない、共に生きていくと決めた他にはない相棒だ。
測定器の数値を確認したウォルフは、シンズの死体を集めているセガルタを見た。
深くに緑が沈んでいる黒髪は、粘ついた黒い血で濡れている。いつもは傷跡を隠すように垂れた前髪も重たくなって邪魔なのか、後ろへ掻き上げられていた。顔にかかった血もそのままで、彼は黒く汚れている。
シンズの体液は有毒だ。普通の人間ならば触れることも出来ない。
それでもああやって頭から被っても平気でいられるのは、セガルタやウォルフたちが
世界を歪にしていくシンズに対抗出来る、加護を受けた奇跡の存在。
シンズの毒にもフォグにも耐性を持って生まれた祈りの申し子。
そんなヴェールの一人であるウォルフは処理したシンズの数や場所などを細かく端末内へ入力していく。
「ウォル」
指先の血をぴっぴっと振っているセガルタを見た。死体を漁っていた彼の手は真っ黒だ。
「回収したか」
「ご覧の通り」
そう言ったセガルタの手には黒い液体がたっぷりと入った小瓶があった。
「あと……こっちも役に立つかと思って」
そして、彼が靴でゴツゴツと踏んでみせたのは大きな牙だ。先程仕留めた大型のシンズの前で何かやっているとは思っていたが、どうやら牙を切り落としていたらしい。
「重たいけど、その分ものは良さそう」
「なら持っていってみるか。――よし、回収したならさっさと燃やしちまえ」
ウォルフが投げて渡したのはチューブに入った着火剤とライターだ。
両方を見事に片手でキャッチしたセガルタが、小瓶を上着のポケットにねじ込んでからチューブを絞る。
体液や牙などシンズの死体から回収したものは、シンズへ対抗するためだのなんだのと研究の材料となる。死体漁りを嫌がるヴェールは多いし、ウォルフだって好き好んで切り刻むわけではない。それでも、いつか自身を守ってくれるものになってくれることを信じ、出来る限りの回収を行うのだ。
ウォルフは小型の端末を尻のポケットに突っ込んだ。肩にかけてあったタオルに改めて水をかけて湿らせる。
燃え盛る炎の近くに立つセガルタは何が面白いのか、焼ける肉をじっと見ている。ウォルフも何年と同じことを繰り返してきて慣れてはいるが、匂いは酷いし煙は目に痛いし、気分のいいものではない。それでも相棒はそれをぼんやり眺めているのだから、重たいため息だって出る。
「セグ」
呼ぶと、相棒はすぐにこちらを見た。垂れた緑色の瞳に、炎が僅かに映り込んでいる。
濡れタオルを揺らしてやると彼は牙を持ってこちらに歩いてきた。確かに重たそうな牙で、彼が手を離すとどさりと落ちた。
「何か面白いものでもあったか」
セガルタが手や顔を拭いながら、肩をすくめた。タオルが黒く汚れていく。
「いいや。腹が減ったなあって思ってた」
「食欲のなくなる匂いを嗅ぎながら言うこととは思えねえな」
ウォルフが苦笑しながら、セガルタのポケットから瓶を取った。ボディバッグから折りたたんだ袋を引っ張り出し、瓶を柔らかい布で雑に包んでそこに突っ込む。
「不味そうな匂いだからこそ美味い肉が食いたくならない?」
「お前のその理屈は何度聞いたって分からねえよ」
ははは、と苦笑いをしてやると、セガルタはけらけらと弾むように笑った。垂れた目元が細くなって、更に垂れ下がった印象になる。
つい先程までシンズを狩ろうと殺気立っていた男とは思えない。
夕食は肉がいいだとか、焚き火で芋を焼きたいだとか言い出した相棒の肩をパシッと叩いた。もうすっかり仕事が終わったような気分になっているようだが、まだまだ見て回らなければならない。
「ほら、火はもういいだろう。一旦、こいつを置いてから次を回るぞ」
あんな少量の着火剤でよくもまあ燃えるもので、毒を焼き尽くす炎はあっという間に小さくなっている。足元の土を蹴ってかけた。
「次もシンズが出ないかな」
「やめろやめろ。お前が言うと本当に出てきそうだ」
簡単に消火をし、荷物を肩にかけた。
「さあ、行こうぜ、腹ぺこさん」
歩き出すと相棒も隣を歩いている。
セガルタ・ゼロ。
彼は全てを信じさせてくれる、共に生きていきたい唯一の相棒だ。
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