第1話
「急に、ごめん」
俺の顔を見て微笑んだ数秒後に視線を逸らして謝罪する。
立ち上がった彼女は高校三年生の時のままの背丈で、雰囲気も、仕草も、あの時と何も変わらなかった。
フラれてからと言うもの、顔を合わすのも気まずくて。
自然と俺は雫からは距離を取るようになっていた。
高校三年の夏から卒業式まで、姿かたちすら視界に収めないように徹底したくらい。自然とじゃないな、意図的だ。
だから、こうして声を聞くことですら懐かしくて。
直ぐに声を出すことが出来なかった。
嬉しいような、悲しいような。
「若草君?」
「あ、いや、うん。ひひ、ひさ、久しぶり。七津星、さん」
噛みすぎだ。
二十二時半、深夜に片足を突っ込んだこの時間帯に俺の家の前で座り込む幼馴染。
この状況が普通の訳が無い、何かあったのかなという考えは即座に思い浮かんだ。
きっとそれは面倒臭い事で、何かしらの勧誘とか、美人局とか、上っ面では拒否反応を示していたのだけど。
「うん、久しぶり。九年ぶりだね」
だけど、彼女の声は耳に心地よくて。
フラれて死を選択したくらいに好きだった彼女への思いが、消えるはずもなくて。
「部屋、入れてくれたりしないかな……?」
この言葉に反抗すべき言葉も出てこない程に、俺は平静を欠いていた。
「ゴメン部屋汚れてて、今すぐ片付けるから」
「いいよ、別にそんなの気にする関係じゃなかったじゃない」
彼女はアウターを脱ぎ、部屋の片付けを手伝ってくれた。
出しっぱなしだったコタツテーブル上のペットボトル、脱ぎ散らかした衣服。
異性が部屋に来ること何か無かったから、ろくすっぽ掃除もしなかった俺の部屋。
全てが手の届く範囲に必需品があった俺の部屋は、七津星さんの手により綺麗さっぱり片付いてしまって。
1LDKって、こんなに広かったっけって思ってしまうほどに広くなった我が家は、なんだが自分の部屋じゃないみたいだった。
「部屋の形は違うのに、物の置き場所は変わらないんだね。本棚とか、洋服の置き方とか。なんだか九年前に戻ったみたい」
「……そう?」
「うん、戻りたいって思っちゃうな。あの頃は楽しかったし」
俺は嫌だって喉元に出かかったけど、ゴクリと飲み込む。
楽しかったのは高校三年の春までだ。
それ以降は完全に色を失った青春だったし、地獄だった。
「それで、急にどうしたの」
上目遣いで色を失った原因の彼女を見る。
彼女は片付けが終わると水色のカーペットの上で、どこか違う方向を見ながら正座し俯いていた。
思い詰めた表情、重い何かしらがあったのかなって直ぐに分かる。
俺はと言うと、自分の部屋だ、適当にあぐらをかいているのだけど。
「あのね、えっと……私、私……」
「うん」
「帰るとこなくて、若草君のとこに泊めてもらえないかなって、思ってて、ね」
相変わらず視線は明後日の方向だ。
こんなに弱気な七津星は珍しい。
俺の知っている彼女はどこまでも強気で、ワガママで、遠慮なんて言葉が頭から消えてるんじゃないかってぐらいだったはずなのに。
「なんで? 家に帰ればいいんじゃないの? 両親と喧嘩した?」
「あ、えっと、今、私実家暮らしじゃないんだ。その……七津星って、苗字でも、ない、の」
苗字が違う。
言い辛そうにしたその意味は、俺でも直ぐに理解出来る。
気付かぬうちに抱いていた感情や、当時の想いが膨れ上がっていたのだけど。
風船の様な俺の心は、今は完全に萎みきっていた。
「そっか……じゃあ、旦那さんのとこに帰ればいいんじゃないか? それにしても雫、いつの間にか結婚してたんだな。式にも行かなかったし、お祝いの言葉も何もしてやらなくて、ごめん」
「ううん、だって、若草君同窓会とか一回も来なかったみたいだし。他の子が連絡入れても忙しいの一点張りだって聞いてたし……それに」
それに、俺は雫にフラれたし。
徐ろに煙草に手を伸ばし、火をつける。
「タバコ、吸ってるんだね」
「ん? ああ、俺の部屋で俺が吸ってるんだから、いいだろ」
雫は結婚している。
それを知った瞬間に可能性の全てが消えた。
「一本貰えるかな?」
「そっちこそ吸うんだ」
「色々あったからね」
「ふぅん」
トントンと一本取り出すと、彼女は自ら顔を近づけて咥える。
火をつけて、深く吸って、煙を吐く。
ふぅ……と落ち着かせたような素振りを見ている限り、俺に合わせて無理に、って感じではない。
「話し戻すけどさ、泊まりたいって何さ? 雫結婚してるんなら俺と泊まったりしたらヤバいだろ」
台所から灰皿を持ってきて、コタツテーブルに置き灰を落とす。
雫はしばらく黙っていたけど「若草君なら、見せても平気だと思うから」と言いながら、着ていたタートルネックのニットをたくしあげた。
彼女の水着姿は何度も見たことがある。
だから、その素肌がどれだけ綺麗で、触り心地がよくて、尊いものかは理解している。
「雫、お前……」
下着だけになった上半身には、数え切れないほどの痣が、彼女の肌の色を変えてしまっていた。
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