勿忘草が枯れるまで

ムム

第1話 死んだ

「小宮裕子が死んだ」

その知らせは突然だった。


近藤喜子は地元の女子大学に通っている。もともと女子大学に通う気なんてさらさらなかった。ましてや地元の大学なんて。喜子は高校一年生の時から積極的にオープンキャンパスに参加して入試の方式もたくさん調べて大学受験については周りの同級生よりも早めに準備を始めていた。喜子の両親もそんな娘の姿を誇らしく感じていた。そもそも喜子が大学受験にこんなに一生懸命になったのには理由があった。


喜子は私立の高校にスポーツ推薦で入学した。物心ついた頃から体操教室に通っていた兄の影響で体を動かすのが好きだった。そして中学生にもなれば新体操部のキャプテンとなり全国大会でベスト8にチームを導くくらいには強くなっていた。団体でも個人でも良い結果を残していた。毎回パンフレットには『昨年優勝 近藤喜子』と記され、誰もが喜子がオリンピックに出るような選手になるだろうと思っていた。そんなある日、喜子は担任の先生に呼び出された、小宮裕子だ。「近藤さんに上蘭学園からスポーツ推薦が来ているの。」小宮は笑顔で上蘭学園の資料を出してきた。喜子は素直に嬉しかった。上蘭学園は新体操が強い高校として有名で誰もが憧れる学校だったからだ。小宮から上蘭学園の資料を受け取って帰った。しかし、喜子は内心上蘭学園に進学するかどうかは迷っていた。上蘭学園の新体操部は完全に寮生活を送らなければならなかった。食事制限や厳しい練習、家族との面会も時間が限られる。兄が大学生になり家を出て行った以来、喜子は両親と三人で暮らしていた。そんな両親を置いて寮に住むのには心が痛んだ。けれど両親は「きいちゃんがやりたいなら上蘭学園行きなさい。ママとパパは応援してるから。」そう言った。その言葉が喜子の背中を押してくれたことで上蘭学園に進学することを決めた。


上蘭学園での毎日は考えられないくらい苦しかった。入学してから三ヶ月は一回も体操をさせてもらえなかった。まるでドブネズミのように朝から晩まで雑用係として働いた。上蘭学園で友達などできるわけがなかった。「近藤さんは毎年優勝しているから近づきにくいよね」「私たちは近藤さんと違って上手じゃないからバカにされそうだよね」そんなふうに影でいわれ誰も寄ってこなかった。喜子は悔しかった。幼い頃から新体操をしていて大会で演技をすればなぜか優勝してきた喜子はいつか入賞できなくなるのではないかという恐怖心と共に戦ってきた。この苦しさを誰も理解しようとしてくれない。


高校一年生のある日に喜子は怪我をした。足が動かなかった。歩くことすらできなかった。スポーツ推薦でこの学校に入学した喜子にとって自分が新体操をできなくなることよりも両親に迷惑をかけてしまうことの方が辛かった。上蘭学園はスポーツ推薦で入学した場合は学費が免除されていた。それに寮での生活費も全て学校側が負担していた。喜子の予想通り、怪我をして選手生命が立たれた喜子を置いていく余裕などこの学校にはなかった。喜子は上蘭学園に入学してからわずか半年で実家に帰ってきた。そんな喜子のことを両親は何も言わずに受け入れてくれた。いつの間にか新体操は近藤家で禁句になり、今ままでもらってきた賞状やトロフィーや盾は全て倉庫に片付けられた。家の至るところに溢れていた喜子の栄光は全て消え、今まで喜子の栄光に埋もれていた兄の創也の栄光の品々が出てきた。兄は大学生になって家を出て以来なかなか実家に帰ってこなくなった。なんだかその理由がわかったような気がした。


そんなこんなでもうスポーツができなくなってしまった喜子は大学受験は絶対に自分の学力で入学すると決め、いわゆる『大学入試ガチ勢』となっていった。両親はどんな立場に立たされても喜子は努力のできるいい子だと感じていた。しかし、喜子は大学受験に失敗した。大きな理由なんてなかった。ただがむしゃらに勉強をして、様々な大学の受験をして、ただ単に失敗した。全落ちだった喜子に両親は地元の女子大学の入試要項を静かに渡してきた。そうして喜子は地元の女子大学に入学した。花館女子大学は地元では有名なお嬢様大学だった。喜子は幼稚園だけこの学校の附属に通っていた。なんとなく縁は感じていたがまさか大学で花館に来るとはなと心でため息をついた。そんな生活も一年が経とうとしていた。


一本の電話がかかってきた。中学生の時に同じクラスだった前崎善からだった。来年に成人式を控えていたのでその電話かと思った。

「近藤?覚えているかわからないけど前崎善です。」

「近藤です。あっ、喜子…。」

「良かった繋がって、電話番号変わっている子もいるし、LINE新しくしている人もてなかなかつながらないんだよね。俺、中三の三学期に学級委員してたから連絡しなくちゃいけなくてさ。」

「大変だね。成人式のことかな?」

…… 沈黙が続いた。



「小宮裕子が死んだ」



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