第29話 傍観者の涙
「おまえは、変わったな」
「どうしたんです? 藪から棒に」
極東魔導女学園の隅っこに位置する動物小屋。
空飛ぶ兎を小夜香が飼育、管理していたこの場所は、彼女が失踪して以来はグラーティア家の人間が引き継いで兎達の面倒を見ていた。
されど今は小夜香と月都に加え、ローレライと蛍子。四人が揃ってこの場所を訪れていたのである。
「最初、ここで会った時はさ。人間味はあるけれど、いつかは壊れるんだろうなって、そんな予感を覚えてたんだ」
時刻は夕暮れ時。
黄昏色に染まる空の下、空飛ぶ兎達と戯れるローレライと蛍子を、残った二人は遠くから眺めていた。
「だけど、違った。おまえさんはあたしなんかの予想を飛び越えて、姫さんの王子になっちまった。いいや、姫さんだけじゃねぇ。蛍子だって月都がいるから、生きていられるんだ」
「随分と買い被ってもらっているようですが」
評価が預かり知らぬところで積み上げられていたことで、月都は思わず面食らってしまう。
「女を憎んでいるっていう勝手な言い分でみんなに首輪をつけて、自分のエゴに巻き込んでいるだけです。その過程で救ったとしても、胸を張って誇れることではないでしょう」
此度の一件でローレライを救えたことに関しては確かな励みとなった。
それでも、押し付けがましくも正しい行いをしたのだと
「おまえが何よりも自分の夢にこだわっているのは分かっている。だとしても、だ。蛍子と姫さんがああして生きていられるのは、おまえの存在のお陰だろ」
そこで、小夜香は息をそっと吐き出した。
重い、重い、ため息だ。
「あたしは、ずっと傍観者だった」
罪人が自らの犯した罪を懺悔するかのごとく、小夜香は語る。
「元々が表の世界の人間だからな。裏の世界にどっぷりと浸かった純正の魔人と比較すりゃあ、倫理観やら常識はあっちよりなのさ」
それは月都も度々実感していたことだ。
周防小夜香は魔人にありがちな狂気が薄く、比較的表の世界に寄った価値観を有していた。
「ずっとウェルテクス家の密偵として飼われていたからか。心を殺すことが当たり前になって、いつしかあったはずのものは、なくなっちまってたんだろうな」
しかし日常であればかつてのままではあれど、いざ仕事となってしまえば、心を殺すことが癖になっていたのだと彼女は嘆いた。
「本当の本当にギリギリのギリギリになるまで、ウェルテクス家に産まれた娘の悲劇から目を背け続け、ようやく姫さんの代で動いたところで、あの方の心は自分自身の命に価値を見い出せないまでに壊れていた」
ウェルテクス家の汚れ仕事に関わっていたからこそ、人体実験の過程で脱落していく少女達とも無関係ではいられない。
にも関わらず、仕事と断じて目を瞑り、ローレライの世話役を任されるまで、彼女は動こうとしなかった。
「これは罪なんだ。だからもう、多くの幼い命を見捨て続けた罪人に口出す権利はねぇと諦めて、ウェルテクス家を姫さんと一緒に壊滅させたとしても、あたしは結局傍観者のまま」
ゆえに小夜香は罪人だ。
乙葉月都の心が死に絶えるまで動こうとはしなかった白兎あずさと彼女は、同じ人種でもあった。
「ありがとう、心からおまえに感謝している。なのにあたしは……あたしは、」
その上で、小夜香もあずさと同じように、犯した過ちを延々と悔やみ続けていた。
「サヤさん」
生半可な否定からは何も生まれない。
「見てください」
そう判断した月都は、静かに慟哭する小夜香の肩を叩き、前方を指し示す。
「ルコとローレライが呼んでますよ」
「お姉ちゃん! 月都お兄ちゃん! あーそーぼー!」
確かに月都の言う通り、二本の足で歩けるようになったローレライが元気よくブンブンと腕を振り回し、対する蛍子は淑やかに片手を振っていた。
「被害者であったローレライがこんなにもサヤさんのことを好いてくれている。失われた命は多くとも、彼女が今を笑って生きていられるのなら、まぁ良いかと割り切ってもいいんじゃあないですか?」
「あたしは姫さんに付き添ってただけ。救ったのは月都だ」
小夜香の声は、日頃の飄々とした態度が嘘であったかのように上擦っていた。
「サヤさんが側にいなければ、彼女にとっての味方は誰もいない。もっと早くにローレライは壊れていたと思いますけどね」
「仮にそうだとしても、そんなのであたしの罪が――」
「――見捨てて来たのは本当なのでしょうが」
軽くなるわけじゃない――先の言葉を月都は敢えて断ち切った。
罪悪感の自家中毒は不毛。一つの感情だけに囚われても良いことがないのは、分かり切っていたのだ。
「大体の人間は死ぬまで我が身可愛さに動きません。一方で、サヤさんは動いたじゃないですか。他ならぬローレライのために」
そう、どれだけ手遅れを重ねたところで、小夜香はローレライを生体兵器として使い潰すことを良しとしたウェルテクス家を、主と共に崩壊へと追いやった。けじめはつけた形になる。
「ルコにだって学園で何かと世話を焼いていたって聞いてますよ」
狂気と危うさを感じさせる蛍子の面倒を、月都と彼女が出会うよりも早くから、見続けてもいた。
「俺だってサヤさんのこと好きですから。あなたの素朴で人としての善性が捨て切れないところが、どこか母さんに似ているんです」
決して傍観していただけの卑怯者ではないのだと、月都は強固に主張を掲げる。
「――サヤさん?」
喋ることに気を取られていたからか。月都が気づかぬ内に、隣に立っていたはずの小夜香が背後に回っていた。
「もしかして、泣いてます?」
それのみならず、彼女は主よりも小さな肉体を月都の背中に押し付けて、震えながら泣いていたのだ。
「あらあら、まぁまぁ。月都様が小夜香先輩を泣かせてしまったのですね?」
「お姉ちゃん、大丈夫なんだよ? 月都お兄ちゃんは罪な男ってことなのかな?」
「ヤバい、目の前で風評被害が流されてる……!」
こちらに駆け寄って来た二人に冗談半分のあらぬ疑いをかけられた上に、背中にぴたりと張り付いた小夜香は未だ泣き続けていたが、この光景から悲観的なイメージが湧きづらいのもまた確かであった。
第四部(完)
第五部に続く
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