第16話 帰還
暗闇の一本道。
先を見通せぬ直線を歩み続ける月都の前方に、人影がゆらりと蠢く。
徐々にハッキリとする輪郭。だが、それよりも早く、頭から生え伸びた兎の耳が、遠目でもその人影の正体を正確に月都へと伝えるのだ。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
ペコリ、と。あずさが頭を下げた。
彼女の端正な顔立ちには、相変わらず愛らしい微笑みが浮かべられていた。
「もしかしてだけどさ」
そんな彼女の様子にこの上なく安心感を覚える、月都。非常にリラックスした心地で、彼はこんな質問を投げかけた。
「俺がウェルテクスになびいてたら、俺のことを殺したりとかした?」
今日の夕ご飯は何だろうか。そういった類の和やかさをもってして、月都は楽しげに笑った。
「まさか、そんなゴミのごとき蛮行に手を染めるはずがありませんし、尚かつ手段は乏しいですよ」
即座にあずさは首を横に振った。彼女には気負いなど微塵もありはせず、その自然体がむしろ恐ろしくもある。
「ご主人様があの夢に留まることを願うのは当然の権利なのですから」
「でも」
あずさは罪を理解し、罰を受け入れた女。
月都が女を憎悪する悪夢から逃げ出すことを真っ向から否定する行為を、あずさは当然のごとく己に禁じている。
「ウェルテクスが作り出した優しい夢の中。プライドを折ることを受け入れた乙葉月都のようなナニカを、おまえは乙葉月都が生きていると、見做すわけがないんだよな」
「……」
無言は肯定の証。
それを受け取った月都は、さりとて気分を害した様子もなく、そりゃそうだよなぁ――と、納得した風に呟いていた。
「引き返すのは、早ければ早い程に傷が浅いかと」
沈黙を保っていたはずのあずさが、唐突に静寂を破った。
「白兎あずさという名の罪人。告白は予告のようでしたし、切り捨てるのなら今の内ですが」
冗談を多分に交える皮肉めいた物言いではあるが、これがあずさなりの警告で、気遣いでもあるのは明白。
「まさか」
されど、あずさの意図を余すことなく汲んでも尚、月都が彼女に向ける好意に変動は起こらないのだが。
「あずさ。俺は、この上なく惨めな気分で生きて来た。なのにおまえは、まるでヒーローのように俺を扱ってくれる。俺にとってはあずさこそが、地獄から救い出してくれた救世主だってのに」
両手を大きく広げ、高らかに月都は語ってのける。
「たとえ俺への恋心が歪んでいたところで、俺のおまえへの感情は変わらないよ」
一歩、あずさの側に歩み寄った。
広げていた手でメイドの華奢な身体を包み込む。フワリ、と。温もりが伝播する。
「だって俺は、もしもおまえが他の男になびいたら、おまえを殺して俺も死ぬかもしれないから」
その上で、言い切った。自分がこのような思考を有しているにも関わらず、相手が似た行動に走る可能性があるというだけで激昂することは、不公平極まりないないのだと。
「あはは」
「ふふふっ」
剥き出しのあずさの心。日頃は自罰意識によって抑え込まれている歪みに触れても尚、月都は彼なりの誠意を発揮してみせた。
「それじゃ、また悪夢で会おうか」
人肌の名残を惜しむかのように、眉を下げながらも、月都はあずさから身体を離す。
「承りました。これからも末永く、共に茨の道を歩むことを、喜ばしく思います」
彼とあずさの密着が終わると同時、まるでそこには何者もいなかったかのごとく、銀髪が目を引く兎耳のメイドの姿は、何の痕跡もなく無となった。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いた道の最果てへと足を踏み入れ、ついに月都は目を覚ます。
ここは悪夢だ。ゆえに現実だ。
「おはよう、月都お兄ちゃん」
ぼやける視界にまず映り込んで来るのは、可憐な少女。どこか寂しげでもある慈愛に満ちた眼差しが、惜しげもなく月都に注がれていた。
「……おはよう、ウェルテクス。んー、よく寝た」
ローレライは車椅子に腰掛けたまま、地下室に設置された寝台に横たわる月都が覚醒するのを見守っていたようだ。
「ちょっと待ってね。今、外すから」
のびをしようとして中断された月都。その四肢を縛めていた拘束具が、呆気なくローレライの手によって外された。
「シャワーでも浴びて来たらいいんだよ」
肉体の自由を取り戻し、魔力があらかた取り戻されつつあることも確認。起き上がり、身体を勢い良くのばす月都を眺めながら、ローレライはことも無げにそう言った。
「その後に、お話をしよ?」
「了解、そうさせてもらうぜ」
「――お姉ちゃん。月都お兄ちゃんをお風呂場にまで案内して欲しいんだよ。お着替えの用意もお願い」
話はまとまったと言わんばかりに、ローレライは手を打ち鳴らした。
「あいよ、姫さん――乙葉、こっちについて来い」
するとどこからともなく小夜香が現れ、陽の差さない地下室から、屋敷の地上部分へと案内するべく、彼を手招いた。
今となってはあずさとの繋がりによって、ローレライの企みをおおよそは看破している。さらにはその企みも、手段こそ過激であれど、彼女なりには月都を想っていたことさえ理解の内。
ソフィアや蛍子の負傷だけは気にかかるが、夢の中で二度も遭遇したあずさを通し、彼女達の無事は既に把握してある。
ゆえに月都は特に警戒することもなく、小夜香の背中を素直に追いかけることに決めた。
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