第15話 一本道
女を憎まない月都の手が、女を憎む月都を掴みあげ、彼の身体は宙に吊り下げられていた。
しかし嫉妬を元手に毒づく月都は、自らを掴みあげているその右手を、不意に掴み返す。あらん限りの力で、爪が食い込む程に。
「ウェルテクスの好意に甘えた世界はさぞかし幸福だったろうな? えぇ? おまえを現実に照らし合わせれば、姉ちゃんのとこに婿入りして、グラーティア家の庇護を受け入れた牙のない俺ってところか。反吐が出る」
「ぐっ……!」
女を憎まない月都は激痛に耐えかねるよりも早く、もう一人の月都のおぞましさに本能で恐怖した。思わず乱雑に、襟首を掴みあげていたはずの手を離してしまう。
床か地面かも定かではない場所に転がり落ちたものの、女を憎む月都はケラケラと、ケタケタと。実に楽しそうに笑い転げているのだ。言葉の刺々しさとはいっそ真逆に。
「俺は確かに弱い。願うことも多々あるさ。何をも憎まず、何をも恐れず、あのまま穢れを知らずに生きていられれば、どれ程までに幸福だったろうかと」
だが、月都はそんな逃げ道を自ら封じ込め、女を憎まない月都を否定するかのごとく、真正面から彼を殴り飛ばした。
「だがな。もう遅いんだ。なかったことには出来ない。強烈な憎悪の行き場は、結局のところ俺自身で消化するか、もしくは共に心中するしか道はねぇ。我ながら難儀なこった。あははっ!」
「おまえが産まれたのは……世界で一番の、間違いだ……」
「知ってるよ。母さんが死んだのは俺のせいでもある上、この力は世界を滅ぼす可能性があるっていうのに、悲しいかなその持ち主の精神状態がグズグズなわけだし。――だが、こうも考えられないか?」
鳩尾を殴られ、苦しげに呻く女を憎まない月都を、尽きることのない嫉妬の眼差しで見下ろしたまま、女を憎む月都が言い訳を並べ立てる。
「もう一人の俺に聞こう。犯された経験は?」
「そんなこと……っ、ない!」
「ねぇよなぁ。だから、さ。俺と同じようなことをされたら、多少の差はあれど誰だってこうなるわけだよ。それとも何か? 愛した者は燃やされ、初恋の人とは引き離され、信頼出来ると信じていた者は保身と裏切りに走り、分かり切っていた敵に囚われ、暗殺者に救い出されるまで延々と女に虐げられても尚、おまえはそうも偽善を振舞えたのか? 答えてくれよ。答えろよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
女を憎む月都の慟哭が、あまねく全てを震わせる。
対する女を憎まない月都。彼は彼の異常性を前に――真っ当な感性から吐き出される糾弾を諦めた。
コレはもう手遅れで、先に進ませるしか道はないのだと、あろうことかぶん投げた。
だからこそ、最も大切な事柄を確認するためだけに、異常者へと呼びかけるのだ。
「ローレライをどうするつもりだ?」
穏やかな問いかけに、先程まで激昂していたと思えないまでの和やかさで、女を憎む月都は小首を傾げる。
「ウェルテクス? あいつは可愛い俺の後輩だぞ」
「……僕にとっては義理とはいえど妹だ。それにサヤさんも。彼女達は乙葉月都の夢を、目的こそ安全性の確保とはいえ、邪魔をした。乙葉月都が復活した際、彼女達に与える処遇に納得がいかない限り、タダで退いてやる気はない」
裏を返せば、納得がいかないのであれば、女を憎まない月都は何が何でも諦めず、相討ちすら承知して、女を憎む月都をここで屠る覚悟を決めなければならないということ。
「何だ。そんなことか」
だがしかし、そんな彼の秘めたる決意に気づくこともなく、至極つまらなそうな口調で、女を憎む月都は肩を竦めた。
「処遇も何も、俺はウェルテクスや周防先輩に拉致監禁されたところで、責めることも怒ることも何もないわけだが」
「……何を言ってるんだ?」
「いや、みんなをボコったのはちょっとやり過ぎだろうけど、死んではいないから、まぁそこもまだ許せる」
そこで、ようやくある程度は相手の心中を慮ったかのように、実に人間味に溢れた自然な笑顔を浮かべ、女を憎む月都はこう語った。
「安心しろ、もう一人の俺。俺はウェルテクスのことも周防先輩のことも好きだから。むしろ手段こそ過激であれ、俺を助けようとしてくれたことには感謝しなきゃだし。悪いようにするつもりなんて微塵もないさ」
あっけらかんと告げた月都から、本来あるはずの邪悪さは、綺麗さっぱり消え失せていた。
こういう男なのだ――と、女を憎まない月都は、諦観じみた納得感を叩きつけられる。
乙葉月都は女に虐げられたことで女を憎み、屍のように生きる歪な男。さらには魔神に近しい魔人でさえあるにも関わらず、人間味がないわけではなかった。
女に対する憎悪はどこまで行っても本心で、今も夢のためにローレライを支配下に置くことを望んではいる。
されどそれと同時に、彼はローレライと小夜香を親しく想う本心を、当たり前のように備えてもいたのだ。
「じゃあな、そろそろ俺は行くぜ。あずさが待っている」
「――そうだね。行くがいい。僕はキミが嫌いだ。二度と顔を見ないでいられることを願うよ」
振り返りもせず、それでも挨拶のために片手だけは上げて、ブレザーの裾を翻した月都は一寸先すら闇が染める道を歩み出す。
そこは分かれ道ではなかった。ひたすらに真っ直ぐな一本道。
憑き物が落ちたかのように迷いのない後ろ姿を、学ラン姿の月都は暫くの間仰いでいたが、いつの間にか彼は消えていた。
たとえ裏の世界を生きる魔人とはいえど、この世に同じ人間が二人いるはずもない。常識で考えれば分かり切った現実。
月都は月都。これはあくまで夢からこぼれ落ちた、断片の話。
女を憎む月都だけが、悪夢における真実なのだ。
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