第12話 獣

 かつてソフィアが月都の身を案じるあまり、暴走したように。魔人という退魔の祝福を授かった女達は、激情の果てに大きな変化と強化に達するケースが時たま起こり得るのだ。


 ソフィアの場合は堕天使のごとき様相へと変じたが、此度はまた異なる。


 蛍子は最早、人の形を保ってすらいなかった。


「本当に、厄介なんだよ……!」


 舌打ち混じりで、憎々しげに呟くローレライの横を、一匹の獣が轟音と共に通り過ぎた。


 駆け抜けた軌跡に沿って、灼熱と形容すべき紫の炎が燃え盛っていた。


 あらかじめ転移しておいたことで回避したとはいえ、ローレライの肌にはチリチリとした焼け付く痛みが残されるのだ。髪も何本かは持っていかれたか。


「――蛍お姉ちゃんの意識はもう、ないみたいだね」


 改めて、ローレライは現在自分が対峙している獣に向き直った。


 人間一人など簡単に呑み込んでしまうかのごとき巨体。


 唸り声は敵意と憎悪で満ちている。


 艷やかな黒の毛並みと纏う紫の炎は、恐ろしさと美しさを同居させていた。


 どこからどう見ても蛍子とは認められない姿ではあった。左眼が潰れていることだけを除けば。


「さぁて、どうしよっかな」


 魔人として暴走状態に陥ることで獣と化した蛍子単体ですら充分に脅威ではあるが、忘れてはならないのは、今の彼女は主である月都の魔力を引き出してもいるということ。


 無尽蔵に近い魔力を蛍子が借り受けた結果、ローレライは切り札を一枚晒す覚悟を迫られた。


「月都お兄ちゃんを助けるためには、余力を残しておかないといけないんだよ」


 炎と水。相性の上ではローレライが圧倒的に勝る。否、そもそもの地力でさえ、蛍子は彼女に遠く及ばないのだから。


「――だけど」


 けれど、命すら燃やし尽くす覚悟を元手とした狂戦士、もとい獣の戦いぶりを目の前にしてしまえば、学園最強の人魚姫をしても、戯れでは勝利出来ないと判断するしかなかった。


「月都お兄ちゃんに付き纏う狂人は、ここできっちり潰さないといけないんだよ」


 これまでローレライは固有魔法のみを使用。


 本来、魔人というものは魔導兵器を召喚する第一形態、魔導兵装とそれに伴う固有魔法を展開させる第二形態といったステップを踏んでいかなければならない。


 とはいえ慣れてしまえば、ソフィアのように魔導兵器の銃剣のみで、固有魔法の一環である閃光を打ち出すことも出来るので、決して一括ひとくくりには出来ないのだが。


 しかしローレライ・ウェルテクスという名の魔人。生前から現在に至るまで、魔神と戦うことの叶う最強の兵器として徹底して手を加えられた女は、魔人内の普遍的な枠組みからはあらかじめ外されているのだ。


 特殊性は多岐に渡るものの、今その一部を開示するのであれば、まずローレライは魔導兵器を常に召喚し続けていた。


 次世代に繋ぐ役目など不要と定められ、魔神との戦闘だけを強制されたローレライの子宮の中、魔導兵器は常に実体として存在していた。


 このことが、肉体を虚弱たらしめる原因の一つ。


 尚かつ、最強の魔人に押し上げる要因の一つでもあったのだ。


 人魚姫の肉体は常に退魔の祝福によって毒されていた。


「かかってくるといいんだよ」


 ローレライの魔力が陽炎のように、彼女の周囲で立ち込める。


「何度でも、起き上がる限り、叩き潰してあげる」


 炎の牙がローレライのはらわたを噛み砕く――が。


「厄介ではあるけれど、所詮は月都お兄ちゃんからの借り物」


 今までローレライが身に包んでいたのは、極東魔導女学園にて採用されている黒のブレザー。


 だがしかし、今の彼女は魔導兵装――攻撃力や防御力を上昇、強化させる鎧を纏っていた。


「私に及ぶはずもない」


 海の色のごとき爽やかな青色のドレスは、炎の牙が直撃しても尚、原形を留めている。


 ドレスの下にあるローレライの肉体に至っては言うに及ばずだ。


 自らの無傷といった当然の結果を確認するまでもなく、【人魚姫の戯れ】を発動。千にも匹敵する水の針を獣に放った。


 けれども、獣は図体の大きさに似合わぬ俊敏性を発揮して後退するのみならず、迫りくる水の針のことごとくを炎で蒸発させたのだ。


「認めてはあげるんだよ」


 魔導兵装を身に纏った、ローレライ。彼女は怜悧な眼差しを、獣に投げかけた。


 こめられているのは、侮蔑。さらにはそれと同じだけの畏敬。


「一ノ宮蛍子。月都お兄ちゃんは当然として、ソフィア・グラーティアや白兎あずさよりもあなたは劣る」


 当たり前の事実を客観的に、何の感慨もないまま、淡々と述べていく。


。それでも私は一ノ宮蛍子こそが、月都お兄ちゃんを省いた、最終段階へと至らない魔人の中で最も厄介であったと見なすんだよ」


 耳をつんざく獣の咆哮。


 紫の炎がローレライの支配する海を焼き滅ぼすべく、辺り一面を奔るのだ。


 暴力的なまでに美しい光景を直視して、しかしローレライは臆することなく、唇を獰猛な笑みの形に吊り上げる。それでいて彼女の声音は可憐であどけないものから脱することはないのだが。


「魔導兵装を私に展開させた蛍お姉ちゃんの意地。ちゃんと応えてあげなきゃだね」

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