第2話 さようなら、悪夢。ようこそ、ラブコメ

 長い、長い、夢を見ていた気がした。


 ソレはひどく悪い夢だったように、思えてならない。


 虐げられた少年が、女を憎む。女に首輪をかけて、魔神を目指す。悪趣味にも程がある内容。


 やはり、コレは、悪夢だ。


 悪夢は忘れるに限ると、人魚姫は強く願う。


 少年もそんな願望がないわけではなかった。







 ハッ、と。月都は顔を上げる。


 辺りを見回すと、そこは誰もいない教室。がらんどうでどこか寂しい。


「眠ってた……のか?」


 鈍く痛む頭を押さえ、月都は呻いた。


 何かを忘れている気がする。ただし何を忘れているのかまでは分からない。


「月都」


 と、そこで。背後から女性の声が投げかけられた。


 ひんやりとした感触の手のひらが、学ラン越しの月都の肩に置かれた。


「――サヤさん」


 とはいえ、月都は女性に背後から声をかけられ、身体を軽く触れられたくらいで、相手を突き飛ばすような男ではない。


 至って何事もなく、彼は振り返った。


「もうこんな時間だぞ。まさか今の今まで眠ってたってのか?」


 そこに佇むのは、赤色の鮮やかな髪をゆるやかな一本のみつ編みにした、セーラー服姿の女子生徒だ。


 見た目は幼女と呼ぶべきあどけなさ。けれども、彼女が自分よりも年上で尚かつ先輩であることを、月都は当然のごとく知っている。


「すみません。ホームルームが終わって、油断したら、どうにもウトウトしてしまったみたいで」


「別にいいけどな。あたしも今、ようやく用事が終わったわけだし。タイミングはバッチリだ」


 周防小夜香。月都がサヤと親しみをこめて呼ぶ女子生徒は、自分と妹の世話を何かと焼いてくれるご近所さんであり、古くからの知り合いだ。


 ぶっきらぼうな物言いや男勝りな態度ではあるが、彼や妹に向ける眼差しは、いつだって優しさで満ちていた。


「帰ろうぜ、お嬢が待っている」


「そうですね、帰りましょう」


 小夜香の誘いを受け、素直に頷いた後、月都は机の横にかけておいた鞄を手に取りつつ、席から立ち上がる。









 月都は孤児である。身寄りはなく、幼少期は施設で暮らしていた。


 しかし日本で暮らすとある外国人の夫婦の養子となり、妹も含め家族で仲良く暮らしていたものの、悲しいことに実の両親であるかのように慕っていた夫婦は、月都が中学三年生の時に不慮の事故で死亡してしまう。


 不幸中の幸いか、月都と妹が成人するまでに必要な額の遺産は残されていたので、彼は残された愛すべき唯一の家族と共に、日々を慎ましく生活していた。


「今日は牛豚の合挽きが安い、と……ハンバーグにでもするか。ソースはデミグラスでいいな?」


「いいと思いますよ」


 月都とて一般的な高校生男子にしては、それなり以上に家事が出来る方なのだが、何かと小夜香が世話を焼いてくれる上、妹は彼女を姉同然と見なし、懐いている部分がある。


 そのため小夜香も、ある意味では月都達兄妹にとって、ただのご近所さんでは終わらない、家族のようなものなのだ。


「なぁ、月都」


「どうしました?」


「おまえ、進路はもう決めたのか?」


 小夜香の言葉に、月都は思わず微苦笑を浮かべた。


 高校二年生の秋ともなれば、それなりに周囲からせっつかれる時期ではある。しかし、自分の将来についての実感は未だに湧いて来ないのだから、他人事めいた反応になってしまっても仕方ないだろう。


「進学にしようかとは、漠然と考えてるんですけど」


「ま、そのご大層な成績ならどこへなりとも行けるだろうさ」


「あはは……」


「それでも、何か……こう。夢とかはないのか? 具体的な感じでよぉ」


 夢。


 その単語を耳にした途端、好青年めいた月都の百点満点と称えるしかない笑顔に、ヒビが入った。


 内側からおぞましいナニカが姿を覗かせる。


「そんなの決まってるだろ?」


 買い物客の賑わい。店内で流れるポップなBGM。全てが遠くなった世界で、月都と小夜香は対峙するのだ。


「復讐は終わった。ならば次は逆襲。男が虐げられる裏の世界への反逆だ。魔神を倒す。あいつを踏み台に俺は神に成り代わって――」


「――なるほど。存外に根深い。姫さんのお望みにはまだ達してねぇってわけだ」


 ため息と共に、小夜香は苦々しく呟いた。


 パチン、と。軽やかに指を鳴らす音が、月都の頭の中を反響。


 彼は途端に意識を手放してしまう。


 ――そして、







「月都お兄ちゃん。おかえりなさいなんだよ」


「あれ? ローレライ……僕は買い物をしてたはずじゃあ……」


「なーに寝ぼけてんだよ。ほら、お嬢が腹を空かせてる。とっとと夕飯作っちまおうぜ」


 月都はいつの間にか、愛すべき妹が待つ自宅へと、小夜香と共に帰宅していた。


 されど月都はその違和感を強く心に留めることはない。


 そのように設定されているから――だ。

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