第19話 人魚姫は語らない

「月都殿の女性嫌いは魔人界隈の噂からも把握しております。裏の世界に澱みは多い。あなたはその被害者であり、魔人を恨むのは理解の範疇です。ですが、唐突であったとはいえ、姫君はあなたの様子を案じられて声をおかけになったのですよ? 怯えるのは仕方ありません。それでも単純なこと。友達に手をあげる男の子がいますか?」


「……返す言葉もありません」


 今現在、どちらかと言えば表の世界の価値観に寄った、至極真っ当なお説教を月都に淡々となしているのは、ローレライの世話役をしているという女性だ。


 こうも労りと同情をもって諭されてしまえば、女嫌いである月都も素直に受け入れざるを得ない。


 そもそも自分を心配するローレライを突き飛ばしたことは、月都本人ですら既に大いに反省しているところなのだから。


「お姉ちゃん。月都お兄ちゃんは怖くて怖くて、仕方がなかったんだよ。どうか許してあげて」


「許していますとも。それでも月都殿の今後のためには、最低限のお叱りをなくすわけにはいかないのです。私は話を聞いてくれない相手に、こんなことを言い聞かせませんよ」


 ここは極東魔導女学園のおおよその生徒が使用している学生寮。その最上階。


「月都殿はちゃんと聞いて、反省なさってくださるでしょう?」


「……はい」


 ワンフロアを丸々居室にしたVIP使用の部屋の中、項垂れながらも月都は確かに反省の意を示した。


「ウェルテクス。さっきは本当にごめん。突き飛ばしたりなんてして」


「いいんだよ! 全然気にしてなんていないんだから!」


 最早もげそうな勢いで、ローレライは首を激しく横に振った。相変わらず月都にだけは甘くも優しい少女である。


「さて、お説教の時間は終わりです。姫君が招かれたご客人なれば。この私も精一杯おもてなしさせて頂きますが」


 先程までの硬質な雰囲気は霧散し、かしこまった態度ながらも朗らかに、世話役の女性は月都に向き直った。


「それとも、夜も遅いですしお帰りになりますか?」


 暫し月都は考え込む。


 若干の落ち着きを取り戻したとはいえ、頭や心の整理は未だ終わってはいない。あずさ達の元へと帰るには、もう少し時間が欲しいところだ。


「後少しだけ、ここにいさせてもらえませんか?」


「分かりました。私は夕食の準備に移りますので、姫君のお相手はお任せしますね」


 月都の言葉に快く頷いて、世話役の女はリビングからキッチンに向かう。


「ご馳走いっぱい作って欲しいんだよ」


 その腕にローレライはハシッ、と。親しみをこめた上でしがみついた。


「承りました」


「あれれ? お姉ちゃん、おっぱい前より大きくなった?」


「私は元からこのサイズです! もう……」


 何やら和やかなやり取りを横目に、月都は客人用に出されたハーブティーに口をつけた。







「サシャさん……が時々部屋に来て、ウェルテクスの世話をしてくれる人だったか」


「その通りなんだよ」


 世話役の女性――サシャとひとしきりじゃれ合ったローレライは、曇り一つない天真爛漫な微笑みで月都の対面に座していた。


「最近はお仕事が一つ減ったみたいで。私とずっと一緒にいてくれるんだよ」


 心なしか声が弾んでいる理由が、月都がここにいることだけではないのは自ずと察せられたのだ。


「ウェルテクスはサシャさんのことが好きなんだな」


「私には家族ってものがよく分からないけれど、お姉ちゃんがそういうものかもしれないって思うの」


 月都の指摘に、特に照れることもなくローレライは肯定した。


「ところでお兄ちゃん!」


「おう」


 突然、ローレライがテーブル越しに身を乗り出して来たことで、月都はやや引き気味に身体を後ろにのけぞらせる。


「さっきはどうして泣いていたんだよ?」


 しかしこの質問を口にした途端、ローレライの表情からは笑顔が仕舞われ、彼女には似つかわしくないどこか大人びた面持ちを覗かせるのだ。


「……泣いてないぞ?」


 強がりでも何でもない。


 月都は怯えてはいたものの、涙を流してはいなかった。


「私にはそう見えたんだよ」


 やけに重く、それでいて冷めた口調で、ローレライは呟いた。


「きっとお話すればスッキリするんだよ。是非とも、私にどーんと話して欲しいな」


 しかし次の瞬間には、元の童女のごとき可憐な振る舞いで、晴れやかに笑顔を振りまいていたのだが。


「――ウェルテクスは思ったりしないか? 今自分が生きている現実が、ひどい悪夢だってことを」


 鬱屈とした本心を溜め込むよりも、ここはローレライの好意に甘んじた方が得策か。


「私は……そんな難しいことを考えたことはないんだよ。悪い夢を、月都お兄ちゃんは見ているの?」


「あぁ」


 そのように判断した月都は、自身の感情の言語化を試みる。


「勿論、悪い夢でも全てが悪いことばかりではないんだ。その中でも尊ぶべき出会いはある」


 あずさと出会えた。強く凛々しい憧れの女性と。


 蛍子と出会えた。気難しいがひたむきな初めての友人と。


 彼女達との出会いは、極論実母が殺され月都が地獄に叩き落されなければ、生まれなかったはずの繋がりなのだ。


「母さんが殺されなければ、俺はきっとこうはなっていない。学園に来ることもなかっただろう。もっと言えばウェルテクスとも出会えなかったわけだし」


 勿論、先輩と慕っていた小夜香とも――だ。


「それでも、俺は弱い。だから夢想してしまうものなんだ」


 しかし月都は時折、考えてしまう。


「何もかもを忘却することが叶えば、俺はあの頃の純粋で無垢なまま、汚れることなく生きていられたのだろうか……そんな風にな」


 復讐と逆襲に囚われ、女への憎悪を抱き続けるよりも、姉に無邪気に甘えていた頃のような自分でいられれば、どれだけ良かったことだろうか。


「何も知らずにいられるだなんて、過ぎた贅沢に違いはないんだが」


 だが、どれだけ迷ったところで、最終的にはこのように断じてしまえるくらいに、月都の決意は出来上がっていた。


 弱音を完全に押し殺すことは不可能でも、前に進むにあたって絶対の障害となることはないのだ。


「お兄ちゃんは、」


 恐る恐るといった様子で、月都の語りを聞き終えたローレライが問いかける。


「今までのことを全部、忘れたいんだよ?」


「そうすれば絶対に楽にはなれるだろう? まぁ、土台無理な話である上に、ここまで周囲を巻き込んでおいて実に無責任な物言いだから。結局、夢想は夢想さ。実現はしねぇよ」


「私なら、」


 ローレライがナニカを言いかけた、その時――、


「前菜です」


「わぁ、美味しそうだ。ありがとうございます」


 白い皿に盛り付けられたマリネを、タイミング良くサシャは運んで来る。


「と、ウェルテクス? 何か言いかけたか?」


 彼女の登場に気を取られ、ローレライは続ける言葉を止めた。月都が改めて先を促す。


「ううん」


 されど止めた先の核心を、ローレライがここで口にすることはなかった。


「何でもないんだよ。月都お兄ちゃん」


 あどけない微笑みと共に、月都の黒の瞳を、彼女は愛おしげに見返すのだ。

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