第18話 錯乱

「殺せば良かった」


 猫が立ち去り、あずさの手前一応は手をくださなかった月都が、独り言めいた口振りで物騒な希望を口にした。


「俺と同じくらいあずさのことを好きな奴なんて、血族審判を待つまでもない。すぐに殺しておけば良かったんだ」


 この言葉だけでも、月都があずさへ向ける並々ならぬ執着が実在のものとして形を帯びる。


 彼にとって一番愛おしいのは、肉親にも等しいソフィアに他ならない。


 だがしかし、二番目であるはずのあずさを慕う感情も、決して軽くはなかったのだ。


「あずさの御心は永遠にご主人様のものです」


 表情を意図して無の面持ちに、あずさは真摯に己の想いを語った。


「おまえは悪くない。悪いのは手を出そうとしたあいつと……」


 月都を愛するがゆえの深くも真っ直ぐな眼差しに射竦められたからか、月都は唐突にハッとした表情で、これまでの自分の言動を省みる。


「……いや、そうだな。暫く一人にさせてくれ」


 俯いたまま、月都は告げた。


「ご主人様のお力を疑うわけではありません。ですが、今この時期に一人出歩かれるのは危険ではないでしょうか?」


 さしものあずさも彼の要望を素直に聞き入れるわけにはいかなかったのだ。何よりも月都自身の身の安全のために。


「いいから!」


 悲鳴のような鋭さで叫ぶ。


「これ以上、無様なところをおまえに見せたくないんだよ」


 かと思えば、途端に意気消沈した様で力なくあずさを見やった。


「……」


 あずさは思考する。月都の護衛としては彼を一人にさせたくないものの、精神面を慮るのであれば、今は望み通り一人にさせておいた方がいいかもしれないとの結論が、そう遅くもなく苦渋の決断として導き出されるのだ。


「お気をつけて。なるべく早くお帰り頂けるように願っております」


 深々と頭を下げてその場で主を見送る、あずさ。


 ごめん――と。蛍子に頼まれたパン粉だけをあずさに押し付けて、月都はメイドの前から、夜がやって来た学園の風景に溶けて消えた。









「……馬鹿か、俺は」


 とはいえ行く宛などありはしない。


 フラフラとした覚束ない足取りでたどり着いた先は、ベンチが並べられた学園の一角。


 その側に設置されている水飲み場の水で、おもむろにバシャバシャと音をたてて顔を洗った。


 今は夏ではなく秋。しかも夜だ。肌に触れる気温は冷たさを増していた。


 けれど、今の月都に正常な感覚は備わっていなかった。肉体は未だ燃えたぎる熱を帯びている。


 端的に言おう。月都は自分の知らない、されどあずさに好意を抱く女に嫉妬し、憤怒すらしていた。


 自分以外の人間が、あずさという憧れの女に強く想いを寄せるなど、あってはならないことだと、あの瞬間身勝手にも思ってしまったのだ。


(誰も助けてくれなかった。毎日、毎日、毎日、泣いて、泣いて、泣いて)


 いつしか涙も枯れて、ただそこにいたからとすがりついた女は、偶然にも自分の力を封じていた鍵そのもの。


 誑かしたと強がるように言い張ってはいるが、実際にこうして月都が学園まで逃げ延びたのは、ひとえにあずさが同情してくれたからに他ならない。


 あずさはいつでも、自分自身を罪深いと卑下し続ける。


 だが、虐げられ、ついには壊れ果てた月都にとって、あの地獄から救い出してくれた女、尚かつ首輪をかけることさえ慈悲で許した暗殺者の心から身体まで全てを、自分のモノにしてしまいたいと考えるのは、極々自然な心境であった。


 その上で、こんな歪んだ情動を自然であると断じてしまえる現実そのものが、悪夢めいてもいると、そんな感想を抱いた。


「……疲れた」


 後少しで目的の半分は達成される。


 血族審判を制しさえすれは、母を殺した女に手が届く。それどころか戦争という大義名分を得たことで、より多くの乙葉家の人間を皆殺しに――。


『月都には凄い力がある。それでも母さんはあなたに普通の人として、可能な限り当たり前の人生を歩んで欲しい。そう願ってるわ』


「――っ!?」


 ここで亡き母の思い出が蘇るのは悪趣味にも程がある。


 しかし、そうなのだ。


 母は復讐なんて望んでいないし、ましてや逆襲のために、一人息子が神になることなんて予想さえしていなかったであろう。


 復讐からは何も生まれない。


 魔神を目指せば、人間としての大事なナニカが失われる可能性が高い。


(だとしても、許せないことはある。為さねばならないことも、だ)


 既に済ませたはずの決意を怯えながらも繰り返してしまうまでに、今の月都は精神的に参っていた。


 再度、水を被る。今度は頭から流し入れる勢いで。


 その時――、


「肌寒いのにお水じゃばじゃばなんてして、大丈夫なんだよ?」


「っ、触るな!!」


 声が背後からかけられる。背中にそっと憎むべき女の手が置かれた。


 その声の主を誰かとも認識しないまま、月都は振り返りざまに、彼女を突き飛ばしてしまう。


「きゃあっ」


 車椅子から転がり落ちたのは、水色の髪をショートボブに切り揃えた、耳の長い童女めいた少女。


「あ……」


 ローレライ・ウェルテクス。序列一位の座に君臨する学園の最強だ。


「ウェルテクス……俺、」


 自分の不審な様子を心配に思って声をかけてくれた後輩を、あろうことか手荒く拒絶してしまった。


 今更ながらに湧き上がる罪悪感に、月都の頭は真っ白になる。


 しかし次にローレライがとった行動は、意外なものであった。


「お兄ちゃん!」


 車椅子に戻ることもなく、制服のプリーツスカートが汚れるのもお構いなしに、ローレライは地を這ったまま月都にしがみついたのだ。


「私はお兄ちゃんの敵じゃないんだよ。私はお兄ちゃんのこと、大好きなんだよ」


 日頃の冷静さを著しく欠いている月都を落ち着かせたい一心で、背中――は届かないために彼の腰の辺りをローレライは必死に擦る。


「怯えていただけ。怖かっただけ。そうだよね? 私は気にしていないから。早くお兄ちゃんは元気になるんだよ」


 高校一年生とは思えないくらいにあどけない少女の、初めて見せた聖母のごとき献身に、ここでようやっと本当の意味で、月都は冷静さを取り戻したのかもしれない。

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