第17話 俺の女

「誰だ? その女」


 背後を振り返り、あずさは最愛の主の姿と、何故かは知らないものの、彼が手に持っているパン粉を順番に見やった。


 おそらく蛍子にお遣いでも頼まれたのであろうと予想する。頼んだ側の彼女に悪意は一切ないのは分かっているが、現状のタイミングは最悪に過ぎた。


「昔の同僚です」


「へぇ」


 腕に巻きついた魔導兵器を静かに消し去ったあずさの答えに、甚だしく緊張感に欠けた様子で月都は首を縦に頷かせる。


「乙葉……月都。私は貴様を許さない」


「俺を?」


 だがしかし、猫が敵意をあらわにした途端、月都の浮かべる表情も剣呑な類のものへと変じていくのだ。


「私の愛しの先輩。憧れの先輩。尊敬すべき先輩を奪った憎き怨敵。よくも……よくもぉ……!!」


 猫の発する言葉は、一つ一つが月都への嫉妬に満ちていた。


 尊敬する先輩――あずさを手の届かぬ場所へと連れ去った怨敵であるのだと彼女は月都を前にしても尚、見做している。


「吠えるなよ、雑魚が」


 猫から向けられる悪意に応ずるかのように。唇の端を歪に吊り上げ、嗜虐心に溢れた嫌な笑みで月都は彼女を睨め回す。


「あずさ」


「ご主人様……っ、!?」


 かと思いきや、彼は傍らのあずさの襟元に手を伸ばし、強引に己の側にまで引き寄せた。


 互いの息がかかる程の距離。公衆の面前では相応しくないまでの密着。思わずあずさは事態の深刻さを忘却しかけ、心臓を高鳴らせてしまう。


「貴様ぁ! 私の目の前で兎先輩を汚すなぁぁぁぁぁぁ!!」


 猫の悲痛な叫びを、むしろ良き効果音であるのだと悦ぶかのように、月都はあずさに口づけをした。


 たっぷり十数秒の接触。なされるがままのあずさの目は、隠居した賢者のように穏やかに凪いでいた。ギラつく月都の目とは甚だしく対照的だ。


「あずさは俺のものなんだ」


 まざまざと二人の仲の深さを一方的に見せつけた後、ようやく満足したのか月都はあずさを解放する。だがしかし、嗜虐の色は未だ黒の瞳の中から消えてはいないのだが。


「あずさは俺の女なんだよ」


 強引に引き寄せられたことで、僅かに浮いていたあずさの足は地に戻された。ただし月都は己の魔力で腕力を強化していたことさえ無意識の内である。


「おまえのものじゃない」


 唾棄するかのごとく言い捨てる月都に猫は食ってかかろうとした。だが既のところで気が付いてしまった。


「あずさはな、俺のことを助けてくれたんだ。あずさはな、こんな俺のことを好きでいてくれるんだ。そうだろ? そうなんだろう? そうでなければ、俺は生きてはいけない」


 自分が今、絶対に怒りに触れてはならない者の憤怒に触れてしまったことを。今更ながらに。


「捨てられた分際で楯突くんじゃねぇ。選ばれてるのは俺だ」


 おもむろに右手を掲げた。


 何をするのか。正確なところはその暴虐が起こるまで誰にも予測が出来ない。


 月都には他者の命を奪う手段が幾らでも与えられているのだから。








 前提としてあずさは猫のことを別段恨んではいないが、猫が己に向ける程の好意を返すことは断じてなかった。


 あずさにとっての一番は月都に他ならない。たとえ自分が二番目の女であったとしても。


「ご主人様! おやめください!」


 血族審判を間近に控えた現在、衆人環境の元で揉め事を起こすのは避けたい。そうでなくとも月都は今冷静さを著しく欠いている状態だ。あずさは慌てて彼にすがりついた。


 月都を中心に激しく上下する魔力の脈動が、メイドの懇願を受けてピタリと鎮まった。


「どうか……どうか……お願いします。御身のためにも落ち着いてください」


「落ち着く? 何で。俺はいつも通りだぞ」


「――お願いします!」


「ん」


 普段滅多に見せやしない決死の面持ちであることを、察する月都。


「まぁ、あずさがそういうなら……」


 今にも爆発しそうであった鬼気が薄れていく。月都は手持ち無沙汰になったのか、抱えていたパン粉を手と手で投げては雑にキャッチするのだ。


「猫」


 冷ややかな声音で、かつての後輩の名を呼ぶ。


「ご覧の通りです。あずさはご主人様のモノ。二度と元に戻るつもりはありません」


 当初から変わることのない意志を、不服さと不甲斐なさを織り交ぜた面持ちで拳を握り締める後輩に向けて、あずさは突きつけた。


「あずさとて血族審判の前に余計な揉め事を起こしたくはないのです。去りなさい」


 優秀な固有魔法を有しているとはいえ、一介の暗殺者が天才的な魔人を前に、正面からでは敵わないことは明白だ。


 引き下がるという慎重な姿勢を、ここに来て猫は示す。


「私は、諦めませんから」


 それでも、彼女が残した言葉に諦観は含まれていなかった。

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