第9話 失踪

 謹慎処分中のソフィアや元からサボり癖のある蛍子とは異なり、乙葉家に追われる身分である月都はグラーティア家の庇護下――学園にいた方が何かと都合が良い。


 血族審判が迫ってはいるものの、彼の役割は戦力における部分が大きく、事前の工作や調整には立場的にも性格的にも全くもって向いていない。


 ゆえに今日も今日とて月都は窓の外を眺める上の空とはいえ、授業自体には参加していたのだ。


「――ん、」


 ふと、気付く。


 現在は一般教養――数学の時間であったのだが、いつの間にか目の前には胡散臭い笑みを貼り付けた女教師が佇んでいたのである。


「授業、聞いてましたかぁ?」


「いいや、全然」


 生徒指導にして乙葉家分家筆頭当主。


「これまたハッキリとぉ。悲しいですねぇ、寂しいですねぇ」


 尚かつ以前ソフィアの心を弄んだ敵対者――桐生舞羽。頬杖をついたまま態度の悪さを変えようともしない月都の姿を、彼女は一見すると良き教師のように嘆いていた。


「あの数式ぃ、解けますかねぇ?」


 舞羽が指し示した先には黒板が。


 見やると別な女子生徒が挑戦したものの、中々の難問であるらしく不正解のようだ。バツの悪そうな表情で席に戻っていく。


「当たり前だろ」


 そこからの月都の行動は早かった。


 席を立ち上がり、黒板へ。女子生徒達の警戒と嫌悪が入り交じる視線を背に、ありえないスピードで数式の解を導き出した。


「えぇ、正解ですよぉ」


 舞羽にかけられた言葉を気に留めることもなく、チョークを投げ捨てた月都は窓際の席に戻る。


「この程度の数式、教科書を一度読んどけば、分からない方がおかしい」


 愕然とした面持ちで月都を仰ぐ女子生徒。先程数式が解けなかった者を前にして、月都は煽るようにその言葉を発したのだ。








「ご主人様はご立派だというのに……! あずさは七の段に苦戦する始末……!」


 先程の一般教養の授業で午前のカリキュラムは終了。昼休みと相成った。


 以前、月都に毒を盛った食堂の業者はグラーティア家が取り潰したものの、トラウマという程ではないにせよ、場そのものに忌避感を抱いている月都。


 それよりは信頼出来る友人兼メイドが、朝から丹精こめてこしらえてくれた弁当を食べた方が安心出来ると、学園の外に設けられたテラス席であずさと共に弁当を囲む。


「かくなる上は切腹をっ!」


「せんでいい」


 しかし月都とあずさは食事を摂取する傍ら、学生らしく勉学に励んでもいた。


「頑張ってるなぁ」


「ソフィアさんにも手伝って頂いていますから。あずさがヤル気を無くすわけにはいきません。たとえ大嫌いな勉強であっても」


「そっか」


 月都はさして勉強に打ち込む必要もないのだが、目の前で小学生向けのドリルを真剣な面持ちで解いている様子を目の当たりにすれば、何もしないわけにはいかなかった。


「――あれ、アリシアさんだ」


 弁当の中身はいつの間にか空っぽに。近付く人の気配を察し、参考書に落としていた目線をおもむろに上げると、そこには見慣れた金髪の女性が。


「月都君、それにあずささんも。こんにちは。自主勉強ですか? 学生らしくてとてもよいと思いますよ」


「お宅の娘さんにはお世話になっています」


「ソフィアは人の面倒を見るのが好きですので」


 まだ少し苦手意識を持っているらしい。あずさは学園の理事長であるアリシアへの最低限の礼節は崩さないが、どことなく身構えている風ではあった。


 対するアリシアは流石は魔人の名門の当主と言うべきか。以前あずさに厳しい言葉をぶつけられたことがあったにも関わらず、何事もなかったのごとくフレンドリーに接してみせるのだ。


「でも、月都君が参考書を開いてるなんて意外だわ。教科書を読めば全部理解出来るタイプでしょ?」


「あはは。よく分かりましたね」


「夕陽がそうだったから」


「あずさが真面目にやってるので、自分も少しはちゃんと……って感じです」


「それはいい心がけよ」


 月都からしてみれば、肉親を除けばソフィアに続く兼ねてよりの親しい人物である。自然アリシアとの会話も気負ったものではなく、親しい親戚とでも語らうかのようにリラックスした心地でなされるのであった。


「学生の本分を邪魔するのは本意ではないのだけれど、今日は月都君にどうしても会って欲しい人がいるの」


 そう言ってアリシアは遅れてテラス席にたどり着いた女性を指し示す。


「――あなたは、」


 月都は女性の姿を認め、思わず目を大きく見開かせた。







「へぇ。蛍子の母ちゃんが会いに来るのか」


 一方その頃。落ち着きを取り戻したソフィアが林檎の皮を剥く傍ら、蛍子は入院中の小夜香にある相談事をしていた。


「はい」


「別に嫌いなわけじゃないんだろ?」


「嫌いではないからこそより気まずいと申し上げましょうか。紫子さんはご多忙ですので、わたくしが実家に戻ったとしても、滅多に顔を合わせる機会がないのですよ」


 家の事情で通話なりメールなりをすることはあるし、月都の隷属下となった近頃はむしろ増加傾向にあるものの、父を亡くして以来、蛍子は母である紫子と対面したことがほとんど皆無といっても過言ではなかったのだ。


「ですが、今日。わざわざお忙しい時間を縫って会いに来てくださるそうなのです。今まではその申し出があったとしても、わたくしから断っておりましたが……今度ばかりは、と」


 長きに渡って蛍子の心は闇に閉ざされていた。


 父の死に関して紫子を恨んでいるわけではない。けれども自らと同じ豚、結局は父を救えなかった同類であると見做していたことで、蛍子の側から距離をとっていたのだ。


 それでも彼女は知っている。立場上は娘と呼べない母が精一杯、自分を気にかけてくれていることを。


「まぁ、何だ。あんまり気負うんじゃねぇ」


 母と会って話がしたい。だが、不安は募る。顔を曇らせる蛍子に、小夜香は優しげな眼差しを注ぐ。


「色々と簡単に言い表せないような事情があるのは分かってるが、向こうだっておまえのことがどうでもよけりゃあ、わざわざ時間なんて取らないはずだろ? 自然体が一番さ」


 彼女はいつも通り良き先輩として、手のかかる後輩の相談に乗った。







「小夜香先輩に話を聞いて頂けたお陰で、随分と気が楽になりました」


 話を切り出した時と比較すると、蛍子の瞳には格段に生気が宿っていた。


「療養中にお手間を取らせてしまって、申し訳ありません」


「言うても検査入院みたいなもんだから。気にすんなって」


 深々と申し訳なさげに頭を下げる蛍子に対して、小夜香はシャクシャクと林檎を頬張りながらも、鷹揚に手を振った。


「母ちゃんと話、たくさん出来るといいな」


 重々しく頷いた、蛍子。しかしその表情は緊張に強張ってはおらず、穏やかな笑顔が取り戻されていた。


「それではまた学園でお会いしましょう」


「じゃあね、周防」


「おう。わざわざ見舞いに来てくれてありがとさん」


 そうして蛍子とソフィアは病室から出て行く。


 蛍子は軽い足取りで。


 ソフィアは何かを警戒するかのような雰囲気を纏わせて。


「……そろそろ、潮時か」


 ソフィアは甘い女だ。だが、決して馬鹿ではない。本質的には聡明である。単に弟の前では愛のあまり空回ってしまうだけのこと。


 猶予は最早ないも同然。そう決断した小夜香の行動は早かった。


「周防さーん。検温のお時間ですよー……あら?」


 見舞い客がいなくなって数分も経たぬ内に、周防小夜香が入院していたはずの病室はもぬけの殻と化していた。

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