第31話 和風メイド(ヤンデレ)とのキス

 ソフィアの見舞いを終えようとした月都と入れ替わる形で、あろうことか彼女と犬猿の仲であるはずのあずさが見舞いにやって来た。


 驚く月都へとすれ違いざま、メイドは小声でこう告げる。


 ――今度はちゃんと、歩み寄ってみようと思います。


 そこで月都は以前ホテルで同じ言葉を彼女から聞いたことを思い出す。不安がないわけではないものの、あずさ達を信じ、彼は振り返ることなくソフィアの部屋から立ち去った。


「随分と落ち着かないご様子ですね」


 つい先刻、ソフィアが暴走していた空域は乙葉家の本邸に程近い場所であった。


「そんなにも気になりますか? 最愛のメイドと最愛の姉が仲直り出来るか否かが」


「んー、まぁ。そんなところだ」


「あらまぁ、うふふ」


 銃殺されかかった乙葉家現当主を見舞うという名目で、乙葉麗奈達の足止めを試みていた蛍子が無事に帰還。疲れなど感じさせぬ態度で、月都が借り受けた部屋の中、彼女は甲斐甲斐しく主の世話を焼くのだ。


「心配ではあるけれど、根っこのところじゃあ優しい者同士だからな。俺らとは違って」


「あら、あら、あら、あら、あら」


 紫色の長いポニーテールを揺らしながら、コーヒーを淹れる蛍子。


「わたくし達に他者を重んじる余裕などございませんものね」


「全くもってその通り」


 インスタントやドリップ式ではなく豆を挽くところから始める本格仕様である。道具はグラーティア家の別荘に備え付けられたものを借りている形だ。


「それでも月都様はわたくし達豚とは異なる人間様。着々と目標に邁進していくその御姿を、卑しい豚はただただ畏敬の念をもって見上げるより他はありません」


 手際良く作業を進める傍ら、蛍子は憧憬の眼差しで月都を仰ぎ見た。


「ルコが間に入って、実家を味方につけてくれたお陰でもあるわけだが」


「これしきのこと、月都様の偉業を前にしては塵芥ちりあくた同然でしょう」


「ウェルテクスのとこまで連れて行ってくれたわけだし」


「例え面会の予約を取り付けたところで、月都様でなければ、かの序列一位は聞く耳すら持たなかったはずですよ」


 そこで、蛍子は一旦言葉を区切る。


 いつの間にか彼女の肩は興奮でもしているかのように、大きく上げ下げされていた。


「この狂った世界で、月都様は愛する一人の家族を、あらゆる理不尽から守護したみせた。これが素晴らしいことでなければ何というのですか?」


 男が虐げられる世界において父を目の前で失った女の言葉は、どんな怨嗟よりも重い。








 コーヒーを淹れ終え、蛍子はミルクとシュガーで味を整えたものを、月都の前に恭しく差し出した。


「どうぞ。お飲みくださいませ」


「ありがとう」


 それを受け取った月都は、感謝の言葉を告げた後、ティーカップに口をつける。


「何も言わなくても俺の好みになってる」


「浅ましき豚の分際でございますゆえ、人間様の全てを知りたいという欲求が抑えられないのです」


 カップの中身は甘党の月都の味覚に合った味わいになっていた。メイドとして蛍子は彼の食の好みを熟知していたものの、彼女が知悉ちしつしたいのは、それだけではない。


「月都様、ご無礼は承知の上ですが」


 月都がコーヒーを飲み終えた頃合いを見計らい、淑やかな笑みを蓄えた面持ちが、途端に真剣味を帯びたモノへと切り替わる。


「もしもわたくしが死亡した場合、私室の机の真ん中にある引き出しに遺書がございますので、それを紫子さんに渡して頂けますか?」


「え?」


 そうして蛍子は、月都の唇に自らの唇を重ねた。


「――っ!?」


 何が起きたかを正確に把握し得ぬまま、自らに口付けする蛍子を、半ば反射で部屋の角にまで突き飛ばす。


「ルコ……一体、どういう。いや、それより悪い。突き飛ばして」


 本来であれば受け身をとることくらい、魔人の中でもとりわけ身体能力の高い蛍子にとっては容易いこと。


「どうやらわたくしの見立ては間違いではなかったようですね」


 されど蛍子は、自らがなした主に対する不敬の罰を甘んじて受け入れるかのごとく、突き飛ばされるがまま、壁へと音をたてて激突していったのだ。


「月都様はかつて乙葉家現当主を筆頭に虐げられておりました」


 淡々と蛍子は語る。


 常の大和撫子然とした微笑みが、今は完全に消えていた。


「その内訳は、とりわけ性的な虐待であったのでしょう?」


 空気が張り詰め、沈黙が場を満たす。


「……正解」


 けれど、月都が蛍子の推測をあっさりと認めたがゆえに、周囲を覆い尽くしかけていた緊張感はまたたく間に霧散していった。


「ゆえに驚きました。今わたくしが殺されなかったことに。罰を受けて然るべき蛮行を、豚の分際で衝動のまま、なしてしまったのですが」


「友達を殺す馬鹿がいるかよ」


 立ち上がろうとする蛍子に手を差し伸べ、月都はバツの悪そうな表情を浮かべる。


「正直、おまえとならそういうのは嫌じゃない……けど、びっくりするから次からは絶対に一言くれよ。頼むから」


 月都は過去に受けた虐待によって、女性からの性的な行為に過剰な憎悪を示すようになっている。


 しかし本来であれば、姉もしくは首輪をつけて懐の内へと招き入れた者に対してはあまり問題はないのだが、なまじ体格の近い蛍子から強引に接触されたとなると、恐怖が格段に跳ね上がってしまったようだ。


「君子危うきに近寄らずとはよく言ったものですが」


 ケタケタと蛍子は月都に引っ張り上げられながらも、壊れた笑い声を腹から絞り出す。


「月都様への不敬にあたり、その結果処刑される未来が見えていたとしても、この好奇心は抑え切れぬ。わたくしは本当に本当に本当に! 愚かな豚でございますね!」


「どうどう、落ち着け。目が死んでるぞ」


 おそらくは弟の月都が姉であるソフィアを救ったという事実が、蛍子に何らかの強烈な精神的作用を与えていたらしい。


 普段からしてマトモであるとは到底言えない彼女ではあるが、いつにも増して様子がおかしいことに、月都は今更ながら気付くのだ。


「ご心配なさらず。いつものことですので」


 それでも蛍子は首の皮一枚で上っ面の冷静さを取り戻す。視力の大部分を失っている濁った瞳は、真っ直ぐに月都を捉えるのであった。


「……散々おまえの過去をほじくり返した側だからな、俺は」


 落ち着きを取り戻した蛍子にコーヒーのおかわりをもらい、月都は言葉を続けていく。


「おまえが俺の過去を知りたがることについて、拒否をする権利はないと言っていいだろう」


「懐の広い御方」


「誰にでもじゃねぇよ。キスも過去を探る行為も、友達のルコだったから特別なんだ」


「……っ!」


 月都からしてみれば特別な意味の無い、至って当たり前の事柄を告げただけのことである。


「月都様、そういうところですよ」


「ん?」


 なので、蛍子が珍しく頬を赤らめ恥らっている様子に対して、彼は首を傾げるしかなかった。


「あなた様にはあずさちゃんや生徒会長様が、いらっしゃられるではありませんか」


「おまえのことも好きなんだよ。仕方ないじゃねぇか」


「……豚の身に余る光栄。嬉しゅう、ございます」


 天然のたらしでいらっしゃられますのね。流石は月都様――その後に続けられた蛍子の呟きは慎ましやかであり、彼女以外に聞き届ける者はいない。


「それにしても、よく当ててみせたな。俺のトラウマを」


「あぁ、それでしたら何も難しいことはありません。わたくしと月都様が初めて出会ったあの日のこと、覚えておりますか?」


 言われて月都はティーカップを傾けながら、天井を見上げた。


「黒の紐パン」


「今は赤でしてよ」


「お、おう」


 制服のプリーツスカートの裾をヒラヒラと上げ下げし、中の下着を見えるか見えないかの絶妙なラインで露出させるその姿に、思わず圧倒されるのだ。


「お見苦しいものをあろうことか初対面の殿方に叩きつけてしまい、何とかお詫びをしようと考え、月都様の手を引きましたが、あなた様はまるでゴミを見るような目をされておりました」


「……無意識だった」


 月都はうめくように答えた。


 しかしファミレスで女性客に声をかけられた際、席に座っていたことで彼女らが月都より目線が上であったように、階段で蛍子と出会った時、女性にしては大柄な彼女が階段の上段に立つことで、月都よりも目線が上であったことを、彼は今になって思い出す。


 月都は一部の例外を除き、女という生き物が憎く、それでいてたまらなく恐ろしかったのだ。







「一つ、いいか?」


「はい、月都様」


 コーヒーを飲み終え、片付けに入った蛍子を眺めながら、月都はふと湧いて出た質問を投げかけた。


「おまえのその変態じみた行動は趣味であると同時に、自傷をも兼ねてるんだよな?」


 手を止めた彼女はゆっくりと振り返り、頷いた。


 毒を呑まず、以前よりは立ち直ったはずの蛍子。それでも光のない片側の瞳を細め、楚々とした様相でたおやかに微笑む彼女と相対していると、感じてしまうのだ。


 まるで鏡合わせの己を眺めているようだ――と。


 そうしてついに最後まで、月都は言い出せなかった。知的好奇心だけではない。本当は月都に殺されたいという封じたはずの欲求が抑え切れず、無理矢理キスをしたのではないかという核心に迫る言の葉を。今の情緒を乱した蛍子に言えるはずがなかろう。

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