第19話 悪魔は囁く
「ふぅ……」
表の世界に置かれた臨時作戦本部。一見すると廃ビルにしか見えない乙葉家と共同で使用している建物の中、グラーティア家に割り当てられた部屋の椅子に、戦闘を終えたばかりのソフィアは腰を落ち着けていた。
「お疲れ様でした、お嬢様」
「ありがとう」
執事服を着込んだ品の良い老婆――幼少期にはソフィアの教育係を務めていたグラーティア家の従者に手渡されたタオルを、感謝と共に受け取る。
「乙葉家も無事、ドラゴンを制圧したそうね」
「そうですね。奴らは上が腐ったとしても、魔人の名門ではありますから」
濡れたタオルで流れ出た汗を拭う。傍目から見れば楽勝であったとはいえ、全く緊張の無い戦闘などあり得るはずがないのだ。
「ところで、若様はお元気でしたか?」
優しげな従者の言葉。
「元気と言えば……元気よ」
彼女の声音は何の含みもない、孫娘や孫息子に向けるかのようなモノで。
「昔に比べて本当に身体も大きくなってるから。オリヴェイラ、アナタも今のつー君を見たら驚くはずよ」
「それはそれは」
だからこそ、内心の鬱屈とした感情を悟られぬよう、話の流れを巧みに逸した。
「またお嬢様と若様。お二人で仲睦まじい様子をご覧に入れたいものですね」
「……私もそう思うわ」
しかし笑顔の壁を取繕うのが限界に近付きつつあることを、ここに来てソフィアは薄々と察していた。
ゆえに魔の手は忍び寄る。
弱った時にこそ、闇を這い回る手合の者は、純粋な人間を獲物と定め狙い済ますのだ。
「こんばんはぁ」
「……」
「ちょっとぉ、無言で逃げないでくださいよぉ。傷つきますってばぁ」
「桐生舞羽。どうしてアナタがここにいるのかしら」
ソフィアとしては東京からまた奈良にとんぼ返りをしてでも、月都の側にいたかった。
だがしかし、そんなささやかな望みさえ、いわゆる家の事情のせいで叶わず、仕方ないことなのだと母の手前呑み込みながらも、やはり憮然とした様子で廃ビルを模した拠点の廊下を歩く彼女の前に立ちふさがるかのように声をかけたのは、
「ワタシは乙葉家の分家筆頭、その当主でもあるのですよぉ」
桐生舞羽。極東魔導女学園の生徒指導担当として赴任して来たスーツ姿の女は、相変わらず食えない笑みを顔に貼り付けている。
「此度の臨時作戦本部は乙葉とグラーティアの共同ですからぁ。乙葉家側のワタシがいてもおかしくないじゃないですかぁ」
刺々しい態度で接するソフィアだが、確かに舞羽がこの場にいる説明については、不可解さは何らありはしない。
「もっともぉ、ワタシがグラーティアさんに話しかけたのはぁ、教職の務めを果たすためなのですがねぇ」
「見え透いた嘘ね。刺客風情が」
「違いますともそうですとも言えないのがワタシの立場の辛いところではあるもののぉ、本当に本当に本当にぃ、今日のワタシは生徒指導としてやって来ただけですってばぁ」
けれど、その理屈は舞羽が乙葉の関係者としてこの場にいることの正当性を担保するだけに留まる。
「困っている生徒を、後輩を。教え導くためにぃ」
何故、胡散臭いにも程があるにも関わらず、あからさまなまでに教師として振る舞うのか。
ソフィアは相手の意図を測りかねる。
「ゆえにグラーティアさんは、乙葉月都の元婚約者であったとお聞きしますぅ。あくまで非公式、だそうですがぁ」
「私と乙葉の関係に、部外者が口を挟まないでくれる?」
「まぁまぁまぁまぁ。落ち着いてくださいよぉ。つまりあなたは乙葉月都を憎からず思っているとぉ」
「――構うだけ、時間の無駄ね。私はアナタのご主人と夕食会を控えてるの」
このままではマズいと考えた。
正面衝突であればまだしも、舌戦で勝てる相手ではないのだと、危機管理能力が警告を発していた。
だからこそソフィアは踵を返して、舞羽の元から強引に去ろうと試みる。
「知りたくないですかぁ? 何故、乙葉月都が女を憎悪するのかを。ねぇ?」
されどその背に投げかけられた悪魔の囁きは、彼女を絡め取って離さない。
一方その頃。月都達は予定通り奈良公園にたどり着いていた。
「何でだー!!」
長崎から遠路遥々やって来た小夜香とも無事に合流。
「やけに好かれてますね」
「好かれてるっつーか、たぶん舐められてんだよ! あたしちっこいから!」
しかしそんな小夜香は鹿せんべいを求める鹿達に追いかけ回されていた。
「あらあら、まぁまぁ。集まるだけ良いではありませんか」
嘆きながら絶え間なく走り回る小夜香と、それを眺めて楽しげにケラケラと笑う月都の元に、楚々とした足取りで蛍子がにじり寄る。
「あちらをご覧くださいまし」
「うわっ……」
「……あー」
そうして蛍子が指し示した先では、鹿一匹すら寄り付かない虚無の空間に、ぽつんと佇むあずさの姿が。
「よっ、よう。調子はどうだ?」
「ご主人様」
無を通り越した面持ちと虚ろに過ぎる眼差しで、あずさは月都を仰ぎ見る。
「あずさ、泣いてないですよ?」
そう言って、彼女はボロボロと丸っこい瞳から涙を流す。
言動と感情の不一致。あずさ自身は動物が好きでも、動物からは嫌われる。そのギャップが彼女の心に軋みをもたらしたようだ。
「つかぬことを聞くが、目から溢れ出てるその水は?」
「汗です」
「……拭けよ」
不用意に追及を重ねず、懐から取り出したハンカチを月都は差し出した。
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