第20話 取引
深いため息が月都の口から漏れ出た。
「やっぱり……な」
「気付いておられたのですね」
蛍子のむき出しの狂気を目の当たりにしても尚、無責任な態度で驚愕することはなかった。むしろ腑に落ちたと言わんばかりの様相である。
「あのお茶、俺達じゃなくておまえだけが呑んでたアレ、毒入りだろ」
「どうしてそれを?」
「一ノ宮が校舎を案内してくれた時、あずさをおまえの部屋に忍び込ませておいたんだよ。そこで大量の毒キノコを発見したらしい。まさか死にたいがためだけに、自分でガブガブ毒を呑む奴がいるとは思わなかったって、あいつも言ってたぞ」
「あらあら、まぁまぁ」
口に手を当てて、蛍子は微笑む。
やはり彼女は人間である月都に対しては、異常なまでに寛容であったのだ。
「成分を調べたら一発だった。常人の致死量の三倍は超えてるじゃねぇか」
「毒を飲んだところで、この魔人の身は死にはしませんもの」
両者共に明確な目的地があったわけではない。
「死ねませんもの」
けれど、いつの間に彼らの足は、以前三人で和やかに弁当を囲んだ展望台に踏み入っていたのだ。
「死にたいのに、ですよ? 一刻も早くこの世から消え去りたいにも関わらず、精々が左眼の失明と、右眼がよく見えなくなっただけ。それだって他の器官で不便を補えるのですから、罰には程遠いかと」
長い前髪に隠されている左眼を見ることは出来ない。
「被虐と嗜虐の入り混じった自罰願望は、親父さんが自殺したのと関係があるのか?」
「そこまで調べておられたのですね。本家はそのことを不祥事であると、潔癖なくらいに情報封鎖をしていたというのに……流石です」
「何度も言うが、俺じゃなくてあずさの働きだよ」
唯一露出された右眼でさえ、光はないにも等しく、澱み、濁っていた。
「うふふふふ。乙葉君。無知は罪ですよ」
優美な立ち振る舞いに隠されてはいるが、蛍子の顔色は至極悪い。
「幼い頃のわたくしは、何も知らずに、のうのうと生きておりましたとも」
見晴らしの良い展望台、圧倒的な高所を恐れるがゆえのこと。
「わたくしの存在そのものが、愛した父を追い詰めているなんて露知らずに」
同じ場所ではないのだと。自らに強く言い聞かせても尚、心の奥底に染み付いた恐怖は、そう簡単に消えていくことはなかった。
「本当に気付けなかったのです。断崖絶壁の、荒れ狂う波を前に、父が目の前で身を投げていくまでは」
愛した父が心を病み、娘を残して投身自殺をした光景は、齢十の少女を壊すには充分に過ぎたのである。
「魔人の世界に嫌気がさして、逃げようと試みたのですがね」
魔神や使い魔と対峙することを是とされた女尊男卑の裏の世界。そこから表の世界へ魔人が逃げることが相当に難しいことを月都は知っていた。
「魔人は使い魔を引き寄せる。わたくしに優しくしてくださった方から、次々に不幸は訪れる。あそこで生きている限り、わたくしは災厄を振りまく害悪でしかなかったのです」
寂しそうに微笑んだ。
徹頭徹尾、蛍子は自分の存在そのものを否定する。その痛ましさは、月都の胸に暗く重いものを落とした。
「きっと、そこまでのわたくしは、自分自身が人間であるのだと勘違いしていたように思われます。愚かしい。あまりに愚かし過ぎて、反吐が出そうですね。コレが、こんなモノが、人間であってなるものですか」
幼い頃の蛍子は知らなかった。
「男が虐げられる世界で精神を病み、娘の目の前で自死を決行したお父様も」
彼女の父親は使用人でありながら、名門一ノ宮家当主の愛人でもあったものの、庶子であった蛍子が本家の直系よりも優秀な才覚を示したために、様々な政治的思惑により、苦しい立場に追いやられていたことも。
「裏の世界という檻から抜け出す気力を持てず、さりとて死ぬこともままならぬまま、ズルズルと生き続ける罪深きわたくしも」
父を奪ったこんな世界は嫌だと光を求め、されどその身は魔であることを生まれながらに定められた魔人の身。引き寄せられる使い魔に、蛍子に親切にしてくれた表の世界の人々が襲撃され、最後には皆が自然と手のひらを返したかのように、彼女の存在を厭うようになることも。
「父を愛していながら結局は守りきれなかった彼女も、根深く蔓延る女尊男卑をさも正義とのたまう魔人も、その思想に積極的には賛同せずとも、結局は魔人として歪なままに生きていく者も! 全てが!! わたくしも! わたくしも! 何よりもわたくしがっ!!」
見晴らしの良い場所で、父に高い高いを無邪気にねだった、純粋で無垢であったはずの少女は、
「悲しい程に、豚でございましてよ」
何一つ知らぬまま、その時までは生きていられたのだ。
「だからこそ望んだんだな。自分を含めた全てを豚であると、絶望の末に卑下したおまえは、せめて豚ならぬ人間に罰して欲しいと」
「ただのワガママであることは百も承知です。黙って一人で死ねとは、わたくしのためだけにある言葉でしょう」
だが、無知蒙昧であったはずの蛍子は、ついに知ってしまった。
愛した人を一瞬にして失った恐怖、優しくしてくれたはずの人達に、手のひらを返したように冷たくされる恐怖。それでいて、これらの恐怖の要因は結局は自分自身にあったのだという、絶望。無知のままでいられれば、どれだけ幸福であったろうかと嘆く。
「ここまで明かしてしまっては、最早どのような信用も得られやしないでしょうが」
長いポニーテールを風になびかせて、
「一つだけ、信じて欲しいのです」
蛍子は月都をじっと見つめた。格段に人より狭い視界の中に、必死に写しとろうとするのだ。愛しき彼の姿を。
「わたくしは乙葉君のことをお友達だと思っていたのです。これからも仲良くしたいと願っていたのです」
彼女の口から発せられた言葉に、これまでどのような狂気をぶつけられても動じなかったはずの月都が、初めて狼狽えた。
「ですが、無理でした。乙葉君の姿を見ているごとに、あなたの手にかかって死にたいという欲望は、心に積もり積もっていくのです」
「……そうか」
未だ呆然とした様子で、されど何とか言葉を振り絞った。
「おまえは俺のことを友達だと思っていてくれたのか」
あどけない響きが、何故だか十七の少年の口から紡がれる。
「取引をしよう」
「え?」
「俺に殺されて死にたい。その願いを叶えてやってもいいぜ――ただし」
黒髪黒眼の美人。月都の容姿のおおよそを述べるのであれば、おそらくはこうなるはずだ。
「決闘で俺に勝てたら、だ」
にも関わらず不思議なことに、蛍子の眼前に佇む彼の双眸は赤く染まっている。
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