第19話 童貞じゃなくても死ねる

 ソフィアの部屋がある階の一つ下に、蛍子の部屋は位置していた。


「――よし」


 姉に見送られ、エレベーターを降りた月都は、意を決した面持ちでインターホンを鳴らす。


『どちら様ですか?』


 備え付けられたマイクからは、不思議そうな様子をありありと感じさせる声が流れて来る。


「俺だよ、俺」


『この声、もしや……乙葉君!?』


 名前を自ら名乗ることはなかったが、声を聞いただけで、珍しい訪問客が月都であることに気付いたらしい。


 どことなく懐疑的であった声音に、途端に喜色が混じる。


「時間があるなら、ちょっと外に出てくれないか? 話したいことがある」


『えぇ、えぇ。構いませんとも。他ならぬ乙葉君のお誘いとあらば、喜んで』


 姿こそ扉を隔てていることで見えないものの、弾んだ語り口から蛍子の現在の心情は、何となく予想が出来た。


『ですが、わたくしは到底、外出出来るような格好ではございません。急いで準備を致しますので、中でお茶でも飲みつつ、くつろぎながらお待ちになってはくださいませんこと?』


「じゃあ、そうさせてもらうわ」


『今は部屋着ですので……その、少々はしたなく、乙葉君が不快な思いをされなければよろしいのですが』


「気にすんなって。約束もなしにいきなり押しかけた方に、問題があるんだからよぉ」


『あらあら、まぁまぁ。乙葉君の寛大なる御心に心からの感謝を』


 そこで、蛍子は扉のロックを解除したようだ。


「いらっしゃいませ」


 自動的に彼と彼女を隔てていたドアが開かれるも、


「――はしたないにも程がある!!」


 月都が突発的な発作のごとく叫んでしまうまでに、扉の向こうから現れた蛍子の格好は破廉恥極まりなかった。


「――?」


 しかし蛍子はその反応を前にしても、よく分からないのだと言わんばかりに首を傾げるのみ。


 彼女にとって部屋着というものは全裸にシャツ一枚であり、ボタンを止めることも下着を纏うこともないというのが普通。


 こんなモノは、少々はしたない程度の認識に過ぎなかったのである。










(全く、一ノ宮のヤツ。俺が童貞だったら、危うく死んでたとこだったぜ)


 最初に巻き起こった若干のトラブルを乗り越えた後、中に通されて香り高い緑茶を呑む月都は、先程の衝撃を和らげようと密かに苦心していた。


 それ程までに蛍子の普段着とも呼びたくない普段着のようなナニカは、いつもはブレザーの下で着痩せしている胸も、ニーソックスで覆われているはずの艶めかしい脚も、全てを強引にひっくるめて扇情的に過ぎるワイシャツ一丁であったのだ。


「お待たせ致しました」


 けれど、自分も決して初心ではないのだと、ぐちゃぐちゃになった思考がまとまりかけていたその時――。


「ごふっ!」


「おっ、乙葉君!? 突然血を吐いたりなんてして。いったいどうされましたの!?」


 長袖にすることによって、肌面積の露出を控えめにしていながらも、ボディラインがきっちり浮き出る白ワンピースと黒タイツなんて組み合わせで来られた日には、いくら童貞ではないとはいえ、物理的にも精神的にも殺されて然るべきであるのだ。


 そう言えば、蛍子は見た目だけであれば楚々とした大和撫子であったのだと、今更のように思い出す。変態という強烈なキャラが定着し過ぎていたがゆえの弊害であろう。









「実はなんだけど……俺な、一ノ宮に色々と嘘をついてたんだよ」


「あら、そうなのですか?」


 かつての校舎案内の際と同じように、されど前回とは違って特にあてもなく、月都と蛍子は並んで外をぶらぶらと歩く。


「一ノ宮のこと、階段で出会う前から知っていた。根掘り葉掘りあらゆる情報を、入学前からつい最近まで、あずさに調べさせていたからな」


「そのような遠回りなことをせずとも、わたくしに直接尋ねて頂ければ、喜んでお答えしましたのに」


「流石にそれは気が引ける」


 マトモなことを言っているようでいて、実は月都の基準も蛍子に負けず劣らずおかしいと言わざるを得ないのだが、幸か不幸かその事実を告げる者はここにはいなかった。


「俺は一ノ宮と友達になりたい」


 恐ろしいくらいに透き通った眼差しで、月都はこの言葉を吐き出した。


「仲良くなるっつーのは、相手をよく知ること。おそらくは鍵になると見越していたおまえの過去についても、何とか調べ上げることが出来たよ。最もこれもあずさのお陰だが」


 ニコニコと。穏やかな微笑みと共に、前髪に隠されていない濁った右眼が、彼の純真な瞳を見返す。蛍子の中に己の過去を許可もなく一方的に覗き見られた嫌悪感は皆無。


 最もこの寛容さは唯一の人間である月都に限定されるのだが。


 豚が月都と同じことをすれば、彼女は断じて許すことはないのだから。たとえその相手を抹殺しても、だ。


「おまえは俺に特別な感情を抱いていると、以前そう言ったはずだ」


「はい、その通りですとも」


 スラリと美しく伸びた指を組み合わせ、頬を赤らめる。


「この想いが世間一般の愛や恋と呼ぶのかどうかは定かではありませんが、わたくしは確かに、乙葉君をお慕いしております」


 恥じらいを見せてはいるが、言葉だけは明確に言い切った。迷いも惑いも何もないのだと宣言するかのごとく。


「ちなみにそれは」


 恋い焦がれる乙女の様相を横目に眺めつつ、改めて月都は問いかけた。


「具体的にはどういった感じだったりするのか、聞かせてくれないか?」


「本人を前にこんなことを申し上げるのは、お恥ずかしい限りなのですが」


 照れくさいといった風に、両手で頬を挟み込み、ガラにもなくもじもじとしている蛍子。


「人間である乙葉君自身の手で、卑しい卑しい豚――わたくしを殺して頂きたいのですよ」


 だからこそ、なんてことのないように語った願望のおぞましさは、より増していく。

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