第17話 豚

 メキメキと、月都のいとこ――麗奈の顔は教室の床にめり込む。先程までの威厳はどこへやら。無様に這いつくばっているその姿だけを眺めるならば、


「わたくし達は豚なのです」


 ひとまず豚と呼んでも相違はなかろう。とはいえ蛍子の吐き出す数々は、甚だしく狂人のソレではあるのだが。


「檻の中で浅ましき生を謳歌する、哀れな哀れな豚ですとも」

 

 未だ蛍子は彼女の頭を鷲掴みにしたまま、離そうとはしない。にこやかな笑みと両立される剣幕に怯え、野次馬達は勿論、麗奈が引き連れていた取り巻きでさえ、蛍子への手出しは憚られる。


「彼は人間です。彼だけが唯一の人間様」


 周囲からは恐怖の視線を一身に受け、されどそれに対して気にする素振り一つ見せず、淑やかな口調で言葉を続けていく。


「だというのに、豚の分際で何という無礼を、乙葉君に働くのでしょうか」


 麗奈が月都へ言い放った暴言を前に、蛍子は彼以上の怒りを覚えていた。


「豚が豚に許しを願う? あらあら、まぁまぁ。心底笑わせてくださいますのね。あなたが本当に許しを得なければならないのは、他ならぬ乙葉君であるというのに」


「何、を――」


「――頭が高くあらせられますよ」


 床に顔をめりこませながらも、蛍子から加えられる力に抗い、無理矢理に顔を上げてまで言い返そうとしたところで、蛍子のローファーの硬い箇所が麗奈の頭を容赦なく穿ったのだ。


「わたくしも豚です。この場にいる乙葉君以外の全て、そう、序列一位も二位も皆が皆豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚豚に他なりません」


 自分は豚であると、他者も豚であるのだと。


「卑しい卑しい豚であるわたくしよりも雑魚であることが、まだ分からないというならば」


 魔人の中でも一際異質な価値観を有する大和撫子は、


「身体で分からせるしかないのでしょうね」


「ぐっ、あぁっ!!」


「吠えても無駄ですよ。こんなもので、わたくしの怒りは微塵も鎮まりませんから」


 出来の悪い畜生を調教するかのごとく、豚と断じ雑魚と蔑んだ女を、その細く長い足でもって、徹底的に踏みにじり続ける。


「あなたのような無知蒙昧な輩を見ていると、どうにも心がざわつくのです」


 不意に蛍子の表情から笑顔は消えていた。


「友愛こそが、豚同士の傷の舐め合いこそが、わたくし達豚にとって何よりも大切であるというのに。何故、何故、何故。こんなにも苛立ってしまうのでしょうか」


 最も、麗奈の頭を踏みつける力は強まるばかりであるのだが。


「……あぁ、そうでした」


 荒ぶる蛍子を前に、月都はひたすらに俯いていた。


「わたくしは、ね」


 そうでもしなければ、到底隠し切れなかったし、抑え切ることも出来なかったのだ。


「幼き頃のわたくしのような愚か者。無知蒙昧な輩を、断じて許すことは出来ないのです」


 心の奥深くからこみ上げて来る笑いを。








「あははははははは、あははははははははははははははははは!!」


 しかしついに限界は訪れる。


 目に涙を溜めてまで、笑い転げるその様に、蛍子に怯えていた女子生徒達は、月都の異様さにも恐れをなすことになるのだ。


「あら、あら、あら」


 口元に手を当てて、クスクスと微笑む。


 最早彼女の足は何をも踏みつけてはおらず、足を二本お行儀良く閉じた上で、常の優美な佇まいを取り戻していた。


「わたくしのことを、試されまして?」


 人より格段に視界の狭い、濁った瞳が月都を捉える。


「そうだよ。おまえのことをもっと知りたかったんだ」


 えもいわれぬ不気味さからは目を逸らさずに、不遜に受け答えをしてみせるのだ。


「まぁ……そんな。わたくしに注目してくださるなんて……光栄です」


 頬を赤らめ、何やら蛍子は身体をくねくねとさせる。自分に少しでも月都が興味を持ってくれているということが察せられて、嬉しくなったらしい。彼女は月都に特別な想いを抱いているのだから。こうなることは当然とでも言うべきか。


「色々と吠えてくれたみたいだがなぁ。生憎、あずさという枷を取っ払った俺を縛るものは、もう何もないさ」


 ようやく笑いの発作は治まったらしく、それでも未だ涙の薄っすらと滲む瞳をこすりつつ、月都は床に這いつくばり、あまつさえ咳き込んでもいる麗奈を、無邪気に見下ろした。


「黙って見ていろよ。おまえの母親は殺す。俺の母さんを殺したあの女だけは、絶対に屍を晒してやるってんだ」


「そのようなこと――させてなるものか!」


「うるさい」


「ひっ、」


 眼前に突き付ける、人差し指。


 ソレは月都の本来の恐ろしさを知る麗奈にとって、銃口を突きつけられたにも等しい所業で。


「……いいか! 月都! 私達の手駒は! あの兎だけではないのだぞ!」


 能力においては生まれながらに桁外れであるものの、精神面においては軟弱。


 だからこそ母と共に麗奈は少年時代の月都を、光の届かない地下の中、あらゆる手段をもって虐げ抜いたことで、簡単には立ち直れない心的外傷を植え付け、彼を恐怖を軸にコントロールしようと試みたのだ。


「貴様の企みを潰す手立ては揃えている! 精々自らの死期を怯えて待つのだな!」


 にも関わらず、その成果は発揮されることなく、月都は誰の手も借りずに自力で檻から逃げ出してしまった。


 今の乙葉家にとっては予想外なのだ。乙葉月都がメイドと共に、自由に学園生活を謳歌しているだなどといった珍事は。


「怯えているのは果たしてどっちなんだか」


 彼の煽りは、確かに麗奈の心臓を握り潰しかけていた。


 ただ取り巻き達の手前、強気な態度を崩せなかっただけのこと。ご丁寧に貴重な情報の一端までを吐いてくれて――と、月都は内心ほくそ笑む。

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