五、自信
自身は恋愛感情を抱いたことがないと、五郎は思っていた。しかし、思い返せば、友人の姉妹などに惹かれたことは幾度かあったはずだ。その度に自身を諌めて、将来、妻とする少女こそが想い人だと自身の恋心を規定した。その規定からは解放されたものの、今度は臆病と醜さを認められない心が、恋ではなく友情だと規定する。
しかし、本心は、先日の詠歌に表れているとおり、恋というものが何かを知りたがっている。抱き寄せて、触れたいと思っている。励ましに肩を叩かれたり、慰めに膝へと手を寄せられたとき、友人の顔でそれを受け取りながら、触れられた場所はざわと血が速く流れ、さらなる熱を求める。汚い。受け入れられない自分だ。
『僕は五郎くんのことを好ましく思っている』
この言葉に、五郎は値しない。五郎の思いが知られたら、千歳にとって他人事でないと気付かれてしまう。秘める以外の選択肢を取れない。真心を明かせない。こうして、臆病でつまらない自分の殻は、一層ずつ厚くなる。
五郎は近ごろ、自分が日増しにつまらない奴になっているような気がしてならない。真心で語れないのだ。政治を語っていても、いつも正論に留まってしまうので、よく勉強していると言われるばかり、良い意見だと取り上げられることはない。
「自信は、どうやったら着くと思う?」
牛酪作りの千歳へと尋ねた。千歳は竹べらをゆったりと動かしながら、歯切れ悪くも答える。
「僕を相談相手とするのは、判断が間違ってると思うよ」
「だけど、伊東先生に聞くとさ、まず真心で語ることが大事ですって返されそうじゃないか。そうするための自信は、どうしたら得られるかと聞きたいんだよ、僕は」
「自信ねぇ」
牛乳からの蒸気を吸って、痰の絡まる喉を潤しながら、隣に座る五郎を見る。英和辞書を読むでもなくめくり、眺める横顔は、珍しく物思いの憂鬱があった。
千歳には不思議だった。秀才で、人当たりが良く、剣技にも長けており、若干十七歳にして立派に新撰組隊士として勤めている。どこに出しても恥ずかしくない若人が、自信がないと言う。
「何が足りないって言うの? 五郎くんには」
「……僕は一人前の志士だっていう、自信」
「君、謙遜もすぎると嫌味だぞ」
「違うよ、僕なんか本当、ただ末席に縋り付いているだけ。君だって言ったじゃないか、自分の思想は教育の賜物、偽物に思うって。あのときは得心いかなかったけど、最近、それは僕こそだって思うんだ」
五歳で仮名が書けるようになり、七歳で白文の論語を読み下した。勉強ができれば、褒められる。認められる。だから、常に正解を頭に入れておきたかった。回答が正しくなければ、認められない。認められなくては、教室にどんな顔をしていればいいか、わからなかった。
その精神が、今も残っている。五郎の修練とは、世が定めた正しさを我が物にしようとするばかりで、自分本来の真心を理解し、表現しようとはしてこなかった。
「僕の意見は、誰かの意見の切り貼りだ。君は、そこから抜け出そうとしているし、実際に君なりの見方ってものを持っている」
「え? ぼ、僕も持ってるつもりはないよ……」
「持ってるじゃないか。君はいつも、庶民の生活を考える。それから、教育に関心がある。生い立ちに関わらず等しく教育を与えることで、貧困から抜け出させ、才子を登用させる機会とする。君が生きるなかで得た『大切』が、その見方を持たせたんだ」
「そう、か。なるほど……」
「だけど、僕はたぶん、世の中を我が事として肌で感じ取る力が弱い。広く政治に関心があると言えば聞こえはいいけれど、これと定められなくて、知識が深まらないから、議論も浅くなる」
「難しいなぁ」
千歳は重くなり始めた牛乳を覗き込みながら、まだらにできた塊を潰していく。五郎に言われて、自分の政論には生活と教育が軸を成していると気付いた。では、五郎はと考えても、たしかに思い付かない。強いて言うならば──
「海防と尊王、なんじゃないかとは思うけど……。でも、このふたつって肌で感じることは難しいよ。政論の中でも一番の大事に当たるんだもん」
「それに、それらは志士なら皆が気にかけて当然の議題だ。僕より詳しい人はたくさんいるし、実際に異国の艦隊を見たこともない。どうしても、机上の空論になる」
「まぁ、教わったことを言い直すばかりになりがちな議題だけど」
「だから、自分らしさが見出せない。そうなってくるとさ、僕が志士だと証立てるためには、志と心中するしかないような気がしてしまうんだ」
「はぁ? え、ちょっと待て」
唐突な展開に、竹べらを取り落とす。七輪に当たり、カラリと乾いた音を立てて砂地に横たわった。千歳は拾い上げもせず、腰を据えて五郎へと向かい合った。
「死んだらそれでお終いだから、現世で志を成し遂げたいと、君は自分で言ったろう」
「言ったっけ、そんなこと……」
「言ったよ! 山南先生が死んだ翌日!」
亀屋の二階で、人は死んだらどこへ行くのかと泣く千歳に寄り添って、五郎は自身の霊魂は死んだら消えてほしいと、確かに言った。千歳は、五郎もまた死に恐れを抱く者だと知り、慰めを得たのだ。
敬助こそ、治らない体調不良のなかで、自らの志と心中したと思われるのだ。近藤初め、隊の大人たちは皆、敬助は武士として立派な務めを果たしたと口を揃えて言うが、千歳はいまだ納得がいっていない。
「生きてる限り、言葉と行動をもって志を示し続けられる。けれども、死んだらもう考察されるだけだ。それが誤りでも、訂正なんかさせてもらえない。歴史の一部になったら、終わりなんだよ」
両肩を掴み、揺するように力を込める。五郎は眉を歪めて、千歳を押し退けるように腕を
「安心してよ、本当に心中したりはしないから」
「……ごめん」
千歳は何か怖さのような騒めきを胸に感じながら、竹べらを拾い上げ、先端を懐紙で拭った。急いで土鍋をかき混ぜる。底が焦げ始めていた。横目に五郎を見ると、英和辞書を拾い、表紙の砂を払っている。手付きに気の立った様子は見られない。
「……ごめん、五郎くん。驚いてしまって」
「ううん。君は先生のこと──」
涙を堪えた琥珀の目に見つめられ、五郎は言葉を継げなかった。千歳は敬助の話を出さない。啓之助と共に四十九日や盆供養を差配しているはずだが、墓参したと報告がされたことはない。それでも、考え続けていたことは、今見せた衝迫からわかる。
千歳の涙がこぼれ落ちる。五郎は、先程までの葛藤も忘れて、肩を抱いてしまう。亀屋の窓辺で慰め合ったときと同じく、千歳の頭が五郎の肩へと寄せられた。千歳がしばらく啜り上げるあいだ、五郎は牛乳の土鍋を絶えずかき混ぜて気を紛らわせていた。
会津屋敷から戻った啓之助も交えて、宿坊棟の濡れ縁で三人、昼食を食べた。近藤が呼び出しを受けた旨は、昨日、大坂表の老中方が長州藩主親子へと上坂を命じたことだった。
「会津さまが言うには、これが最後の勧告で、毛利公がまた病気とか言って背いたら、いよいよ……だって」
「会津さまとしては、毛利公は大坂に来られないだろうって見立てなの?」
「そうみたいだね。俺も来ないと思うよー。というか、高杉たちは交戦する気しかないでしょ、相当な武器弾薬が長州に運ばれているらしいし。しかも、その流しには、どうも薩摩が噛んでるみたいでさぁ──」
「え、なにそれ、聞いてないよ」
千歳が箸を止めて話を遮ると、啓之助は誤魔化すような笑顔を五郎に見せて、取りなしを求める。五郎は呆れたため息と共に首を振るだけで、何も言わない。千歳が重ねて、説明しろと詰め寄る。
「薩摩ってどういうこと? おい、それは誰から聞いたんだよ。しかも、なんか言っちゃいけなかったみたいな顔して」
「お仙くん、落ち着いてください。私も色々、聞くでもなく聞いてしまう立場にあるんです。今はうっかり口が滑っただけのこと。これ以上、口を割らせようとすることは、近藤先生もお喜びにはなりません。ね、はい。柿をあげましょう、お咳に効きますよ」
流れるような口上で切り分けられた柿を手に乗せられた千歳は、場を収めるしかない。柿をありがたく受け取り、自分の膳へと加えた。
「わかったよ、黙ります。あ、じゃあ、代わりにこれを聞こうかな」
「はい、なんでしょう」
啓之助が神妙に姿勢を正して見せる。千歳はちらと五郎に目を遣ってから、どうしたら自信を持てるかと尋ねた。
「さっき自信について話してたんだ、ふたりで。自信を持てないことには、真心から話すのは難しいって。それで、思ったんだけど、三浦くんも一年前は自信あるように見えなかった。でも、最近は違うなぁって」
啓之助は最近、全く問題を起こさない。総司との稽古でさえ、一応は逃げずに受けている。誰かに文句を付けたりもせず、近藤の信頼をしかと勝ち得ている。
「あー、そうだねぇ、自信? まあ、ひとつは弥生のおかげかなぁ。ほら、俺の家ってさ、真っ当な大人がいなかったでしょ?」
相槌に困る問いかけに、千歳は「うん」と「ううん」の中間の声を出すが、啓之助は気にせずに続ける。
「弥生は、なんか、すごく真っ当なんだよね。優しいけど、甘やかさないっていうか。頑張ったことはちゃんと認めて褒めてくれるし、俺が意気地ないときは尻を叩いてくれる。だから、自分のなかで、弥生なら今の俺にこう声をかけてくれるだろうなって目安? 指針? ができて、迷わなくなった。あとはぁ、なんか、駄目なままでもいいかなぁって思えるようになったんだよね。──おい、止めろよ中村、その顔。言いたいことはわかる、向上心は大事だよな」
五郎を見れば、子どもが着物を泥だらけにして帰ってきたときの母親のような、手に負えないものへの厄介さが顔に出ていた。
「だけど、違うんだよ。俺は、自分が異常な奴だってのを理解しているの。んで、異常な奴が真っ当なふりをしようと頑張っても、取り繕いきれないんだよ。仇討ちもさ、無理でしょ、俺の実力じゃ。だから、周りの──というか
「それって、いつくらいのこと?」
「うーん、年明けくらい? 冬まではさ、さっさと江戸に帰りたいって思ってたけど、二月か、会津さまが国へお帰りになっても隊は京都に残るってなったとき、俺、自分でも意外なくらい嬉しかったんだよね。それは、君たちのおかげだと思う」
啓之助が千歳と五郎のそれぞれに顔を向けて、礼を示すようにうなずく。千歳は気恥ずかしさを覚えながらも、うなずき返した。
「君たちは、俺が素直に振る舞っても受け入れてくれる。近藤先生も、俺が精一杯やって失敗したときは、絶対に叱らないでいてくれる。だから、なんか、俺、別に頑張らなくてもいっかって思えたんだよね。そしたら、気持ちがずっと楽になった」
「それが、伊東先生の言うところの、醜さも認めるってことなのかなぁ?」
五郎は思案に床の一点を見つめてまばたきを繰り返すばかりで、千歳の問いには返さない。千歳は手応えのないまま、啓之助へと尋ねる。
「今は自信が着いたって、言える?」
「これが自信なのかなぁ? よくわからないけど、自分に対して不安に思うことはなくなったかな。上手くやらなくても大丈夫って思えるようになったから」
「そっか、なるほどね……」
受け入れられているという安心感を持てたことが、啓之助の落ち着きの根源なのだろう。駄目な自分を受け入れて、無理に変えようとせず、精一杯に日々を過ごす。言っていることが僧侶のようだと思いながら、千歳は我が身を振り返った。
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