四、恋歌
夕食を急ぎめに食べ終えた千歳と五郎は、内海の指示で表座敷に歌会の支度を進めた。南縁に文机を並べて祭壇とし、餡餅を乗せた三方と薄の瓶子を飾る。座敷の四隅には行灯を据えて、逗子棚には対の花入が運ばれる。葉が赤く染まった南天の枝と竜胆の花、細い荻。伊東が活けたという。
次いで、茶菓子を用意するように言い付けられたところで、啓之助が香合を持って座敷へと入り来た。
「こんばんはー。あ、お仙くん、久しぶりー。内海さん、お香ですけど、どこに置きますか?」
啓之助の忙しなさとは対照に、内海は常と変わらぬ落ち着きで、花入の間に収めるように指示した。松葉のような涼やかな薫香が広間に満ちる。
「いやぁ、間に合ってよかったよー。お話、長引いてさ。にしても、ずいぶんと立派な
「ね、もてなしの場って感じだね。はい、お皿出して」
千歳は桐箱から紙に包まれた銘々皿を取り出し、啓之助へと手渡す。紙を剥かれた皿が十七枚並ぶと、五郎が懐紙を敷いていく。その上へ、饅頭と落雁を乗せながら、啓之助が尋ねた。
「でも、意外だな。中村くん、詩歌得意じゃないって言ってたのに」
「君こそ意外だよ、文芸の会に出るだなんて。歌論なんかには興味ないと思ってた」
「興味はないよ。でも、伊東先生に、詠まなくても評者として出ていいと言われたから」
そんなのありかよ、と五郎が息だけでつぶやいて、宙を見上げた。よほど歌作に苦しんだと見えて、千歳は五郎の背を労いに叩いてやった。抜け殻となった紙を箱に仕舞い、菓子皿に黒文字を添えていく。
「で、三浦くんはなんで興味もないのに評をしようと思ったの?」
「勉強したくてさ。人の心の働きについて」
「君が⁉︎ 人の心を──!」
思わず声を挙げた千歳が咳き込み、今度は五郎が千歳の背を
「君は俺が他人の気持ちなんか全く興味ないと思ってるみたいだけど、違うよ? 理解できないだけ。だから、勉強しにきたんだ」
「どういうこと? そも、感性って勉強するものじゃないでしょ」
「君は、人の心にことごとく
「……君に、成長を感じている」
「そりゃ、どうも」
勉強すると言ったとおり、啓之助による歌評は拙い。思いが打ち明けられず苦しい、との歌には、
「『心も知らず』とありますが、そりゃ、お相手さんは詠み手が恋してること知らないんだから、当然だろ、と思います。まず伝えてみなくちゃ、どう転ぶかわからないんですから、伝えてみればいいのに、とは思いますけど」
と、恋心の繊細な機微にまるで寄り添わない感想を述べて失笑をかった。けれども、一応は理解の示し方を覚えてきたのか、
「でも、言えないんですよね。ダメ、に転んだらと思うと怖いでしょうから。その気持ちが、よく伝わってくる歌だと思います」
と、心情を汲んだ内容で評を終えた。
伊東は決して啓之助の発言を笑わない。さらに理解を深めるため、質問を与えた。
「この詠み手が恐れているのは、自身の失恋のみではないでしょう。他に、どんなことが読み取れますか?」
「えー。──お仙くん、何?」
「自分で考えろったら」
千歳に突き放され、啓之助も腕を組んで考える。唸りながら、千歳の顔を見て、五郎の顔を見て、また千歳の顔を見てから、思い付いたように声を挙げた。
「あ、仲が良いんですね、きっと。今のままでも、ふらっと会いに行ける間柄なのに、思いを告げて振られでもしたら、もう戻れなくなります。だから、一か八かに賭けるよりは、思いを秘めると決めた。でも、それでも、我慢するのは苦しい、ということでしょうか?」
「そうそう、そうとも考えられますよね。よく汲み取りました」
大きく頷いて、内海へと次の詠歌を促す。千歳が評を述べる番だ。一層の気を込めて、矢立の筆を構えて聞いた。
月ぞ昔の影に
(今生を共に過ごそうと誓ったあの人とも今は別れた。月の光だけは昔と変わらず清らかで美しい)
風景は変わらず、人だけが過ぎゆくとは、漢詩に好まれる趣向だ。客観に景色を描きつつ、静かに心情を滲ませるとは、伊東の歌風ではない。この文芸家は誰だろうかとコの字に座る一同を見渡しながら、評を述べる。
「この歌は、『
この冷静さは内海か。意外と、佐野か。漢詩に通じているなら尾形か。斯波と目が合う。いつものとおり、千歳の言葉をうながす優しい目だった。
この男に、将来を約した相手がいたのか。今も心に痛みを覚えながら、月を見上げるのだろうか。考えれば、妙に心が騒めく。
「あー、僕はこの歌を聞いて、漢詩の『
逃げたな、と千歳は思った。他人の心に触れることもまた、勇気がいると思い知る。評を技巧論に留めて、心情には立ち入らなかった。つまらない評を残したと自身を腐しながら、五郎の評を聞いていた。共に月を見上げた思い出が、一層月を美しく見せる、末までとの約束は詠み手の中で今生残り続けることを示唆した佳作との、真面目で真っ当な評だった。
「──はい、歌と評、共に素晴らしかったですね。それでは、次にいきましょう」
内海が一息を吸って、次の短冊を詠じた。
我はまだ恋を知らねど
君にこそ恋てふものの知り
(僕はまだ恋を知らないけれど、君への思いこそが、恋というものを理解する初めてだったらなぁと思う)
一転してかわいらしい歌に、一同が笑い声を挙げ、末座へと顔を向ける。詠み手は千歳か五郎かに違いない、どちらだろうと見定めているのだ。実際、右隣の少年は、耳を真っ赤にして俯いている。千歳は、歌を詠むなら若さを抑えろと忠告し忘れたことを強く後悔した。
評者である佐野が手を叩いて場を静め、しかし、にやにや笑いは隠しもせずに言う。
「いかんよ、君たち。歌評は匿名に宛てるからこそ、言いたいことが言えるんだ。あいつが詠んだんだろう、なんて、勝手に勘繰っちゃ、正当な評にはならんよ」
前置きした佐野は、頭でっかちな恋愛観と技巧の拙さとを散々に取り上げて批評した末に、年長者らしい説教の調子で締めにかかった。
「物事の理解とは、外から眺めるだけでは足りませんね。手に取って、匂いを嗅いで、しかと味わって……。さぁ、この少年が今、『恋てふもの』と思っている心情が、半年後にどうなっているか、とても楽しみですね。ぜひ、次回以降も歌会に参加していただきたい」
言いたい放題に言われた五郎は、歌会が仕舞いとなり、片付けが粗方済んだ段になっても、意気消沈としていた。表座敷の隅で、千歳は慰めの言葉を重ねる。
「でも、僕、本当に君の歌、良いと思ったよ。心の底からの言葉だったじゃない。佐野さんが意地悪だっただけだよ。あの人、本当に意地悪だよ。若いと見ると、すぐからかって」
「もういいよ、僕が下手なのに変わりはない」
「歌は上手い下手じゃないって、伊東先生も仰っただろう? 自分らしさが重要だって」
「あんなの、別に僕らしくもないよ」
「五郎くんらしかったよ。恋てふものの『
千歳が声音を変えて、創作論に話を持っていこうとしたところで、行灯を抱えた啓之助が横から口を挟む。
「あー、お仙くん。それは、あんまり聞かない方がいいと思うよ」
「え、どうして?」
「だから、中村くんはそこを掘り下げられたくないだろうってこと。布団、敷いておくね」
言い訳を堪えて下を向く五郎の横顔に、祇園祭の夕立を思い出す。あの茶屋の娘のことであれば、たしかに千歳には気不味い。表座敷を出て行く啓之助の背中に、思わず声が漏れた。
「あの人、なんであんなに人を
「……知らない」
意気のない返事に、千歳が打つ手なしと宙を仰ぐと、自室へ戻す行灯を提げた伊東が千歳を見下ろしていた。
「酒井くん、歌論を扱ってみようかと君に話したとき、僕は何を詠題にしようと言ったか、覚えていますか?」
「え? たしか……
「ええ。そうなんですよ、中村くん」
伊東がふたりの前に座る。呼びかけられた五郎は、話の前後が読めないまま、姿勢を正して向かい合った。
「初めは
「……はい」
「では、もうそれで満点なんですから、しゃんとなさい。もし、これが政論の批評だったら、どうです? 深く考えて、心からの言葉で語ったものが、ある人には未熟だと受け入れられなかった。深く受け止めて、次に活かそうと思えたはずでは?」
「たしかに、政論であったなら、そうだと思います。けれども、政論と歌とは、また別です」
「何が違いますか? いずれも、真心にて語る言葉です」
「それは……」
五郎が膝の上で拳を握る。千歳にも、政論と歌とは同じに思えない。五郎の弁明を待った。
「……僕が恋愛を真心から語れないから、だと思います。……下らないと考えているからです。色事は修練の妨げになる、と。しかし、切り捨てられず、囚われています」
「切り捨てられないのは、君の中に恋愛がたしかに根付いているからでしょう。それを認められないのですね」
「認められません。恋愛について考えている自分は、とても……汚く思います」
五郎は以前、恋愛をしたことがない自分は欠けた人間に思えると語った。聞いてはいけない話に同席している気がして、居心地悪くまばたきする千歳へと、伊東が尋ねる。
「君はどう思います? 君は、愛を所有欲と寂しさを埋める言い訳だと言いましたが、やはり君も自身を汚く思うのでしょうか?」
「そう、ですね……」
五郎と目が合う。眉根の震えは、悲痛にも混乱にも見えた。誤魔化すように笑ってしまう。
「でも、人を愛する心は
また逃げたな、と自分の声が責める。伊東は常に真心から語ることを求めるのだ。聞いた言葉ではいけない。まずは自分の心を明かすことからだ。五郎へと向き直った。
「僕は君を汚いとは思わない。ただし、自分のことは汚いと思う。身勝手で嘘吐きで、相手の好きって心を利用して、我が身に利をなそうとするから」
「しかし、酒井くん。それはきっと、中村くんとて同じことでしょう。君は、自身の方がより身勝手だから、自身は汚いというのですか?」
「いえ、身勝手さの多少ではないと自覚しています。他人なら許せる、自分では許せない。その矛盾です」
「その矛盾は、どこから来るものですか?」
「それは──」
五郎が身勝手さを見せないようにしているから、汚くないと言えるのだろうか。知れば、汚く思うのだろうか。いや、たとえ五郎の身勝手を目の当たりにしても、千歳は五郎を許せると思う。しかし、自分は許せない。歳三のことも。その差は──
「第一には、所詮、他人事だからでしょう。五郎くんの身勝手さが、僕を侵害するわけでもありませんから」
身も蓋もない答えだ。五郎が動揺に顔を強張らせ、伊東が声を立てて笑う。千歳は怯みかけた自身を鼓舞して、言葉を継ぐ。
「第二には、好きだから許せる、という心はあると思います。つまり、僕は五郎くんのことを好ましく思っている、だから、その心が多少、恋愛で乱れようと許せる。しかし、僕は僕自身のことを好ましく思っていない。そんな奴が身勝手してたら、なお一層、許せません」
「なるほど、本質を突いている。中村くんも同じ理由で君を許して、自分を許せないのでしょうね」
五郎が歯切れ悪くも頷いて、同意を見せた。伊東は何か懐かしむような温かさをもって、五郎へと言い聞かせる。
「身勝手や利己、妬みに欲望。それらを抱く自分を否定する必要はありません。醜さを含めて自身を認めるのです。それが、己の真心を知る、第一歩ですよ」
「先生はなぜ、『恋愛事』などと言われないのでしょうか」
「僕も、酒井くんの言ったとおり、心の働きを否定したくありません。それに、失敗や拒絶を恐れずに向き合うことは、恋愛だけでなく、学問、政治においても重要ですから。恋愛事と蔑まず、お相手に向き合ってごらんなさい、真心を以って」
拒絶を恐れずに向き合うこと。真心で話すこと。そのためには、醜さも認めること。相手の醜さも認めて、許すのだろう。
その晩、千歳は布団の中で、歳三に許しを与えては、許しきれるほどの理由が見当たらずに悶えていた。
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