三、表裏

「お木綿、起きてるー? 降りてきてー」

 早くも起き出した千歳は、土間から二階へと声をかけた。木綿が細い声で何かを言おうとしているが聞こえない。早く降りてくるように重ねて言い付けると、千歳は七輪で湯を沸かしにかかった。

 薬土瓶に薬包を空け、薬湯が沸騰し始めたころ、木綿が目をこすりながら寝巻き姿のまま降りてきた。千歳は土間から振り返る。

「お木綿、ちゃんと着替えてきなさい」

「着替えなあかん?」

「うん。部屋を出る前に身支度を済ませて」

「はぁい」

 あくびまじりに答えた木綿が、ゆったりと階段を上がる。木綿が小振袖に着替え、顔を洗い、歯を磨き終えるころ、千歳は煎じた薬湯を飲み、仏壇への挨拶も済ませていた。

「おはよう、お木綿。お寝坊さん」

「千歳はん……仙之介はんに戻たはる……」

 木綿は手拭いを掴んだまま、物惜しげに見回す。うなじに一括りにされた赤毛は、昨日まで華やかな島田髷に結われていたとは思えない細い毛束だった。栗色の着物に黒柿色の袴を着けて、まさに若い学士の清貧さがあった。

「ほんに、可愛かいらしかったんになぁ」

「いいんだよ、僕は。こっちの方がよっぽど動きやすいし」

 笑いかければ、木綿も形ばかりはうなずいてみせた。

「ふふ、じゃあ襷掛けて。水汲みね。この瓶いっぱいに。僕、先生のお部屋、雨戸開けてくる」

 そのうちに髪結が来て、朝食が届けられて、出立の時間となる。先に歳三を送り出し、千歳は迎えに来た駕籠かきの声に玄関を出た。

「じゃあね、木綿。汁桶と器は洗って、ちゃんと乾かしたのを巌に返してね。掃除と洗濯もね。手習いと、玉留めの練習、百個。頑張ってね。行ってきます」

「気ぃ付けて」

「お留守番、よろしくね」

 小路を抜けて、駕籠に乗る。西洞院通を下る途中で歳三を追い抜き、六角通を西に入って、醒井通の角で駕籠を降りた。歳三を待ち、並んで本願寺門前の囲いへ入る。

「お木綿は掃除できているだろうか」

「大丈夫だと思いますよ。昨日、しっかり教えましたから」

「お前、ゆっくり教えてやるんだぞ」

「ええ──おはようございます」

 門番の原田班に礼をして、門をくぐった。執務室へ入る歳三と別れて、千歳は勘定部屋へ入った。尾形の斯波が向かい合って、すでに算盤を弾いていた。今日は十五日。月半ばであるのに、決算前のような気合いだ。

「おはようございます。二日間、お休みありがとうございました」

「おはよう、仙之介くん。ご覧のとおり、実は今、大変なんだよ」

 斯波は笑顔で千歳を迎えると、千歳の通り道を作るため、床に広がる領収書を引き寄せた。

「一昨日、急に会津さまからご命が下されてね、この正月からの詳細な隊費支出書を作成せよって」

「詳細な? 毎月提出しているものよりも、さらに、ということですか?」

「ああ。どうやら、御公儀からお尋ね・・・が入ったらしくてさ。うちがあまりに金食い虫じゃないかって」

「金食い虫は事実ですけど、今になってなぜでしょう?」

 新撰組の給与金は会津を通して幕府から下賜されているが、隊費に物言いが付いたことはない。尾形が書類の束を一枚ずつ確認しながら、長州征伐だと言い切った。

「毛利公に来坂ば願って、とうに一月の過ぎたが、ばってん、毛利公親子は病気、病気と一向にお出でなはらんけん。いよいよ軍ば差し向かわして、高杉ば首を取るこつになんど」

「つまり……御公議は軍資金確保のため、歳出の無駄を省きたい。そこで、新撰組が取り上げられた、と?」

「じゃ。こん秋は、隊も忙しくなるばい」

 千歳は席に着き、文箱を開く。向かい席に啓之助の出勤した様子はない。

「斯波先生、三浦くんは局長と一緒に──?」

「ああ、会津さまのところだ。征長となったら、会津さまと隊はどう動くか、話し合っているようだね」

「そうですか」

 千歳は水差しに水を汲みに立ち上がった。

 長州は二年前に関門海峡を封鎖して、米仏蘭船を砲撃し、去年にはその報復に、英国を加えた四国艦隊の襲来を受けている。負けはしたが、大砲を用いた防衛戦を経験しているのだ。また、藩士を密航させて武器を買い付けているだとか、農兵隊を大規模に組織して西洋練兵を行っているとか、征長軍を迎え撃つ用意を疑わせる報告がさまざま上がっている。

 水を汲み、席へ戻る。墨を摩りながら、目の前の仕事に集中しろと自身に言い聞かせ、賄い方帳簿の要項作成に取り掛かった。


 昼食後、伊東の講義では、西日本の地図が架けられていた。長州征伐となった場合、どこに兵力を集めるべきかが話し合いの課題だった。

 千歳は五郎、小林桂之助と年少者同士で班を組み、帳面へと長州周辺の略地図を書き込んだ。五郎が中国全域を囲うように指先で示して言う。

「まず難しいのは、長州は、領域全体が中国地方から見て半島であること、そして、その中央部がほとんど山地である、つまり、防衛に有利な地形ということだと思う」

 五郎の図示に千歳もうなずき、街道筋を書き加えていく。

「順当に考えれば、主戦場は山陽街道の岩国口。脇として、山陰街道を津和野から入る野坂口、海岸線沿いに萩に向かう仏坂口。陸路なら、この三つだろうね」

「お、酒井、海路でも考えている?」

 小林の質問に、千歳は関門海峡を指した。

「うん、下関口。砲台があるぶん、難所だろう。ただ、長州の手勢を岩国表から裂くためにも、ここを西の主戦場とした方がいいと思う。門司もじに九州中の四斤砲を掻き集めてでも。場合によっては、海軍の艦砲を援護に使ってでも」

「んだべなぁ。問題は、長州は四国艦隊に敗れたあと、砲台を補強しているだろうこと。海軍の軍艦や修練が、四国艦隊よりは確実に劣ること、かなぁ。あそこは潮の流れも速ぇから。中村は下関口、どう思う? 」

「攻めるなら、一撃必殺を前提とすべきだろうね。特に海軍を動員するなら、一番注目が集まるのは、この下関口になる。そこで、万が一にでも軍艦が長州方に鎮められたとか、鹵獲されたとなれば、全体の士気に関わる。だから、仙之介くんの大砲掻き集めてでもって見解と一致かな」

 布陣図を書き入れながら、兵の展開を考える。朝には戦禍を憂いていた千歳だが、戦略を考えていくことには楽しさを覚えてしまう。補給路の確保、各方面の連絡はどうとるか。矛盾を抱きながらも、三人ともに意気揚々と意見を交わした。

 他の班の発表を聞いても、おおむね三つの街道口と下関とが布陣地とされていた。案によっては、岩国口の南にある周防大島を落として、補給の拠点地としつつ、岩国を背後から攻めるものがあったり、海軍の艦隊をもって、萩や防府の町を直接、砲撃に出る奇策もあった。

「──さて、皆さん。それぞれ挙げてもらいましたが、幾人かの口から同じ言葉が出ていましたね。なんであったか、お気付きですか?」

 総括にかかる伊東に、加納が手を挙げて応える。

「ただちに、でしょうか」

「そう。ただちに攻め落とし。ただちに背後へ廻り。他には? ──はい、篠原くん」

「一撃で」

「そうですね。皆さん、いずれも短期決戦を前提に考えているのは、なぜでしょうか? 膠着することは、当然、想定されるべきです。膠着したときの損失、障りを恐れて、考えないようにしていませんか?」

 心当たりに五郎が小さな息を漏らす。表座敷は一同、思案に静まった。出兵を強いられる各藩の財政が厳しいものであるとは、周知のことだ。戦闘が長引いたとして、兵力や経費が追加で投入されることは見込めない。つまり、長引くほどに征長軍の士気は下がり、勝ち筋の遠のくことが見えているのだ。

「そう。兵力による征長は容易ではない、失着に繋がると僕たちはすでに理解しているわけです。武力の行使は、最終の一手。まずは、あらゆる手を用いて、毛利公に話し合いの席へとお座りいただくことを画策しなくてはいけないでしょう。では、何が出来ますか? それは、また次回、考えていきましょう。本日は、これまで」

 講義を締めくくった伊東は、講義生からの礼を受けてから、解散の前にと言って、手を挙げ、注目を集めた。

「一昨日の講義にいなかった人もいるでしょうから、もう一度、お報せしておきますね。今日の夜、この部屋にて歌会を開きます。詠題は恋。参加してくれる人は、夕食の前までに、内海くん──」

 座敷の後ろへ伊東が声を張ると、内海が小さく手を挙げて、一同に会釈した。

「彼に短冊を渡してください。ひとり三首までです。では、解散」

 表座敷は一気にざわめきに包まれ、稽古や巡察に急ぐ者、伊東へ質問に向かう者、銘々に動き出す。千歳は帳面の墨が乾いたか確かめながら、隣に残っている五郎へと尋ねる。

「君、出る? 歌会」

「僕は、ちょっと。詩歌は苦手だから」

「そう。お題も恋だしね。うーん、恋かぁ。なんて詠もうかなぁ」

「え、君は出る?」

「うん。賑やかしにしかならないけど、せっかくだから」

「……じゃあ、僕も出ようかな」

「おお、それは心強いね」

 千歳が帳面を閉じて懐へ仕舞い、立ち上がりかけたのを、引き留めるように五郎が手を掲げた。

「一緒に考えてくれたら、嬉しいんだけど……」

「あー、ごめん。ちょっと臨時で決算書を出さなきゃいけなくなっててさ。今日は三浦くんもいないし、勘定部屋に戻らないと。ごめんね」

「ううん、ありがとう。下手なりに頑張ってみるよ」

「大丈夫、ちゃんと自分の気持ちに向き合って、一番伝えたい思いを声に出してみるんだ」

「それが難しいんだよ……」

 五郎が額に拳を当てて、首を振ってみせた。千歳は笑って立ち上がり、その肩を叩く。

「君はいつも素直に話してくれるじゃないか。そのまま、三十一文字にまとめたまえ」

 何か五郎が小さく言い訳めいたことを言っていたが、千歳は取り合わない。襖を開けて、すぐ隣の勘定部屋へと戻った。


 歌会のために今夜は屯所に残ると伝えると、歳三の眉間には、湧き出る小言が収まりきらず、深く皺が入る。千歳は気付かぬふりを決め込んで、歳三に羽織を着させ、帰り支度を進める。

「突然で申し訳ありませんが、会があると知ったのは、お昼だったので」

「だけど、お前、薬があるだろう」

「薬は、巌に持ってきてもらうよう、頼んであります」

「夜に出歩くのは──」

「いえ、番外とはいえ講義の一環なので、表座敷です。終わったらこの部屋に戻りますから」

「あのなぁ……お木綿の手前、朝出るときに、今日は帰りませんと告げていないのなら、帰ってやってほしいところではある」

「それは……はい、すみません」

 千歳が深く頭を下げたので、歳三もため息ひとつを吐いたきり、今回だけだと言って、部屋を出た。千歳は大刀を手に取り、草履を履く歳三の背へと言う。

「お木綿の宿題なんですけど、教本の書写と玉留め百個、明日も同じだけやるように言っていただけますか。明日帰ったら、僕、見るので」

「お前、そういうことは、ちゃんと帰る人間が言うことだ。自分で監督しないのなら、宿題を言い付けるな」

「……すみません」

 歳三はかまちから腰を上げると、大刀を受け取り、手に提げる。夕影に溶けかけた千歳を見下ろして、優しい声で言い聞かせた。

「お前があの家で過ごしやすくあるように、俺は可能な限り計らう。だから、お前もあの家に暮らすことに対して、責任を持ちなさい」

 千歳は、いくつかの不満を飲み込んで、了解に頭を下げた。歳三も、いくつか小言を飲み込んだらしい躊躇ある足音で、裏玄関の戸を開け、帰って行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る