二、弁え

 千歳がぽつぽつと本当の生い立ちを語るなか、巌が賄いを届けに来た。千歳は立ち上がらない。歳三が土間に降りて、受け取った。

「ご苦労。今日から三人分で」

「へぇ、ご用意してます」

「うん。──お木綿ゆう、ちょっと顔を見せなさい」

「あ、ご別宅さん……」

 巌が慌てて雨に濡れた頬を拭い、膝を屈めて頭を下げた。木綿が玄関の間に座る。

「賄い方で料理を運んでくれる巌だ。一日三度、世話になるから」

「はい」

 予想よりも幼い声に、巌が顔を上げる。涙を拭ったばかりの赤い目をした娘姿の木綿に、疑念と興味の視線が注がれる。歳三は遮って、木綿に下がるよう手で示した。

「あの娘は、私のご別宅・・・ではない。それも含めて、あまりうちのことを局中で話さないように。頼んだよ」

「へ、へぇ」

 巌を返すと、千歳が土間に降りて配膳に取り掛かる。静かな夕食になるかと思ったが、膳を運ぶ木綿は明るい声を挙げた。

「良え匂いやわぁ。これが一日三度も。ほんまに幸せなことやなぁ」

 応じて千歳も笑う。この日の膳は白米に、蕪菜の吸い物、茄子とがんもどきの炊き物、川魚の焼き物、沢庵が添えられる。千歳には見慣れた常の食事だが、木綿は一々を取り上げてはおいしいと繰り返す。

「この茄子なすびの甘く炊いたんが、ほんにおいしい。ほんまに、今までで食べた中で、一等においしいお番菜や」

「それは良かった。六兵衛さんっていうんだ、賄い方のお頭さん。また伝えておくね」

「天下一やて、言うといてぇな」

「ふふふ、それは喜ばれるね」

 千歳が笑って、赤い前櫛が揺れた。この家で千歳が笑う姿を見れたのは、初めてのことだ。お木綿が話して、千歳が応える。好きな食べ物、おいしいお菓子の店。この家の庭には枇杷の木と柿の木があること。途切れず続くやりとりを歳三は静かに聞いていた。

 食事を終えて、千歳は土間に降りて茶の支度に取り掛かる。長い袖を膝上に掛けるようにして、七輪の前に座った。お木綿も指示されるまま、炭入れの籠から炭を出し、棚を開けて火打道具を取る。

「はい、じゃあ火を起こして。ついでに、部屋の灯りも点けていくよ」

「……うち、火起こししたことないねん」

「火起こし、を? したことがない……?」

 木綿は、初めて触ると言いながら火打石と打金を手に持つが、出掛けの切り火をするように、右手に石を、左手に打金を構えていた。

「あー、お木綿。火を起こすときは、石が左手。打金が右。で、石の端を狙って打つ」

 初めは勢いが足りず、火花が立たない。もっと強くと言われ、力を込めて振り下ろすと石に当てたはずの打金が右手から飛び出し、千歳の顔へ一直線に向かう。反射に構えた袖に当たり、土間に転がった。

「危な──! お木綿、ちゃんと握って!」

 声を張った拍子に、咳が込み上げ、袖で口許を押さえる。木綿がまごつきながらも、千歳の背を撫でて謝った。

「ごめんな、ごめんな。平気え?」

「うん……うん、大丈夫。──はい、もう一回。渾身の力を込めて」

 両の手に石と打金を固く握らせた。木綿は息を吸い、力のままに右手を振り下ろしたが、打金は石を握る左の親指に当たり、痛みに叫ぶ。

「ちょっと、お木綿! 大丈夫? 血は?」

「出てへん。痛っ、痛いわ! なんやの、うち、あほちゃう?」

「ちゃんと狙わないから。ほら、しっかり握って──」

 全ての工程がこの調子で、結局、お茶を淹れ終えたのは、四半刻はとうに過ぎたころだった。自室にて文を書いていた歳三を呼び、茶菓子と共に一服した。

「ほんまに、すんまへん。食後やぁいうのに、こない遅うなって」

「なに、次の食事までは皆、食後だ。しかし、火を起こすだけで一苦労だったな」

「すんまへん、おおきに。うち、ほんまなんも……」

「すぐ覚えるさ。よく教わりなさい」

「そうだよ、お木綿。慣れたら難しいことはない。まず朝は──」

 千歳が家の中の仕事を、朝から晩まで順に説明していく。その中では、歳三の好みが幾度も挙げられていた。床に物が置かれているのを嫌がるから、片付けは帰宅前に終わらせることだとか、風呂は熱い方が好きだとか。直接に指摘した覚えはない歳三のこだわりを、千歳は確かに把握していた。

「先生は、いつも細かなお仕事をされてる。隊の中には目を光らせて、外の人には気を遣って。お木綿は、この家を心地良く整えて、一日を労ってあげてほしい」

「へぇ、努めます。よく教えたってください、千歳はん。お頼み申します」

 

 木綿は歳三の布団を敷くと、自室として与えられた表二階に上がった。すぐに枕と掛け布団を抱えて奥座敷へと渡る。今日は遅くまで話すつもりらしい。中庭を隔て、奥座敷の障子戸には娘ふたりの影が談笑に揺れる。

 歳三は障子戸を閉めると、敷き布の四隅に残るしわを丹念に伸ばしながら、改めて木綿を迎えて良かったと思った。

 千歳の、歳三の仕事への思い、日々の支度への気遣い。よく働く子とは認めていたが、そこまで考えてくれているとは知らなかった。学問への思いも切実で、胸を打たれた。ふたりきりでは、直接聞くことは叶わなかっただろう。

 布団に横たわり、灯明の影が揺れる暗い天井を仰ぐ。知識を得て、世の中を知ると、分別を身に付けてしまうものだ。継ぐ家もない四男坊、武術家にはなれない。奉公に出て、暖簾分けか婿入りを期待してせっせと働くことが大人の道だ、夢など見るなと、二十五、六まで過ごしていた。

 対して、千歳は女で、病の身で、知識を役立てられないとわかっていてなお、諦めずにいられると言うのだ。どうせ無理だ、わかってなどもらえないとふさぐことなく、学んだり、人に語りかけたりできると。

 強さに感じ入ると同時に、千歳が歳三に向ける態度には、常に弁えがあることに気付かされる。今日、千歳は生い立ちを語るなかで何度、歳三は悪くないと庇っただろう。病を知ってからの千歳は、常に穏やかな調子で歳三の呼び掛けに応える。

 けれども、千歳の本性は、この夏に嫌というほど見せられたとおり、頑固で激情だ。今の落ち着きは成長ではない。理性に強いられた分別だ。きっと千歳は、心底では歳三を許していない。その怒りは、歳三に向けるべきではないと抑えられて、しかし、消えるはずもない。自分が悪いのだと矛先を自身に向けることで、表向きには消えたように見せかけている。

 寄り添ってくれない人に心の内を語るほど悲しいことはないと言った木綿の言葉は、正しいと認めざるをえない。自分に負い目があると、責め立てられている気がして、頑なになってしまうのだ。ここを治さなくては、千歳はこの先も歳三に分別を見せ続けるだろう。

 息を長く吐いて、掛け布団の下に入った。木綿の話し声と、千歳の笑い声が聞こえる。明朝、ふたりの娘と共に朝食を囲めると思うと、穏やかに眠れる気がした。


 翌日、歳三を送り出した千歳は、木綿に掃除を教えた。不慣れは覚悟していたが、まさか襷の掛け方から始めるとは思わなかった。はたき掛けはまだいいが、箒は畳の目に沿って掃くとか、部屋の角に埃を残さないよう直線的に掃き進めていくとか、掃除のいろはから仕込まなくてはいけない。

 啓之助にも初め、掃除を教え込んだが、彼はまだ器用だった。やる気の有無はともかくとして、やって見せれば要領をすぐに得た。しかし、木綿はやり方を見せても上手く倣えない。雑巾絞りでは、力の入れ方がわからないのか、できたと渡された雑巾を千歳が絞ると、いくらでも水が出てきた。すぐに差し戻す。

「ちゃんと力入れて」

「ぎゅってしてるえ」

「うーん、なんか違うんだよな、雑巾を握る方じゃなくて、絞る方に力を使わないと」

「ぎゅって絞ってるやん」

「それで左右に引っ張ってるんだよ、絞れてない」

 なんとか形ばかりは掃除を終えて、昼食の後は、房楊枝などの日用品を買いに出た。あわせて、針屋を訪ねて、木綿用の針と糸、糸切り鋏を買う。帰ってからは、夕暮れまでひたすら、針の稽古に勤しんだ。

「──そんで、旦那はん。見てください。初めてにしては、よう出来てんのとちゃいます?」

 羽織を脱ぐ歳三へと、木綿が待ちきれずに玉留めの並ぶ布切れを見せる。歳三は千歳に羽織を渡しながら、興味深く一々の結び目を眺めた。布地に留まりきらず、足の延びた不揃いな玉留めが、不思議とおかしく見えた。

「おお、よくやったじゃないか。上出来だ」

「ようやりましたわ。お針に糸通すんが、あない難しいとは知りまへんでしたわ。細かいことは、うち、ようやりまへん」

「頑張りなさい、きっとすぐに楽しくなる」

「はぁい」

 木綿の不満を匂わせた返事に、歳三が千歳を振り返った。

「ちゃんと優しく教えてやったか?」

「ええ、はい」

 千歳があっさりと答えるので、再び木綿を見れば、木綿は唇をすぼませて首を振り、不服を表していた。歳三は思わず笑う。

「まあ、ゆっくり覚えていけばいいさ」

「そうですね。お木綿、じゃあ、お風呂沸かすから、着替えてきて」

「え! この家、お風呂あるん? 良えなぁ!」

「あるよ。だけど、家事の中で一番の重労働だ」

 浴衣に着替え、襷掛けの復習を経て、水瓶から風呂釜に水を移す。瓶が空になれば井戸から汲み上げる。女物の着物では動きづらく、木綿はさらに力がないので、やっと風呂釜の半分ほどまで水が溜まるころには、腕が痺れたのか、桶を持ち上げられなくなっていた。

 代わりに木綿には火起こしを頼んだが、昨日のとおり、なかなか火が着かない。そのため、残りの水汲みも火の番も千歳の役となった。夕食が届いたので、配膳は木綿に任せて、千歳は薪を焚く。食事中もしばらく置きに立ち上がり、薪をくべては戻って箸を取った。

「先生が上られたら、お木綿、先に入って」

「うち最後でええよ。千歳はん、お先どうぞ」

「いや、髪解くから、後にする」

「ええ! 解くん⁉︎」

 木綿が驚いて湯豆腐を取り落とし、千歳はお櫃に掛かる手拭いを差し寄せた。すでに前櫛は外されている。

「僕、明日から仕事に戻る……」

「戻るん! なんでや、このまま娘の格好して養生するんとちゃいますのん、なぁ?」

 膳から身を乗り出すように、木綿が歳三へ迫った。歳三は静かに息を吐きながら、千歳へと顔を向ける。白地に麻の葉模様の浴衣を着た娘は、剣術の対戦相手に向き合うときの冷静さと鋭気を見せた目で見返していた。

 この一月半、極力運動を減らし、十分に栄養と休養を取るよう過ごさせてきた。南部医師の見立てでも、病状は進んでいないとのことだ。朝の起きがけ、晩の寝がけに咳を出すが、その他では突発的なものを除けば、落ち着いている。

 歳三としても、娘に戻す機会を逃すようで惜しくはある。しかし、病は気からというのなら、千歳を学問の場に置いてやることが一番だと、何度も自問自答してきたのだ。

「お木綿、心配をかけてすまない」

「心配とかやなくて。なんで……なんで、そないしてまで。嘘ですやん、騙してますやん。周りの人……局長はんまで……!」

 千歳が口を引き結び、膝先を睨み付ける。その頑なを見て、歳三も自身の頑なを自覚する。どんな理由や思いがあろうと、不誠実は確かだと認めなくてはいけない。箸を置いて、向かい合った。

「お木綿、すまない。私たちは、不誠実だ。お前にも、その片棒を担がせてしまう。許してほしい」

「……許すなん、うちが言えることちゃいますやないですか」

「ああ、そのとおりだ。……ただ、病気に関しては、病室に閉じ込めるよりは、ゆったりと外に出した方がいいだろうとお医者さまとも話している。だから、お前には家のことを頼みたい」

 不安の涙で揺れる木綿をまっすぐに見つめて願い、頭を下げた。木綿は狼狽えて、歳三よりさらに深く礼の姿勢に構えた。

「うち、うち……出過ぎたこと言うて、すんまへんでした。努めさせてもらいます、ありがとさんです」

「うん、頼むよ」

 歳三が箸を取ると、木綿もまた食べ始めた。結局、この家で歳三が何かを言ったならば、千歳も木綿も弁えた言動で応じるしかないのだと思い知る。二日目の夕食は、歓談のないままに終わった。

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