十、偽りのmademoiselle

一、落籍

 芸舞妓たちが稽古へと出払った嶋田屋にて、木綿ゆうの身支度が進められていた。薄藤色の二尺袖に、帯は白と若草の細縞。武家の娘らしく背筋を伸ばして、鏡台の前に座っていた。結い上げたばかりの髪は、いつもの丸い割れしのぶではなく、少し小さめに作った高島田だった。君鶴が啜り上げながら、翡翠の玉簪を挿す。

「君鶴や、何を泣くことがあんねん、こないめでたい日ぃに」

 土間に腰掛けた嶋田屋の女将が、振り返って声音で急かした。手には新たな門出に卸した漆塗りの下駄がある。まだ硬い鼻緒が肌を傷めないように、先程から丹念に揉んでいた。

「心配あらへん。君菊は根性あるさかい。へぇ、もう駕籠来はるぇ」

 君鶴が何度も頷いて目頭を拭い、木綿の両鬢へと銀の簪を挿した。十歳の頃から側に置いてきた妹分を案じる心が、ビラのもつれを整える手を止めさせない。女将は小さく息を吐くと、師匠然とした声で君菊と呼んだ。

「ええな? 辛抱が肝心や。何につけても辛抱。おしゃべりはあかん。家の外のことも聞いたらあかん。家の中のことだけ考えるんやで。あとは、お母ちゃん、いっつも言うてるな?」

「へぇ、一に挨拶。二にお礼。三に笑顔。きっと、よぅ努めます」

 君鶴の心配を他所に、木綿が笑みの口許で応じる。近頃、急に落ち着きと覚悟ある目を見せるようになった。芸事には向かなかった娘だが、愛嬌と素直さは女将も認めるところだった。女将はひとつ頷くと、土間に下駄を置いた。

 駕籠が来た。女将と主人への挨拶を終えた木綿が駕籠に入る直前、君鶴は最後だと言って木綿を抱き寄せた。そして、女将には聞こえないように、耳打ちする。

「嫌なことはきっぱり『嫌や』言うんやで? 辛抱なんか、いらん。いっぺんだって叩かれはったら、すぐ戻って来はり」

「おおきに、姉さん。ほんに、ありがとさんです」

 抱き締め返したものの、木綿は西洞院通を下る道中、自身の覚悟を新たにしていた。何があっても、北野に戻るつもりはなかった。

 木綿は、歳三が密かに仙之介との恋が成就するよう手引きしてくれたと期待していた。歳三が安全のためといって、身請け話が一切外に漏れないように気を配っていたこと。別宅を任せるには木綿はあまりに幼いこと。その別宅にも、相変わらず仙之介が一緒に暮らしていること。先日、固めの杯を交わす席に来たのが歳三だけであったとしても、希望は捨てられない。


 鐘が未の下刻を報せるころ。駕籠を降ろされた。出迎えは歳三ひとり。よく来てくれたと簡素な挨拶を述べて、表座敷に通された。

 床脇には、辛子色の振袖に島田髷を結った娘が座っていた。うつむきながら、気不味そうにまばたきをした娘の隣へと、歳三が並んで座る。

「──座りなさい」

 歳三が促すが、木綿は震えたまま立ちすくんでいた。落籍された先には、安物ではない呉服を着た娘がいた。それだけではなく、その赤毛の娘は、琥珀色の目を涙に揺らしながら、木綿を見つめているのだ。

「お木綿、来てくれてありがとう」

 耳に懐かしい、優しい少年の声が語りかけた。

「私は、千歳といいます。今まで男のふりをしていました。黙っていて、ごめんなさい」

 千歳が敷居を挟んだまま、両手を着き頭を下げた。木綿の呼吸は次第に速まり、ビラ簪の触れ合う音が響く。嫌や、嫌やと小さく繰り返したかと思うと、ゆらと歳三へと詰め寄った。

「旦那はん! こない、こないなこと! なぁ、おかしありまへんか──!」

「待って、副長のせいじゃない!」

 千歳は、今にも歳三の襟を掴む勢いの木綿の両肩を抑えて、歳三との間に割り込む。

「僕──じゃなくて、私……私が無理を言った。悪いのは私だ、全部。話していたろう、母さまは肺病で死んで、父さまはいないって。違うんだ、本当はこの人が父さまなんだ。だけど、最近まで確証がなくて。男の格好は、隊で暮らすためにしていた。だけど、この前、肺を病んでいることがわかって、療養しなくちゃいけなくて、どうしても、君に来てほしいって副長に頼んだから──」

「何言うてるか、わからへんわ!」

 千歳の手を跳ね除けて、木綿が立ち上がる。勢いのあまり、目が眩んで、窓の柱へと背が着いた。荒い息のまま、歳三を見遣る。幾分青ざめながらも冷静な、木綿の動揺など想定済みで、しかし取り合うつもりのない顔だ。子どものわがままを却下する大人の顔なのだ。

「旦那はん……」

「うん」

「なんで、うちを落籍かはったんです?」

「人手が必要だからだ。この子は、肺を病んだ。まだ元気に見えるが、肺病は急に悪くなる。看病と身辺の世話を担ってほしい。俺は帰りが遅くなるから」

「ふふ。親心、ですかぁ。ご立派や」

 混乱に浅くなる息が笑い声となる。恋した少年が実は女で、もうじきに死ぬかもしれなくて、贔屓にしてくれていた男が実はその父親で、木綿をこの家の者としてしまえば、有無を言わさず看護人の役を負わせようとして。

 いつだったか、木綿は幼くして亡くした父との思い出話を千歳に聞かせた。魚網を直す父の隣で、切れ端の縄をつなぎ合わせてあやとりをし、出鱈目に出来た形が何に見えるか、答え合っては笑ったこと。魚網の修理が終われば、父は大漁だと声を挙げながら、網の中に木綿たち兄妹を引き入れて、最後は皆で抱き付きあって、浜辺に倒れ込んだこと。

『君菊のお父さまはご立派だね。短い定命と引き換えに、この上なく豊かな愛情を持って生まれてきたんだ。それは、長命よりも幸せなことかもしれない』

 千歳が見せた寂しさを押し隠した微笑みを、木綿はよく覚えているのだ。千歳が毎度寂しさに包まれるので、次第に親の話は避けるようになった。その一端が、まさか歳三だとは思いもしなかった。

「旦那はん、今更、我が子が死にそうになったからて、親心が出てきましたのん? 確証ないからて父ちゃんとも呼ばさへんと、男の格好させて、寂しがらせて……ほんまに愛してはったら、こない扱い、できるわけないやないですか!」

「事情はまた改めて伝えるつもりだ」

 北野の座敷とはまるで別人な冷たい声に、木綿は力が入らず、へたり込んだ。

「……ほんま悲しいわ。寄り添うてくれへん人に心の内語るほど、悲しいことはないわ。ほんま泣けてくる」

 悲しみを慰めようと動きもしないこの男が、「君菊」にとって、もっとも優しい客だったとは信じられない。この男を相手に親子関係を求めてきた千歳の絶望は、思いやるだけでなお悲しい。

 しかし、憐れみに涙する一方で、俯いて啜り上げる千歳を見ると、怒りが湧き上がるのを抑えられない。悲劇の筋書きにも耐える健気な娘に見えて、これもまた勝手な人間なのだ。

「千歳はん、やった? 千歳はん、ねぇ」

 元結へと手を遣る。君鶴が挿してくれた翡翠の玉簪は、仙之介への恋心の証として着けて来たものだ。この一月の覚悟が、阿呆らしい。この一年の恋心は何であったというのだ。乱雑に銀の柄を引き抜いて、歳三の膝先へと投げた。無礼者と斬られても、それでいいと思えた。

「おうちとうさんな、こないなもん寄越さはりましてん。証立てですわ、君菊だけに、言うて」

「──お木綿、待って。ごめん」

「挙句、頬べたにちゅうまでしてきましてん。なぁ、忘れてへんよな? えらい勝手なとこばっか、父様から血脈ひいたんやね」

 千歳の動揺を鼻で笑い、木綿はさらに声を張って、仏頂面を崩さない歳三へと居ざり寄った。

「旦那はんも、ぎょうさん、お文運んでくれはって、ほんまありがとさんどした。何も知らんと本気になって阿保やな、わろてはりましたん? 金で買える娘を、我が子の慰みに与えはりましたん? たしかにうちは、身寄りもない舞妓ですわ。せやけど──!」

 投げられたまま転がる玉簪を握り込み、振りかぶる。千歳が制止の声を挙げるより速く、腕は振り下ろされ、簪の足は歳三の膝前に刺さり、曲がった。

「──うちにも、心ありますねんで?」

 木綿の渾身の脅しにも、歳三の目は揺らがない。驚きも同情もない顔で木綿を見下ろしたまま、一言だけ詫びた。

「すまないとは、思っている」

 木綿は短いため息を残して、顔を背けた。畳に突き立った簪を抜き、曲がってしまった足を撫でる。磨かない日はなかったこの簪を傷めてまで、怒りを表した甲斐はなかった。歳三の中で、木綿の処遇は千歳の看護人と決しているのだ。木綿とて、帰る場所はない。

 千歳へと顔を向ける。正座の膝は履き慣れた袴の幅に広がっているし、少ない赤毛を結い上げた髪は、島田髷の部分だけに真っ黒な髪文字かもじが足されて馴染んでいない。仙之介が無理して女装しているようにしか見えなかった。

「なぁ……知ってはるのは、誰や?」

「……女って知ってるのは、八木家のご主人と女将さん、壬生の光縁寺の和尚さん。あと、お医者の先生と、三浦くん。山南先生も知ってた」

「え、局長はんは?」

「ご存知ない。……親子ってことは、知ってると思う。伊東先生も」

「ほんま信じられへんな。五郎はんかて知らへんのやろ? あない友人やぁいうて」

 俯いていた千歳の顔が、さらに下を向く。涙が伝う頬は、春より確かに痩せていた。木綿は調子を緩めて、尋ね直した。責め立てる気は、もうないのだ。

「なんで男の格好してはったん?」

「……隊に、いたかったから」

「三浦はんとか、五郎はんがいはったから?」

「うん。……それに、斯波先生とか。女の格好では学問を得られない」

「学問の何が、そないしてまでええの?」

 千歳が啜り上げながら、袖で涙を拭った。何度か思案のまばたきがなされて、木綿へと仙之介の顔が向けられる。

「地震が起きることと、世が移り変わること。どちらも同じだと思っていた。抗えなくて、仕組みも経緯もわからないから。だけど、地震と世が移り変わることとは、つまり、地震と政治とは、全く違うって気付いたんだ。……因果って、わかる?」

「理由と、その……その後」

「うん、原因とその結果」

 出来事には因果があり、歴史書には世の出来事が因果によって記されている。意志を持った人間が世を動かしてきたと理解できるのに、なぜ、今の世となると、政治は天災のように理解できないものとなってしまうのか。それは、近代の政治課題が諸外国との付き合いに由来するために、因であると判じるに必要な知識、望ましい果に至るための方策が膨大になるから。あまりに大きすぎて、見えなくなってしまうのだ。

「──だからね、地震を怖がるように、外国やこの国の将来を怖がって、全国で争いが起きている。わからないって、怖いんだよ。混乱して、なんとか理由を見付けようとして、誰かのせいにして、それがまた争いを生むんだ」

 真っ直ぐ語りかける琥珀色の目も、易しい言葉で理解を測る話し方も、よく親しんだ仙之介のものだった。木綿もかつて北野の小道で聞いていたように、頷いて応える。わからないから怖い、混乱するから理由が欲しいとの説明は、今の木綿の心を明かしている心地がした。

「わからないから怖い、せやから知りたい、それはわかるわ。せやけど、わかったかてしょうもないやん。お座敷来はるよな偉いお人たちが、政治を動かせる。千歳はんは、動かせへん」

「うん、僕は知識を役立てられない。だけど、世の中には全て因果があること、様々な考え方を持つ人や集団、国があること、これらに心から納得できたことが、僕には救いだったんだ」

「なんで? 何が救いなん?」

「今、こうして君に語りかける勇気になる。僕がそう思った因果、理由を話せば、その道筋を理解してもらえると思うから。だけど、絶対にわかってもらえるとも思っていない。いろんな考えの人がいると知っているから。このふたつが両立しているから、諦めないでいられる。いろんなことを、諦めないでいられるんだ」

 これまで、手紙にも会ったときにも、新しく得た知識のこと、今考えていることが述べられていた。千歳の学問への思いは、木綿も既に知っている。

 歳三を見遣れば、先程の冷たい目線は溶けて、千歳の思いを受け取ろうとする柔らかさがあった。いくら娘が学問に向いているからと、男装までさせるだろうか。愛情なのか、ならば千歳が見せていた寂しさはなんだったのか。木綿はまたわからなくなり、心が落ち着かない。すがる思いで千歳へと尋ねる。

「なぁ、なんで、うちなん? いくらでも雇えるやん、お世話してくれそな人」

「お木綿の為人ひととなりが──素直で明るいところとか、はっきり物を言えるところとか、もちろん優しいところとか。この家に必要だと思ったから。お木綿に来てほしかった」

 遠くで雷鳴が響く。窓の風が濡れた土の匂いを運び入れる。膝に固く結ばれた千歳の拳へと、木綿は両手を重ねた。

「いっぺんやなくてええ、ちょっとずつでええし、聞かせてくれはる? 千歳はんのこと。病気のことも心配や」

「……うん、ありがとう」

 涙に揺れる琥珀色の目が、木綿に微笑みかける。この娘はもう木綿の恋人ではないが、それでも大切な人だと思えた。

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