十五、供養

 副長居室にて、斯波が病状を述べるにつれて、歳三の気配は次第に強張っていった。応じて極めて冷静に努めていたはずの斯波の声も、抑えきれない感情に震え始める。

「一時でも医術を学んだ者として、私は、彼の側近くにありながら病に気付けなかったことが大変……悔しく、申し訳なく存じます」

 斯波が深く頭を下げた。いつもなら、歳三はすぐに直るように告げて、斯波の責任ではないと許すだろうに、歳三の口は開かれない。千歳はその顔を見ることも恐ろしく、膝上に結ぶ拳ばかりを見続けていた。

「先程、彼の話を聞かせていただきました。少しでも、体調の許すかぎり、ここにいたいと。どうか、病室に閉ざすようなことはせず、無理なく長く、勤められるようお願い申し上げます。私も、南部先生の許へ伺い、肺病へのいろはを学び直してまいります。彼の助けとなるよう、責任を持って、尽力いたします」

 歳三の返答もないまま、静かに顔を上げた斯波は、指で目許を拭うと、もう一度、千歳の肩を抱き寄せた。

「おふたりでの話も、あるでしょうから……私はひとまず」

 一礼と共に退出を申し述べ、斯波は重たい手付きで障子戸を閉めた。

 この部屋は最近、ほとんど千歳の寝室となっていた。ふたり対面するのは、親子の血縁は間違いないと歳三が認めたあの夜以来。

 千歳は泣き疲れて重たい目で、歳三の顔を見た。青ざめて、しかし、眉尻の血管が浮き上がるほどに眉間に皺が寄せられ、唇も固く引き結ばれる。

 強い怒りと衝動に揺れる目と、目が合った。歳三の握り込まれた拳が、膝から引き寄せられる。ああ、隠していたために殴られると、千歳は歯を食いしばって衝撃に備えたが、歳三の両手は畳の上に置かれた。

「……すまない」

 上体が屈められ、豊かな黒髪を束ねた房が揺れる。千歳は、もうなぜ歳三が頭を下げているのか考えることも疲れて、霧のかかった耳に歳三の謝罪を聞いていた。

「すまない、すまなかった。……お前には、俺の身勝手のために、小さいころから辛い思いをさせて、いたのに……すまない、肺病の血筋ばかり、こんなものばかり、伝えてしまって」

 歳三は、生まれる前に父を亡くした。六つのころには母を、やがて姉を。いずれも肺病だったという。千歳には両親共に由来する肺病の血筋があるために、松本にもよくよく診るように願った。

「──それで、健康だと聞いて油断していた。……聞いてはいたんだ、肺病は急に来ると。養生、させていたつもりだったが……すまなかった」

 歳三の鼻筋に、涙が流れていた。千歳は見ていられず、迫り上がる狭い喉で息を吸い込みながら、目を逸らした。

 納戸との襖の前には、無造作に畳んだ蚊帳を被る千歳の布団がある。今朝、目が覚めたとき、こんな日になるとは思わなかった。死期を突き付けられ、父を泣かせ。あまりに現実味がないが、これだけはわかる。千歳は、あと何年かのうちに、歳三から愛すべき娘という存在を永遠に奪ってしまうのだ。

 千歳には、やるべきことが自ずからわかるような気がした。身代わりを残して逝かなければならない。歳三を愛する娘を。歳三をこの世にひとり残させないことが、千歳の最期の使命に思えた。

「先生」

 父さまと呼んでは、泣いてしまうと思った。枯れ気味ながら、存外に穏やかな声だった。顔を上げた歳三と目が合わないように、手を着いて頭を下げる。

「お願いがございます、君菊を身請けしてください。誰か側にいてほしいんです、あの家で」

 わかったとだけ、歳三が返した。

 夕方、別宅へと共に帰る道でも、夕食を食べる最中も、言葉が交わされることはない。就寝の挨拶と、翌朝の挨拶があっただけで、千歳は無言のまま、歳三の一歩後ろを追うように堀川筋を下った。不思議と気不味さや疎ましさはなかった。

 千歳の病状は、三長と斯波のみに告げて、その他の隊士には隠せるかぎりは告げないことにした。朝昼晩の三度、薬を煎じて飲み、牛酪作りでは竿状に整形する前に、塊りの一部を丸めて口に入れた。

 総司との稽古とお遣いに出されることがないだけの、変わらない日々が続く。斯波や伊東の講義に出たり、算盤を弾く傍ら啓之助と他愛もないことを話したり。

 五郎には、急に朝夕の食事を一緒にとれなくなった理由を、大人になったからとのみ、芝居がかって偉そうに告げた。五郎も少しの寂しさと呆れとを滲ませて苦笑いしながら、大人になったとは良いことだと労った。


 君菊を迎える支度も進む。部屋は表二階に用意されて、落籍は当月末と決まった。実の名は木綿ゆうというそうだ。歳三へと願い、自身のことは家に迎えてから自らの口で弁明させてもらうことになった。

 七夕は過ぎて、迎え盆の前日。午前中に休みを取った歳三は、柔らかな秋雨が降る中、千歳と共に光縁寺を訪れた。

 本堂に通され、和尚から紫の大袱紗に包まれた桐箱を受け取る。中には位牌がふたつ。千歳が浄土寺から持って来た白木の位牌は、木綿を迎える前に仏壇を一式揃えたいとの歳三の願いにより、黒漆に金縁の上等なものへと変わった。

 依頼に訪れたとき、千歳は一対の位牌が誰と何の関係に当たるか説明しないまま託した。しかし、歳三は居士と号された兵馬の位牌を指して、千歳の育ての親だと述べた。

「北辰一刀流道場の師範でした。それから、こちらは、この子の母親で、私の──正式には迎えられませんでしたが、私の妻です」

 千歳は、いささかの驚きを持って歳三を見遣った。仏前の灯明を受けて赤らむ顔は、いつもどおり無愛想にも見える落ち着きぶりで、千歳とは似ても似つかない。

「本日はご法要、よろしくお願い申し上げます」

 歳三の深い礼を受けて、和尚が憮然と丸くした目で、千歳と歳三を交互に見る。千歳も弁明を逃れて、頭を下げた。和尚は自身を落ち着かせるように息を吐きつつ法衣の広い袖を整え直すと、数珠を二輪に掛けた両手を合わせて、よく勤めることを述べた。

 読経が始まる。阿弥陀経は、浄土がいかなる地であるかを説きながら進んだ。七宝の池は功徳の水が満ち、天楽が奏され、黄金の大地には──昼夜の六時に、花の雨が降る。


 ある晴れ雨の降った晩春の朝。千歳は浄土寺の境内にある藤棚の下にしゃがみ、垂れ下がる薄紅の藤を見上げていた。側にある池が絶え間ない雨音を反響させる中、重なり茂る藤の葉の隙間からは、風が吹くたびに冷たい水滴が落ちて、顔へとかかった。

 花房の間には熊蜂が雨宿りをしていた。黒々と翅脈の浮かぶ羽、密集した黒い毛の腹は細かく動き続け、落ち来る雨を粒に丸めて抱いては、こぼす。羽音を響かせる。その生命の息吹を抱いて、血色の良い頬のような透き通る藤の花は揺れる。

 千歳はそこに浄土の光景を見て、志都と兵馬を亡くした寂しさの中でも、まだ生きていられると思った。けれども、美しい世界は常に目の前にあって心を静めてくれるものではないので、歳三に会いにいくことを決めたのだ。寂しくて不安で、ひとりでは生きていけないから。

 この二年を経て、千歳は少しは大人になったし、ものをよく考えるようになった。しかし、根本は何も変わらない。寂しく不安なまま、歳三を本当に愛することもできないまま、死ぬことを恐れて死んでいくのだろう。


 袱紗包みを片手に抱えて、雨の綾小路通を戻る。これで良かったのだろうかと自問するうちに別宅に至り、表座敷へと上がった。

 床の間には阿弥陀如来の姿絵が描かれた掛け軸が下げられ、床板に据えられた棚には、新しい仏具と盆供養の品々。その奥の経机には、先日洗われてきれいになった位牌入れの厨子があった。数日間、空だった逗子へと新たな位牌を置く。千歳もいずれここに並ぶのだ。

 歳三が線香を上げ、金の小鏧しょうきんを鳴らす。

「遅くなったが、手を合わせられて良かった」

「……はい」

「これから──」

 歳三は隣り合って座る千歳を振り向いた。諦めと疲労を帯びた目が、歳三の膝下に落ちる。言葉を続けられず、かといって抱き締めることもできない。ちょうど、昼の鐘が鳴った。

「……行くか?」

「はい」

 歳三は太刀を手に取り、通り庭に降りた。千歳が框に腰掛け、草履を履こうと屈むと、赤毛は肩を越えて垂れる。頬は微熱に赤い。目を遣るほどに、別れまでの日数を考えてしまう。

 背を向けて、格子戸をくぐった。雨はまだ止まない。傘を開いて、踏み出す。後ろから付き従う千歳の足音が聞こえてくる。

 千歳が京都に来た翌日、四条大橋まで迎えに行って、夕暮れの中を共に歩いたときも、背中に足音を聞いていた。兵馬の一周忌の日、知恩院へと詣でる千歳を門前まで送ったときも。話をしようと北野に連れ出したときも。この家を持ってからは、朝夕の通勤の路でも。千歳の足音は歳三の背後を追い来たが、しかし、それは歳三を愛し、慕ってのことではない。

 二ヶ月にも渡る反抗の矛を収めた千歳は、形ばかりは親子らしく歳三と同じ家に寝食してはいるが、それは義務と責任に基づく行いに過ぎないのだ。歳三を愛するゆえに側にいたいなどとは、思っていない。

 歳三は、千歳が愛したいと思える人間にはなってやれない。けれども、千歳が望む余生──隊にて友人や師匠と交わって過ごす日々を与えてやることはできる。兵馬や、他の人間には果たせない役目だ。この世で、歳三のみが与えてやれる幸せだ。

 振り返れば、千歳の琥珀の目が戸惑いに歳三を見上げる。紅の蛇の目傘に照り返されてか、頬は赤く、呼吸のたびに肩は上下していた。

「速いか?」

「……いえ」

「そうか」

 少しだけ速度を緩めて、歩き出した。

「千歳……」

 呟きは、傘を弾く雨音に消える。あまりに自分らしくない弱い声を諫めるように、歳三は刀に添えた左手に力を込め直した。午後からは、新撰組副長たる土方歳三でなければならない。

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おもかげのCharme 小鹿 @kojika_charme

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