十四、肺病
「やっぱり君、顔赤くない?」
七月給与日を前にして算盤を弾く最中、啓之助が不意に机の向かいから尋ねた。千歳は素知らぬ顔で返す。
「だって、まだ暑いもん」
「そりゃ暑いけど。え、ねぇ、ずっと咳してるしさ、南部先生のとこ、行った方が良いんじゃない?」
机を越えて、額へと伸び来る啓之助の手を、千歳は右手にて打ち迎えて熱を測らせない。しかし、その掴まれた右手をもって、やはり熱があると知られる。
「馬鹿じゃないだろ? 風邪に気付いたんだから休めって!」
「大丈夫! いいから離せ!」
お互いに膝立ちになって手を引き合うその隙に、隣に座る斯波の手が千歳の額へと当てられた。驚きに固まる千歳を他所に、斯波は喉を見せろと続け、千歳の両肩を押さえ付けるように座らせた。
「はい、口開けて。──こら、嫌だじゃない、開けなさい。もっと」
両頬を掴まれた千歳は、なお体温が上がる心地がした。堅く目を瞑り、口を開けると、吸気の風が喉に当たり、慌てて袖口で咳を受け止めた。実に静かな咳込みに、斯波が呆れた声を出す。
「随分と咳を殺すのが上手なことだ。相当、隠してたんだな、これは」
耳の下を触られ、右の首筋にある腫れに斯波の手が止まる。押されると圧迫感のある痛みが喉の奥にまで響いた。斯波はため息と共に、脈を採りにかかる。
「全く、君は……脈も速い。南部先生のところまで行って薬もらってきなさい」
給料日前で忙しいから後日と述べたが、千歳の算盤は早くも尾形によって取り上げられていた。ついでに胃薬の在庫を買ってくるように申し付けられて、千歳は仕方なく勘定部屋を出た。
歳三へは、ただ薬を買いに行くとのみ伝えて、木屋町まで約一里の道を歩く。途中、二度ほど道中の神社で水を飲み、咳に乾く喉を癒すと、首周りを濡らして涼をとった。たしかに、身体の不調は認めざるをえないが、このように歩けているのだから、皆が心配するほどに病状は重くないはずなのだ。これでまた、歳三の心配症が発動して、管大臣の別宅に閉じ込められては適わない。
一刻半をかけて、ようやく診療所に辿り着いたが、しかし、南部は留守だった。千歳は、見習いという少年に頼んで胃薬と咳薬を求めると、自身の症状は明かさないまま、来た道を戻った。
咳薬には、
屯所に戻ってからは、頬の赤みが引くまで井戸端に座り込み、手足と首を冷やした。予想どおり、執務室へ帰営の挨拶をすれば、すでに千歳の体調不良を告げられていた歳三から、診察の見解や症状がいつから出ているのか、もらった薬の量まで重ねて尋ねられる。千歳はいつも以上に明るく高めの声を作って、軽い風邪だと愛想良く答えると、報告を切り上げて退出した。
微熱に身体が重たい日々が続き、咳も治らない。それでも、五日の給与日までは耐えていた。
その午後、総司との形稽古途中。打ち込みに踏み込むと同時に、胸が揺すられるような衝撃が肺の底から迫り上がり、咳の発作が起きた。激しい咳き込みに立っていられず、木刀を抱え込むようにうずくまる。
普段なら、稽古中に膝を着ければすぐさま立てと怒鳴る総司が、この時ばかりは千歳の背を打つように撫でた。
「大丈夫だ。息止めて、ゆっくり吐く。ここら辺、痛くない?」
総司の指先が左右の肩甲骨の上辺を叩く。千歳は息ができない苦しさに涙が出る中、右の肩を押さえて示した。総司が肩周りを優しく押し撫でる。
「やっぱり、
総司に負ぶわれて、書院棟へと戻るあいだ、千歳は口に押し当てた手拭いに、血混じりの痰を見た。
『先生、お小遣いください』
八歳の秋、千歳は兵馬を見上げて願った。兵馬は膝に手を着き、目線を合わせて尋ねた。
『飴でも買うつもりかい?』
うなずいた千歳に、兵馬は重ねて尋ねた。
『母さまにお許しもらった?』
千歳は首を振りながら兵馬の腕へと腕を絡め、肩に寄りかかった。そうしてよく甘えていた。
『あのね、先生。お母さま、お咳ずっとしてるんです。だから、痰切り飴、舐めたら良くなるかと思って』
やがて、志都は鮮血の混じった痰を吐くようになり、冬には、血ばかりを吐くことも多くなった。
千歳の咳は、気胸などではないだろう。この空咳の音は、よく知っている。
(……ああ、遅いですよ。母さま、兵馬先生。あと一年半早ければ、喜んでお迎えに従えたのに)
蔵脇の井戸に下ろされ、総司が鶴瓶に水を汲み上げる。千歳は溢れ来る涙を堪えて、笑顔に返した。
「すみません、初めてですから、驚いちゃって」
「大丈夫、大丈夫。だけど、お薬はないから、とにかくお大事にね」
「はい。あと、総司さん……あの、これは副長には……」
「はいはい、内緒ないしょ。心配さんだからね、アレやコレや口うるさいでしょ? 大人しくしている分には、日常、問題ないから、黙っておきますよ」
木刀を片付けてくると言い残した総司を、手を振って見送り、千歳は井戸の石積みに身を持たせかけてしゃがみ込んだ。
唐突に突き付けられた余命。早ければ、あと一年なのだ。手足は震え、身体が浮くような、地に足の着かない感覚がする。
掌を見る。少し乾燥してはいるが、薄桃色の血の通った若々しい手だというのに。じきに死ぬのだ。なんの役にも立たずに、二十歳に満たず死んでいくのだ。望まれないままに生まれて、何を成すわけでもなく。
自身に足りなかったものは一体何であったのか。それさえ足りていれば、この先も生きていくことを許されていたのだろうか。
力を振り絞って立ち上がる。裏玄関から上がり、着替えもしないままに、書庫へと向かった。平田篤胤の書、『霊の真柱』を引き出して開いた。
(死を恐れてはいけない。お前は魂の行き先を知っている。母さまも兵馬先生も、山南先生もそこにいてくれる。だから、何も恐ろしくはない。恐ろしくは──)
自身に言い聞かせようとも、目は文字を捉えられず、手は震えて本を取り落とす。拾おうと屈めば、咳が込み上げて、膝から崩れ落ちた。手拭いに吐き出した痰には、濃紺に沈まず鮮やかに赤い血が、小さく混じっていた。
死んでしまうのだ。そうして、千歳のために誰かを泣かせるのだ。五郎も啓之助も、斯波も。歳三も。
父を父と呼ばず、その意に沿わず、愛そうともしない。それだけで、許されない者だというのに。親より先に死ぬ不孝者──
嗚咽と涙が止まらなかった。あまりに唐突ではないか。死ぬのは怖い。何もかも手放して、死ななくてはいけない。生まれてきた意味、人生の意味、そんなことを知ることもできないまま、痛みと苦しみの末に、死んでいく。
志都も兵馬も、この恐怖の中で死んでいったのか。死ぬときに何を考えていた。敬助は、一体何を考えて死んでいった。
「先生、先生──!」
抱き締めて、慰めて、側にいると言い聞かせてくれたであろう敬助は、なぜ、死んでしまったのだろう。自ら死すことに、何の救いを見出したというのだ。千歳は、こんなにも生きていたいというのに──!
「──仙之介くん!」
文学師範部屋の襖が開け放たれ、本棚の間を斯波が駆け寄った。
「先生! 先生、先生──!」
千歳は斯波の肩に顔を埋めて泣きじゃくるばかりで、どうしたかと尋ねても、答えは得られない。斯波は片手に千歳の肩を抱いたまま、側に落ちる露草色の本の題字を見て、静かに千歳を抱き締めた。
どれほど過ぎたか、泣き声が落ち着き出した千歳の両肩に手を置いた斯波は、優しく引き離すと、懐紙で千歳の頬を拭った。
斯波の理知に富む眉根に浮かぶ厳しさは、千歳の悲しみへの共感があり、微笑まれた目には慈しみが満ちる。決して口を開かないが、千歳を案じ、寄り添おうとしてくれていた。
今ならまだ、亡くした師匠を憶って泣いてしまったのだと言い訳できる。十五にもなる少年が恥ずかしいことだが、しかし、病を明かさずにいれば、千歳は何事もない顔をして、隊にい続けることができるのだ。
千歳は懐紙を握る斯波の手に、手を重ねた。温もりを感じては、決意も虚しく、明かさずにはいられない。死の恐怖は、ひとりでは抱えきれない。
「……私、死んでしまうんです。もうすぐ」
「……どうして?」
「肺を病んで母は死にました。同じ咳が出て、胸が痛いんです。あと、きっと二年くらいで──」
言い終わらないうちに、苦しいほどに抱き締められた。頬に当たる斯波の首筋が震え出し、涙が固い音を立てて畳に落ちた。
「……すまない、なんの気休めも……言ってあげられない……!」
まだ暑さが残る日で、抱き合う肌には薄く汗が帯び始める。それでも緩まない斯波の両腕は、妙な冷静さと安心を千歳に与えていた。少なくとも、斯波は千歳を愛し、惜しんで泣いてくれる。
「先生、ごめんなさい……」
か弱い声に謝れば、斯波は黙ったまま首を振り、なお一層、抱き締める力を込めて愛惜を示した。
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