十三、道理
けれども、状況を鑑みれば仕方のないことだと受け入れてしまう自分自身に、何か納得がいかない。昼食の箸は進まないまま、千歳は五郎にまとまらない考えを述べていた。
「高杉たちは覚悟決めてるさ、迎え撃つ覚悟。だからこそ、潰さなくちゃいけない。うん、これは正しいよ。だけど、どれだけ正しい行いにも、望ましくない障りは伴う。それを、大事のために小事は構わず、と無視していいのかなって思う」
「君の考える、征討の望ましくない、しかし小事な障りとは何?」
五郎が豆腐の吸い物の椀を取り、千歳も進まないながらも一口、麦飯を食べる。
「例えば……岩国の農民。今から稲刈りとか、麦播きとか控えているのに、戦になれば来年の生活に困ると思う」
「しかし、岩国の収穫は巡って長州の兵を養うのだから、それは阻止すべきだとも言えないか?」
「それは……大局から見たらね。でも、大局なんて、岩国の貧農の家の赤ん坊には関係ないでしょ。なのに、戦争になれば収穫は減る、年貢も物価も上がる、母さまの食べ物が減れば、お乳も減って。お腹が空いて、病気になるかもしれない」
「たしかに、そうだけど……」
「わかる、わかるよ。こういうのは情で、政治においては、ある程度、無視しなくちゃいけない損失だって。でも、なんか……そういう理屈の正しさって、なんか怖いと思う」
千歳はすでに箸を置いており、所在ない両手を膝上で組み替えながら続けた。
「極論だけど、お前が死ぬことが我らの正義を成し遂げるために必要だって言われたら、僕、たぶん納得して、死を受け入れてしまうと思う」
「それ、怖い? 滅私奉公、主君への忠誠って、言わばそういうことだ。むしろ望ましい心持ちではないの?」
純粋な疑問の目が向けられていた。千歳は、望ましいとは思うと返しつつも、それ以上は答えられない。
武家教育を叩き込まれてきた五郎と違い、千歳には、主人はいても主君はいなかった。だから、怖いのだろうか。
否、これもまた、千歳がずっと抱いている不安に基づくように思う。誰かに許されなくては、この場にいられない。千歳の意志も願いも関係なく、千歳の人生は決められていく。自分の去就を、自分で決められない。
今は歳三に抗っているが、それもどうせ、歳三が本気で千歳を娘として生きさせようとしたのなら、千歳は従ってしまうと思う。道理を知る心は、日常を手放させる。こんなにも充実して、自分らしくあれる日々を。
「君は……道理を越える覚悟はある?」
「道理を越える?」
「……自身の思想と、心中できる?」
膳に手を掛けて、身を乗り出すように尋ねれば、五郎もわずかな怯えを見せて、箸を持つ手を膝上に置いた。
集会堂の庇では、隊士が銘々に食事をとったり、食べ終われば午後の巡察に急いだりと騒がしい。千歳の声はその誰よりも小さいが、琥珀の目の鋭さと共に、五郎へと届いていた。
「高杉だって、世の正しさを知っている。だけど、それでも、自身の思想を選んだ。たとえ、その先に死が待つとわかっていても、自身の思想と心中するつもりだ。よほどの狂気がなくちゃ、できることじゃない」
千歳は畳み掛けるように続ける。
自分たちは道理を知る、正しい側の人間であり、高杉たちは、道理を知りながらも抵抗を図る狂気の者だと構造を定めて、彼らを断罪することは簡単だ。しかし、もし自分が高杉の立場だったら? 道理に反してまで、意志を貫けるだろうか。
「──君は、正しくない側に立って戦えるか? 自らの信念のために。僕はたぶん、できない」
「だけど、その不安がなぜ、自分は戦えないかもしれない、との恐れにつながる? 君は
「何を道理となすか、その基準は時に容易にひっくり返る。長州の方針は、高杉によって抗戦と定められた。恭順派は高杉と戦うか、心を殺して高杉に従うかしかない。だけど、僕は戦えないだろうし、かといって、高杉に従うこともきっとできない。滅私できなければ……死ぬしかないように思う」
それは自害ではない。自ら生を断つ覚悟など持てる気もしない。となれば、心ばかりが死んでいくのだ。自分を支えてくれる強い自分を持てないばかりに。
口ばかり自由を論じながら、その実、自由に伴う責任を恐れて動けない。
「……僕の思想は、世が正しいと見做す道理を受け入れることで培われた、言わば教育の賜物だ。それは、なんだか……偽物に思う。僕自身から湧き出でた、真心、ではない。だから、道理も思想も裏切りそうなんだ」
五郎には、千歳がなぜ混乱したような目をもって道理を語るのか、まだわからない。膳に箸を置き、不安に圧される心の底を尋ねるように見つめ返した。
「仙之介くんは……そうだな、『
口耳四寸の学とは、人から聞いたことを理解したり、自分自身のものとすることなく、口先
千歳が苦悩を眉根に表しながらうなずけば、五郎は何か物狂おしいほどに、千歳を真っ向から批判してやりたくもなるし、同時に、何もかも肯定してやりたくもなる。
なんとも不純な心で議論に臨む自分自身が情けない。つい先日、誰よりも千歳の友に相応しい者であろうと誓ったばかりなのに。
冷静に、中立に。なるべく千歳の顔を見ないように。襟の合わせを直しながら、講義を受けるときのように姿勢を正した。
「思想を身に付けるとは、時間を要することだ。孔子も、心の欲するところに従っても道理を越すことがないと自覚したのは、七十を過ぎてからなんだから。まだ志学の歳でしかない君が、心の奥底から道理に倣えないとしても、それは君の悪徳のなすところではない」
しかし、自身の学は口耳に過ぎぬと批判する心は、五郎にもあるのだ。
先日は、千歳にお前は実に
千歳は五郎と違って、口耳の学から抜け出そうとしているために苦しんでいるのだ。その苦しみと不正解とを恐れる五郎は、結局、正しさの踏襲に終始してしまう。凡庸な奴は、何事かを達成できないから凡庸なのではない。何事かを達成しようと動きすらしないから、いつまでも凡庸なままなのだ。
「君はもうすでに、何か……道理には適わぬ、それでも、君にとって大切なものに、気付いているんじゃないのか? だから、その不一致に、恐れを抱く」
千歳が息を吐き、膝を崩す音に、五郎は顔を挙げる。背けられた横顔には、葛藤が浮かんでいた。自己の内部に抱く矛盾に、どう折り合いを付けるべきかと悩んでいる。
「それは、何……?」
「まだ、自分でもわからない」
そこで会話は途切れた。千歳が箸を取り、五郎も続く。ほとんど冷め切った吸い物を飲み切って、椀を置いた。小鉢に手を伸ばした千歳と目が合う。千歳が、まだ言い表せない千歳の信念と心中するというのなら、例え通理に適わずとも、五郎も共にありたいと願ってしまうだろう。
「……なあに?」
戸惑いに尋ねられ、五郎は小さく首を振りながら微笑んだ。
「いつか聞かせてほしいと思って」
「うん……いつかね」
照れたようなぎこちなさで、千歳は小鉢を手に取った。
大局を前に、小事と切り捨てられる者たちに、何か救済はないものか。できれば、神仏に頼らずとも叶うような。
書庫を訪ねれば、斯波がいた。出窓の枠に腰を掛けて語られるのは、
「札入れは、
「はい、もしくは、公挙の札入れに参加すらできない人たちとか」
「ああ、だから、まず守られなくてはいけない前提として、公挙にて決した採択が、誰の Liberty rights をも侵害するものであってはいけないということだ。そして、
「それは、不思議ですね。政策の採択に、公挙と直訴が両立しているわけですから」
「うん。しかし、そうでなくては、少数派の意見は永久に採択されないからな」
「ですけど、
「うーん、まぁ制度としての望ましい形と実際は異なる、というところだな」
理想と現実は異なるのだ。斯波の講義では、世界各国の政治制度も扱われている。君主制や議会制もあるが、主には旧主の出身国である米国の大統領制が論じられていた。しかし──
「democracy って考えれば考えるほど、なんていうか……こんな制度、よく導入しようと思ったなと。全ての
「ははは、お国柄だな。
「その場が、
米国にはすでに官費にて運営される初等教育学校が広く存在しており、白人の男女だけではなく、一部ではあるが黒人の子弟にも公教育が施されているとは、先日の講義にて習ったことだった。
「子どもたちの学びを口耳の学に留めないためには、やはり、幼いころから繰り返しの調練が必要なんでしょうかね」
「そうだな、耶蘇教はとくに日々の生活を慎ましく、規則正しく送ることを重視するから」
「それは、国による、思想や宗教の……うーん、植え付け? にならないんでしょうか。学校を通しての、植え付け」
「難しい問題だな。道徳を備えた人間を教育することは、国だけでなく、その者自身にとっての幸福でもあるわけだ。しかし、その道徳が押し付けではないか、自由の侵害ではないかと君は言いたい、そうだね? ──だが、こうも考えられる。学校は、信教も思想も自由に選択できるような、判別を備えた大人に教育している、と。修業後の彼らの選択を、他人や国は侵害しない」
「選択が……できるかどうかも、うーん」
人間の思考が知識と経験に基づくのなら、狭い世界と限定された知見の中で育てられた子どもは、選択できるということすら知らずに、または、何を選ぶかの判断に足るほどの知見を得られずに、大人になり死んでいくような気がする。
千歳も、兵馬の薬代のために身売りされていたなら、それ以外の人生を思い描くことさえできず、自由を知らないままに廓に死んでいたかもしれないのだ。
「どっちが幸せだと思います? 不自由を自覚できずに、苦悩なく死んでいくことと、不自由を自覚しながらも逃れられず、自由を求めて死んでいくことと」
「ははははは、これまた厳しい質問をするなぁ、君は。実に
斯波が千歳の肩へと手を回し、緊張を緩ませるように揺すった。千歳の身体は余計に強張り、耳も熱くなる。
「だって、考えちゃうん、ですもん……!」
「良い、いい。ははは。一応、俺としては、自由を求めて死ねる人間でありたいと思うよ。心はいつ何時も、自由でありたい」
遠くで雷鳴が響いた。夕立が来ると、立ち上がったふたりは、書院棟の長い廊下の雨戸を閉めにかかる。千歳が戸板を敷居に沿って押しやれば、向こう端に立つ高い背丈は一枚分ずつ、次第に近付く。
千歳は、自身を形作る記憶と経験とは、この男がいなければ完成しなかったように思えてならない。斯波がいなければ、自分の考え方はもっと一元的で、多角的な物の見方を習得しようと思えたかも怪しい。
「僕も──」
最後の一枚を戸袋から出し、つっかえ棒を掛ける。薄暗い中、斯波の大きな目を見上げた。
「僕も、心はいつ何時も、自由でありたいと思います」
そうあれるために、千歳はもっと学びたい。自分の考えをしっかりと持てるようになりたい。盲信でも口耳の学でもない、我が身に染み付いた信条を得られるように。
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