六、家事

 まだ薄暗いうちに、千歳は咳で目覚めてしまった。八月も下旬になり、朝夕の冷え込みは喉に険しい。布団の中でうつ伏せになり、鎖骨の下にある咳止めのツボを押さえる。息を止めて、鎮まるまで堪えた。

 毎日の薬湯に加えて、三日に一度、灸を受け、半月に一度は、南部に往診してもらっている。そのためか、血痰を吐くことは少ない。熱も上がらずに済んでいる。肺病は急に悪くなるので油断はできないが、病状を上手く抑えられている方だと思う。

 起き上がり、着替える。土間に七輪を焚き、薬湯を煎じた。最近は薬瓶の中に玉子をふたつ入れ、一緒に茹でて、玉子を食べながら火の番をするようにしていた。灸師いわく、薬湯を煎じること自体が身体に良いそうだ。火が身体を温めて、蒸気が喉を潤すという。四半刻を過ごし、薬土瓶を火から下ろした。

 自分は恵まれている。千歳は表座敷の仏壇へと向かい、鉦を鳴らした。痩せ細り、青白い頬で笑いかけた志都の顔が浮かぶ。今日も一日、無事に過ごせるように、手を合わせて深く念じた。


 台所の間へと戻り、箱膳を支度する。まだ木綿は起きてこない。芸舞妓は夜半までお座敷があるので、その分、遅起きだという。

「お木綿、起きてー」

 上へと呼びかけたが、物音はしない。この家に来て十日、そろそろ早起きを身に付けてほしいものだ。ふと部屋の隅に目が留まる。柱と敷居の角に、埃玉ができていた。もしやと鴨居へ手を伸ばし、長押の上に指を沿わせる。見れば、指先には埃の塊が着いていた。

 掃除は午前中にしているはずだが、やり方を確認しながら一緒に掃除したのは始めの一回だけ。この十日間、気付かなかったが、掃除の目的は達成されていなかったようだ。階段を昇り、襖を開ける。

「お木綿、起きて。ちょっと朝食前に掃除、一緒にしよう」

 そこから、寝起きの悪い木綿を表座敷に立たせてハタキを持たせるまで、四半刻近くかかった。

 掃除は上から順に。箒は畳の目に沿って。埃は角に溜まりやすいから、特に気を付けて。再確認しながら教えていく。木綿が眠い目をこすりながら、のろのろと動くので、雑巾掛けの段になると、千歳の口調は強まっていた。

「お木綿。ちゃんと力入れて」

「せやけど……」

「貸して。──ほら、まだこんなに水残ってる」

「朝からそない力入らへんやんって」

「それでも。濡れたままじゃ、畳が傷むんだから。ほら」

 歳三が起き出す。朝食が来て、汁物を鍋で温め直す。千歳は朝食の支度を細切れに離れては、木綿の掃除を監督した。

「雑巾、ちゃんと洗う。濡らすんじゃなくて、汚れを落とすの」

「洗てるやん……」

「力を入れて」

「入れてるやん!」

 木綿が我慢ならず雑巾をたらいに投げ付けたところで、険悪な様子を見かねた歳三がふたりのあいだに入った。

「お木綿、雑巾を洗うときはな──」

 歳三が雑巾を手にして、千歳は驚いて止める。

「先生、やめてください。そんな」

「いいから。──お木綿、まず雑巾をしっかり握りなさい。それから、汚れているところ同士を擦り合わせる。すると、汚れが浮いてくるから、それを、盤の水で濯ぐ。これを繰り返すんだ。はい」

 雑巾を渡された木綿の手付きは、先程まで漫然と雑巾を水に浸すだけだったものが、急に目的を持った動きへと変わった。

「それで、絞るときだ。手は上下に構える。手の中で雑巾が動かないように強く握って、手首を内側に寄せる。これで、よく水が切れる。やってみなさい」

 家を出て、屯所へと共に向かう短い道中で、歳三は千歳へと言い聞かせた。

「お木綿は本当に家事をやってこなかったんだ。どうしたら上手くいくか、実際の方法を言葉で教えてあげなさい」

「……はい」

「それから、言葉掛けは優しくしなさい。三浦くんはお前が多少荒い言葉遣いでも気にしないだろうが、お木綿はそうじゃないんだ」

「わかりました。優しくします」

 千歳の教え方はよくなかった。そこは反省している。一方で、歳三が良い年長者の顔をして物事を語っていると、いつも素直に受け入れられない。


 申の鐘が鳴り、千歳は屯所を退がった。家に帰ってすぐに着替えて、半纏はんてんを羽織る。寒いとは思っていないが、身体を温めなくてはいけない。

「お木綿、お待たせ。お針やろう」

 東に開けた離れ座敷が一番、夕方になっても明るい。木綿が百目の波縫いを練習するあいだ、千歳は斯波の講義を振り返る。

 「政府における三局の独立」。斯波は三局を、 legislation  置法  judicature  裁判  administration   支配   と訳し、西洋近代史とはこれらを備えた政府樹立のための戦いだと述べた。

 千歳には、三局に分かれた政府の実態がわからない。政府とは、法を定め、それに背いた者を裁く支配者であるはずだ。それがバラバラに存在する政府とは、果たして機能するものなのだろうか。特に、置法とは支配の方法を文面で表したものであるはずなので──

「あ、あんな、千歳はん。うち、昼間に呉服の──」

「お木綿、静かに。集中してやって」

「はぁい……」

 何を考えていたか。そう、置法の権だ。西洋では昔、王が置法の権を振りかざし、徴税を思うままに行なっていた。そこで、王から置法の権を取り上げたという。代わりに置法府、つまり評議所が設けられ、今は公挙によって選ばれた elector 公挙人  たちが、王に代わって──

「千歳はん、できたえ。見てください」

「え、ああ。──うん」

 針目は不揃いとはいえ、おおむね三分間隔で刺せている。あとは、一針を小さくしていくだけだ。手拭いを返す。

「この半分の針目で縫ってみて。針先を出すときの長さを揃えて、一定に刺すんだ。それで、もう百目」

 elector 公挙人  たちは、王の代わりに法を定めるが、彼らの役目はそこで終わりだ。その法に従って、支配府は税を取り立て、税を払わない者への裁きは評定所が行う。

 日本では有史以来、この三局は全て、時の政府が一手に担っていた。政府こそが支配者だった。となると、どうも administration を支配と訳すのは、収まりが悪い気がする。斯波も支配の権と説明し、辞書にも支配とあったわけだが、置法の権のない支配者は、強いて言えば奉行では──

「千歳はん、できました」

「あ、うん。うん、よし。じゃあ、片付けようか。火を起こしておいて。僕、ちょっと書き物するから」

 明日、斯波へ質問することを帳面へと書き付けた。申の刻に帰るようになってから、斯波とゆっくり話す時間がない。

 以前は講義準備を手伝っていたが、書庫や文学師範部屋は、本の埃とかびで肺に悪いからと、講義の時間以外は入れてもらえない。少しでも手が空いたら、濡れ縁で日を浴びて、静かに休んでいるように言われる。気遣いはありがたいが、千歳は実に物足りなかった。

 土間に降りると、木綿はすでに行灯の灯を入れ終えて、湯を沸かしていた。まだ表は暗くなりきらない。

「手早くできるようになったね、すごいよ」

「えへへ、火打ちな、ちゃんとカンカンカンで火口に移せるよになってん」

 お木綿の得意気な顔に、千歳も笑う。

「成長したね」

「したで」

「うん。じゃあ、まだ先生も帰られないし、ちょっと掃除のやり方だけ確認しておこうか」

「……えー」

「えー、じゃないの。家事の第一でしょう?」

 表座敷でハタキ掛けから始める。やはり朝は半分寝ていたのか、畳の目に沿って箒を動かすことも、部屋の角を注意して掃くことも、覚えていないようだった。

「いい? 部屋は隅から中央に向かってゴミを集めるの。なんでだった?」

「なんやろ、わからへん」

「教えたでしょう? よく考えて」

「……ちりとり、使いやすいから?」

「埃は角に溜まりやすいから。この座敷は四畳半だから、この真ん中の畳に向かって掃いて」

 箒掛けが終わり、雑巾掛けの支度をするころ、歳三が帰宅した。

「ただいま。うん? 掃除か、熱心だな」

「旦那はん! お帰りなさい。今日な、お昼にうち──」

「お木綿、続けて」

 雑巾を手放して出迎えようとする木綿を留めて、千歳は土間へ降り、歳三の刀を預かる。

「おかえりなさいませ」

「うん。優しく教えてやっているか?」

「ええ、優しいもんですよ」

 奥座敷へ上がり、歳三の衣服を整える。表座敷へ戻ったところ、木綿は水の絞り切れていない雑巾で畳を拭いていた。

「ちょっと、お木綿! 待って!」

 慌てて乾いた雑巾を取り、畳の水気を吸っていく。古い手拭い雑巾は、すぐに湿り気を帯びていった。

「お木綿、なんでちゃんと絞ってない雑巾で畳を拭いちゃいけないんだった?」

「……濡れるから?」

「濡れると何が悪いの?」

「何、が……」

「畳が傷んで、かびが生えるからでしょ? ──はい、ちゃんと絞って。朝、先生、なんて言われてた?」

「えっと……しっかり握って……?」

「手の位置は? 上下にして。違う、手首を寄せるって。──聞いてた? 先生の話」

 木綿の理解のなさに、千歳の語気は強まる。応じて木綿の顔付きも不機嫌を露わにしていった。

「いっぺん聞いただけで、覚えられるわけないやん」

「わかってるじゃない。だから、復習が大事なんでしょ? 僕に怒る前に、自分がどれだけ復習したか振り返ってよ。僕たちを見送ったあと、ひとりでやり直した? 何言われたか、思い出しながらやった? ──いい? その場で聞くだけ、そのままにするから覚えられないの」

 お木綿が雑巾を浸したまま、ポロポロと盤に涙を落とす。千歳は小さくため息を吐いて、声音だけは柔らかく言う。

「悔しいと思うんだったら、ちゃんと覚えていこう? はい、もう一回。──泣いてないで、手を動かすの」

 木綿がいよいよ両袖に顔を埋めて、声を挙げて泣き出す。千歳は背を撫でて続きを促すが、歳三が来て、千歳を離させた。

「一旦、落ち着きなさい」

 木綿の肩に手を置くと、木綿は歳三に縋るように羽織の裾を掴む。

「先生、甘やかさないでください。──お木綿」

 苛立ちを抑えた低い声に、木綿は首を振って背を向け続けた。歳三が千歳を見つめて、無言に諭す。千歳の気は収まるはずがなかった。

「お木綿、隠れてないで答えて。どうして、泣いているの?」

「……怖いからやん。千歳はん、怖いねん!」

「あのねぇ……! こんな優しいことないよ。お屋敷に奉公してたら、こんなもんじゃない。畳濡らしたら、その場で叩かれて終わり!」

「おい、声を荒げるなら、もう止めろ。いいじゃないか、掃除なんて」

「掃除すらできなくて、どこに置いてもらえると? ──お木綿」

 肩を掴んで、振り向かせれば、木綿は勢いよく千歳の手を払い退ける。

「掃除掃除って! うち、婢女はしためやないねん! なぁ、旦那はん!」

 歳三の返事より速く、千歳の平手が木綿の丸い頬を叩いた。驚いた歳三が木綿を袖で庇うが、千歳は剣幕のままに立ち上がる。

「甘えたことを──! ここでは、にこにこおしゃべりしてたら、ご飯がもらえるなんてことはないんだよ。ご飯になるのは、お木綿自身の家事働きだけなの! わかってるの⁉︎ 今日は夕食抜き! 二階に上がりなさい!」

 木綿が泣きながら階段を駆け上がる。その背を見ながら、荒い息を肩で繰り返したために、咳が込み上げた。袖で押さえて、息を止める。しかし、怒りとままならなさから、身体は震えて、咳を抑えられない。痰が絡まり、手拭いに吐き出した。

 血混じりの痰だ。いつもより血の量が多かった。

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