十一、歌詠み
夜半の特別講義に深く礼を述べて、千歳は行灯を伊東の部屋まで運んだ。執務室の北、北庭に開けた六畳間に入り、文机の側へと置く。
ふと見遣った机の上には料紙が重ねて置かれ、幾首かごとに歌が書かれていた。一番上に、川瀬夫人を悼んだ一首も連ねられる。
美しき人の守りぞ
真心のかはらぬ色に花も咲くべき
真心の色とは、何色なのだろうか。赤心の赤か。それとも、千歳が差し出した桔梗の白か。視線に気付いた伊東が、料紙を手に取る。
「君には、お辛い別れだったでしょうね」
「いえ、あれ以外には、なかったと思います。……佐野さんには、ご迷惑をおかけしました」
「彼も気にかけていたようですね。本願寺さんに御供養をお願いしたと言っていました」
「え……そうでしたか」
恨みはないし、夫人の死にも一応の納得はしているが、あの一件以来、佐野とは幾度か挨拶を交わしたのみで話していない。伊東の講義のさいも、近くに座っては話し合いで一緒の組になってしまうので、離れて座っていた。
伊東はうなずいて座るように手で促した。一礼して座す。
「君は時折、熱情に自分を抑えられないこともあるでしょう。けれども、上手く付き合えば、それは君の宝になります」
「そう願います」
苦い微笑みに小さく首を振りながら答えれば、伊東はひとつうなずいて、そうだと手を打つ。
「僕の講義では、政論ばかり扱っていますが、たまには歌論をしても良いかと思いまして。君は、万葉が好きでしたね? たまに詠むとか」
「ええ、ですが、形を真似ただけの凡作です」
「いえ、素晴らしい。歌は佳作を読み解くのも良いですが、自ら詠んでこそ、より佳作の良さがわかるものですよ」
机の上にある料紙と紙箱を千歳との間に置く。江戸を出てから詠んだ和歌を書き溜めており、いずれ歌集にまとめるつもりだという。流れるような筆遣いは、歳三の筆跡とも似た豊かな曲線の含みを見せるが、なお繊細で、なお整然としていた。
「気付けば、もう立秋も過ぎましたね。秋の
白い桔梗が浮かぶ。しかし、あれは川瀬夫人の好む花であって、千歳には弔花と等しい。撫子と思い付いたが、薄紅の可憐な色形を好むと口にするのが、何とはなしに気恥ずかしい。最近、葛根湯が処方されていたと思い出す。
「僕は……
「おや、以外なところにきましたね」
「深い赤紫色が、秋らしくて好きなんです」
「そうですか。葛……うーん、僕は詠んでいないはずです」
紙入れを探した伊東が顔を上げて微笑んだ。
「では何か一首、詠んでみなさい」
「え? い、今ですか?」
「はい。僕は、そうですね、萩で詠みましょう」
そう言って、伊東は早くも考える姿勢を作るので、千歳も唐突に訪れた歌詠み会に参加せざるをえない。
伊東は、素直ながら素朴になりすぎないような、流麗さを保った歌風を好む。万葉調よりは古今調だ。三区切れ、掛け言葉。
(葛の掛け言葉は……なんだっけ、恨み……? 風で葉っぱの白い裏側が見えるから……だっけ?)
吉野の枕詞を引き出し、七五調に整える。係結びを確かめてから、ゆっくりと詠み上げた。
うら吹き見せぬ陰の
(吉野の里に吹く秋風さえ、葉を吹上げて葉陰の葛花を見せてくれはしないのだから、私の恋心も恨みも誰に知られることはないのだ)
「ほぅ、詠み手は恋人の足が遠のいた女、でしょうか。君はなかなか、十五歳とは思えない渋い詠み方をしますね」
伊東は感心の様子を見せてうなずいてくれるが、上手いとは評さないとおり、形を踏襲しただけの凡作だ。千歳にもわかっている。もっと恋情から絞り出たような、生命ある言葉をもって歌わなければ、聞き手も鑑賞していておもしろくないだろう。
「あの、もう一回、考えさせてもらってもよろしいですか? もっと、ちゃんと心の内を歌います」
「ええ、君の真心、聞かせてください。それと、万葉調が得意なら、僕に合わせなくていいんですよ」
及ばない技巧に耳を赤くしながら、思案にかかる。
恋の初めなら、実感を込めた心境を歌えるはずだ。ドキドキして、しかし、それが恋心とは気付かないままに会って。
翡翠の玉かんざしを買ったときは、啓之助を引き連れて、あれが良いか、これが良いかと散々店先で迷った。ニヤニヤしながらからかう啓之助を何度も小突きながら選んだのが、あの一本だった。からかいたくなる気持ちはわかるが、からかわれるのは嫌だ。
思い出していけば、自然と五七調が浮かぶ。恋を自覚した少年の気持ちを込めて、歌い上げた。
今恋と覚えたりけり
野に茂る葛根のごとはな
(たった今、恋心に気付いたばかりなんです。野原に茂る葛の根を掘り返すようには、僕の恋心を晒すことはしないでいてください)
伊東が耐えきれない様子で顔を背けて、フフッと笑い声を漏らした。千歳は反抗の目線と口調をもって応じる。
「な笑いたまいそ」
「すみません。かわいくて、つい。良いですね、実に十五歳らしい、言霊の宿った一首です。やはり君には万葉が似合う」
「……ありがとうございます」
頬の赤らみが薄明かりには映らないことを願いつつ、頭を下げた。例え今後、伊東の歌論の講義があっても、もう少し若さを抑えた歌を詠もうと心に決めた。何とからかわれるか、今から恐ろしい。
しかし、同時に、伊東に笑われたことで、君菊とのことは千歳の中でまた一歩、思い出に近付いた気がした。
「はい、失礼。では、僕の番ですね。萩」
頬の緩みを治めた伊東が背筋を正し、優し気な声で詠み上げた。
露深き秋の萩原分け行けば
身にも知られず袖しぼるなり
(露が降りた秋の萩原を掻き分けて進んできたので、知らないうちに袖を絞るほど濡れてしまった)
「……恋の歌ですね、これは。初めは恋するつもりなんかなかったのに、心惹かれて、気付けばもう引き返せないほど愛していた。お相手さんは、どうでしょう……この場合、片恋の方が、泣くはこちらばかりという侘しさが際立ちますけど」
「片恋ですよ、侘しいものです」
「あ、実際のお心とは知らず……」
千歳が慌てて頭を下げれば、伊東はクスクスと笑いながら紙箱から料紙の束を取り出し、千歳との間に扇状に広げる。さらに二枚、引き出して、千歳の膝前に置いた。
「これも、その女を詠んだものですね」
手を着き、仮名のつづりを読む。
おのれのみ深くも思ひそめにけり
移ろひやすき花の色香ぞ
(私ばかりがあなたを深く恋慕し始めてしまった。移ろいやすい花の色香のように、移り気なあなたよ)
心なき人に見せばや
秋の野に咲き乱れたる萩の盛りを
(心ない人に見せたいものです。秋の野に咲き乱れる萩の花が盛りである様を、私の心がどれほど恋に燃えて乱れているかということを)
先程の歌と併せて考えれば、以前より顔馴染みの相手だ。それを最近、恋うるようになった。花の色香、嶋原。伊東が贔屓にする芸妓は。
「……先生、お馴染みさんは、花香でしたよね?」
「ご名答、さすが察しが良い」
しかし、伊東はなぜ、千歳に思い人を当てさせるような遊びをするのか。怪訝に顔を上げれば、伊東は決して愉快そうな顔をしてはいない。それでも、恐れのない様子で語る。
「妻と別れて、まだ半年も経たないというのに、僕は根っから、誰かを愛していたくて仕方がないんでしょうね。娘や母は、もちろん愛していますが、それとこの欲とは別物です」
「恋人として、ですか?」
「あるいは、妻として。愛する者、愛して憚りなき者が欲しい」
「僕は……あまり恋愛については分別ありませんから、なんとも言えないのですが、先生はその、ご自身の恋心をどう評価なさっているんですか?」
「弱い人間だと思いますよ。それから、娘にはとても申し訳ない」
先程までの穏やかな視線から転じて、伊東の目は静かに千歳を見つめる。千歳は伊東の心を察した。歳三と千歳の関係に重ねているのだ。
自身と娘の将来を憂いているのか、歳三と自身を重ねさせることで、千歳の本意を引き出そうとしているのか。
伊東になら語れることもあるかもしれない。言葉が強くならないよう、膝を崩して、袴のヒダを整えることに気を向けながら返す。
「愛は、所有欲と寂しさを埋める言い訳だと思います。しかし、それは相手の存在を利用することだと罪悪を抱く心が、美しい言葉を並べて、愛をなんだかきれいなもののように見せかけているんです」
「……なかなか、手厳しいですね」
「いえ、だから、愛とは自分勝手なものだからこそ……それを自覚すべきだと思いますし……。僕は別に、あの人に僕の母だけを愛していてほしかったわけではない、と思うんです」
「では、どうしてほしかったのでしょう? 息子としては」
「……ふっ、そうですね」
また嫌味な口調が現れてきたので、息を吸って落ち着かせる。目の前の人物は歳三ではないのだから、感情を露わにしても仕方がない。
「……今さら、過去に触れられたくありません。過去の隔たりは、底なしの沼ですよ。なのに、あの人はそれを埋めたがっています、和解を求めているんです」
歳三もきっと、愛したい人間なのだろう。愛する存在を気にかけて、憚りなく愛おしみたい。そんな欲求が先にあり、加えて責任と義務から、千歳をその対象にと定めた。
千歳である必然性はないのだから、千歳以外の存在を探してほしい。歳三の愛したい存在は、決して千歳自身ではない。罪滅ぼしだとか、娘なら愛すべきだからとか、そんな下らない理由のために、有限な時と愛情を費やさなくていい。こんな愛しがいのない娘などに。
「あの人こそ、本当に愛した女と家庭を持つべきです。それで、子どもを持って。……愛したい欲求が満たされたら、そのときには、僕の存在も、もう少し……」
どうなるか、とは言えなかった。千歳にもわからない。しかし、今の状態が互いの負担になり過ぎていることは確かに思えた。
伊東が、幾枚にも連なる料紙の白川の向こうから、静かに語りかける。
「土方くんは君のこと、愛していますよ」
「ええ、わかっています。僕だって、愛していないわけじゃありません。けれども、どうしても、お互いの望む形が相違うんです」
伊東は憐れみの一息と共に何度もうなずいた。料紙を集め出す。順番があるのか、千歳の膝前の一枚ずつを丁寧に手許の束に加えていく。そのさまを、千歳は膝を崩したまま眺めていた。
紙箱の蓋が被せられて、座敷は再び整然とした姿を見せる。伊東が、ゆっくりと千歳に向き直った。
「ひとつだけ、最後にお話しましょう。心は行動に現れますが、対して、行動から心は読み解けません。ですから、行動をもって心を判じたり、評価を下さないことです。相手にも、自分にも」
「愛ゆえに側にある。されど、側にあらぬは愛なきゆえ、ではない、ということですか?」
「ええ、君は賢いので、その評価を違えずにできるはずです。君自身も、です。愛あると認められる行いをしていない、すなわち、君はその人を愛していない、というわけではありません。愛ゆえの行いは、それぞれです」
正論にも思えるし、綺麗事にも思える。都合の良い言い訳にも聞こえる。しかし、ひとまずは受容しておきたくて、千歳は礼で応じた。
部屋を出るさい、今の話は歳三へは聞かせない方がいいかと尋ねられる。千歳は障子の枠木に手を添えたまま迷った。どちらにしても、何も変わらないのだから。
「……僕は、どちらでも」
「わかりました。では、いずれまた、折を見て」
「はい。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
行灯の薄明かりの中、微笑みを浮かべた伊東が座っていた。目に光る穏やかさは、千歳の幸せを祈っているように見える。千歳も、この良き師範の幸せを心から望んでいる。
「あの……すみません。あの、先生は……きっと娘さんと良い関係でいられると思います……まだ、幼くていらっしゃいますから」
「ありがとう」
「すみません、遅くまで。失礼いたします」
深く頭を下げて、障子戸を閉める。もう大人に近い千歳では、今さら親との関係を作り直すことは出来ないのだ。一抹の寂しさと共に、早く歳三の諦めが付くことを願った。
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