十、気配

 三日間、葛根湯を飲み続けたおかげか、頻発するくしゃみはなくなった。一方で、咽喉の炎症は残り、右奥が腫れて痛い。声の掠れと軽い咳も出てきたので、南部からの処方は、甘草湯が与えられた。

 千歳は牛酪作り用の七輪と土鍋と共に、薬鍋も提げて、厨の裏戸口を出た。牛酪作りが千歳の午前中の仕事として、固定されるようになっていたおかげで、六兵衛にも気付かれることなく、ついでの薬湯煎じができることは運が良い。手早く薬を煎じ、飲み終えると、牛酪作りに取り掛かった。

 牛乳を煮詰めるあいだ、英文を話し続ける。とにかく英作文の数をこなし、口に出せとは、斯波による英会話獲得の極意だった。

「Oh, Mr. milk. No one loves you. I know you are good for a health. However, you are not good taste for their mouth. So I cook you」

 (ああ、ミルクさん。みんな、君が嫌いだって。君は健康には良いんだけどね、彼らの口には合わない。だから、僕が調理してあげる)

 出鱈目に口ずさむうちに半刻は過ぎて、牛乳は重たさを見せだし、竹のヘラを通した跡が開く。牛乳の乳臭さにも随分と慣れて、むしろ芳ばしい甘さを良いものと感じるようになっていたが、残念ながら、鼻詰まりの最近は何も感じられない。

 砂糖を練り込み、火から下ろす。羊羹の竿状に形を整えて、紙に包んだ。しばらく冷ましたのちに切り分けて、夕食の粥膳に添えるのだ。

「Sugar, you are sweet. You are necessary to be loved. To not only milk, but also lady. someone said that」

 (甘くてかわいいお砂糖さん。あなたは牛乳にだけじゃなくて、婦人にも必要よ。愛されるためにねって、誰かさんが言ってたよ)

 鍋の縁と竹ベラに残った牛酪を剥ぎ取って、口に入れた。少しは滋養の足しになるだろう。


 体調は全快しない中でも、総司との稽古は再開される。左腕の包帯がいまだ外れていないこともあって、久々に小太刀を取った。

 右手に構え、総司の攻勢に備える。小太刀は一刀を受けてからの攻めが基本で、総司もいつものように攻めろとは怒鳴らない。代わりに気組と怒鳴られるのだが、それでも、殺せとは言わない。

「もっと──ああ、もう! わかるだろうが、気組が足りないんだよ! 足りないし、全然、僕のこと見ても聞いてもない、感じてない! もっと……」

 総司が形容を試みるも、感覚は言葉に出てこない。苛立ちのまま、地団駄のように床板を繰り返し踏みつけて、剣を構え直した。

「──とにかく、気組が足りないんだ、受ける方も出す方も!」

 千歳は少しでも総司の身体感覚を掴めるよう総司の気を探して目を凝らす。木刀稽古で防具がない分、いつもよりは気を感じやすいはずだ。

 もっと総司の動きの根幹より湧き出でる気組を掴み取らなくてはいけないのだ。今の千歳は、総司が繰り出す形の動きを判じて、自身も適合した形にて応じているだけだ。しかし、見えないものは、見えなかった。

 撃ち込みが甘い、動きが鈍いと散々に跳ね返されて、総司は気組が足りないと言う代わりに、呼吸が浅いと言い出した。

「なんで、呼吸が浅いの? 息殺してるつもり? バテて死ぬだけなんだけど? ねぇ?」

 総司には珍しく質問を重ねながらにじり寄られ、千歳は、大きく息をしますとしか返せなかった。しかし、撃ち込みに備えて息を吸えば、喉に風が当たって痛い上に、攻撃の予兆を敵に与えてどうすると怒鳴られるのだった。

 稽古後、木刀を片付けながら尋ねる。

「あの感じるって、本当になんですか?」

「か、ん、じ……感じるでしょう、なんか、来るって……! なんか、右に来たら右腕ががフワッて、なるでしょう……?」

「すみません……全く……」

「……もう、わかった。今度の稽古までに伊東先生に聞いてきて! あの人なら頭良いんだから、きっと説明出来る」

 まるで他人任せではあるが、千歳は総司が千歳に応じた稽古の仕方を模索してくれていることが嬉しい。今夜にでも聞いてみると約した。


 夜も更けて、伊東の部屋を尋ねると、伊東はすでに総司から指南の依頼を受けていたらしく、千歳を表座敷の広間に連れ出した。床の間に行灯を運び、対面して座る。赤い灯を宿した伊東の目が、真っ直ぐに千歳を見る。

「気というのは、論じるのが難しいものですが、しかし、確かにあるものです。まずは、僕の指先をご覧なさい」

 伊東の長い人差し指が立てられて、千歳の額、三寸先にもたらされる。眉を寄せて気を張った伊東に、何か感じるかと問われても、首を横に振るしかない。

「そうですか。では、集中して。指先を見ていなさい」

 指先がさらに近付き、眉間の一寸先から鼻筋に沿って下る。口許にまで至るとき、千歳の身体は芯の方から湧く震えと、唇に浮かぶ警戒にビクッと跳ねて、上体が後ろへと引かれた。

 ごく真面目な目をして、伊東が尋ねる。

「何か感じましたか?」

「……は、はい。なんか、ザワッてしました。なんでしょう、危険を感じるというか」

「そうですね、身体にもたらされる不穏の察知、とでも言いましょうか」

 もう一度、と仕切り直され、千歳の眉間に指先が近付く。今度は、この時点から皮膚の表面に粟立つような揺らぎを感じていた。繰り返すうちに、目を閉じても、後ろを向かされて同様に、首から背筋になされても、伊東の指先が身体から一寸の内に入れば、気配が察知されるようになった。

 自分でも理解できない感覚だった。首の後ろに残る違和感を両手でこすり落とすように、伊東を振り返る。

「一体、どうしてですか? 後ろ向いててもわかるって」

「君こそ、どうしてわかるんです?」

「どうして……えっと、だって……鳥肌が立つと言いますか……すっごく微弱に、触られたときの感覚の、集中する感じが……触られてないけど、すると言いますか……!」

 千歳が困惑に両手を上下に振りながら、弁明を試みる様子に、伊東は気を緩め、クスクスと笑う。

「言葉で言い表すのは難しいですね。しかし、今の君は、僕が手を叩くことさえ予見できますよ。いえいえ、奇術ではありません」

 千歳が胡散臭いものを見る顔をしたので、伊東は真面目な顔付きで首を振った。再び向き合い、伊東は手を上下に離した状態に構える。

「君も手を構えて、目を閉じてください。それで、僕が手を叩くなと感じたら、一緒に叩くんです。きっと、音は揃いますよ。はい、集中して」

 大きく息を吸い、音を立てないようにゆっくりと吐きながら、目蓋の向こう側へと気を研ぎ澄ます。何か温かい雲が湧いたような気配が生じて、瞬時に手を叩けば、十二畳敷きの広間に、ほとんど同時に手を打ち鳴らす音が響いた。

 驚きに目を開ければ、伊東が涼しげな目を細めて微笑んでいた。

「どうです? なんとなく、掴めましたか?」

「こ、これは、本当に先生が何かしらの、奇術使いだとかいうわけではなくてですか……?」

 驚愕に見上げれば、伊東はやはりクスクスと笑い声を挙げて、首を振る。

「君の力ですよ。たしかに、今の君は特別、僕の・・気を読むことに長けていますが」

「これが気組、なんですか?」

「そうですね。剣術でも同じように、相手の動きの予兆を感じ取るのです。感じ取れるようになったら、自らは発さないように封じるのです。しかし、気勢は弛ませず」

 伊東が二本立てた指を青眼に構えて、静かな気を満たす。千歳も応じて、正座の左膝を少し下げて、右手は小太刀に構えると、伊東の指先の気配を目に焼き付けながら、目蓋を閉じた。

 衣擦れの音がして、剣先が上がりゆく。上段に構えられた。行灯から油の焦れる音が立つ。剣先の気配は、まだ頭上にあった。

 一瞬、焼け付くような鋭い気の動きを感じて、右前に素早く守りの構えを作る。タンッと鈍い音と共に、伊東の指と交わった。振り下ろす速度に手加減はなかったのだろう、刃として向けた中指に痺れが生じた。

 目を開けると、張り詰めた気をすでに解いた伊東が、上出来だとうなずいていた。

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