九、生誕
文学師範部屋に集まった一向は、雨笠を被り、豚小屋へと出向いた。人間が来ると餌がもらえると学習した豚たちは一斉に柵へ駆け寄って、潰れた鼻をブフブフと鳴らす。この日の医術講座は、豚の交配と育成についてだった。
「んだ、みんな集まれ。はい、豚さの雌は年中、懐胎できっが、交配させんのは春秋のみだ」
南部が柵の一角に一同を集めて、説明する。一回の分娩は八頭前後、懐胎日数は約百十五日ほどで四ヶ月弱。秋に交配すると、出産は冬となり、冬に生まれた仔豚は、翌秋には妊娠できる成体となる。
「んだら、
皆が雌豚の股を覗き込むが、千歳は顔を赤くしてまごつくばかりで、柵にも手をかけられない。南部が笑い声を挙げて手招く。
「なんだ、酒井くん。ボボさ見んのは、初めてか。なぁに、怖がることはねぇ!」
どっと笑い声が挙がり、千歳は首まで真っ赤にして身を震わせつつも、反論を耐える。ニヤニヤ笑いの啓之助が腕を引いて、一番前へ引き入れた。南部は柵越しに豚の背を撫でて、言い含めるように語る。
「あんま恥ずかしがんな。そこらの草花だって、この豚だって、人間だって、雄と雌が出会って子孫残してんだ。はい、復習。豚さの盛りと交尾の時期は?」
「ね、年中ですが、春夏にします……!」
「んだんだ。もし一月以上、盛る様子のなけりゃ、雄の匂いさ、よく嗅がす。それでもダメなら、雄さ取り替えるんだ」
その後は、雄の盛りの前兆の見分け方、交配時および交配後の注意や、離乳の時期まで。矢継ぎ早に豚の生殖について教え込まれていった。千歳も恥ずかしがってばかりもおられず、質問こそ投げかけられないながら、講義の内容は漏らさずに帳面に書き付けた。
雨に冷えたので早く着替えるようにと忠告されて、講義は解散になった。千歳は稽古終わりよりも激しい気疲れに襲われつつ、書院棟へ戻りながら、啓之助へとこぼす。
「誰なんだろうね、豚の交尾から出産までの日にちを数えてみようなんて始めた人。そんな、数えようなんて、よく思い付くよ」
「人間だって、十月十日って言うじゃない」
「人間の出産はお祝い事が伴うから、そりゃ準備のために日数は知っておきたいだろうけど、豚はそうじゃないだろ?」
「だけど、酒井くん」
後ろから聞いていたらしい南部が優しい声で諭した。
「豚さは俺らに食べられるため、生まれさせられる。なら、少しでも無駄のねぇように、交配の仕組みさ知らにゃなんねぇ。そう思わねぇか?」
「あ……はい、おっしゃるとおりです。申し訳ありません」
「いい、いい。初めて知るこたぁ、不思議も多いもんだ。あ、あとひとつ、将来、悪い女さ引っかからねぇよう、覚えておくといい。人間は交わりから出産まで二百七十日だ」
「え? 十月十日だから、三百と五日じゃないんですか?」
啓之助と共に驚きに振り返ると、南部は期待どおりの反応を得られたのか、満足気に笑い声を挙げて、笠の縁へと手を添える。
「そりゃただの語呂合わせだ。だから、いいかね、責任おっ被せられねぇよに、交わった日はよく覚えておけ。そっから三百日も開くこたぁねぇ」
千歳には、なんとも無責任な男の保身術にしか聞こえず、苦笑いのうちにやり過ごすが、啓之助は驚嘆の声を挙げながら、二百七十日と繰り返し唱える。
「今日一番の学びかもしれない」
「君ねぇ、この学びが役立つ男なんて、碌な奴じゃない。真面目に生きろよ」
「んだな、はははは。佐久間くん、真面目に生きてっか?」
「全体としては褒められたもんじゃないですけど、この件に関しては俺、一筋な女がいるので、真面目と言っていいと思いまぁす」
両手をふらふらと振りながら、啓之助は戯けて答えた。
翌朝、千歳は自身のくしゃみで目覚めた。鼻水を堪えて布団から這い出し、懐紙に顔を埋める。二日連続で雨に打たれたツケが回ってきたかと、観念した。
文学師範部屋の鴨居に人体の骨格図が掲げられ、折れやすい骨と固定の仕方が説明される間も、千歳のくしゃみと鼻をかむ音は止まらない。見かねた南部が講義を中断して、千歳に腕を出させると、脈を採った。
「──ん、ちと暖けぇが熱と言うほどでもねぇな。喉見せっせい。おおう、随分腫れてんな。咳は──まだねぇか。んだな、風邪のひきはじめだ」
「すみません、僕、ホント、風邪とかひいたことなかったんですけど」
「いい、いい。種痘の後で、身体弱ってんだ。葛根湯さやろう」
南部は千歳の両肩を叩くと、医術道具が仕舞われた背負いの桐箪笥から薬包を取り出す。
「あとで煎じて飲みっせい」
「ありがとうございます、すみません」
講義後には、執務室に退出の挨拶へと向かう南部を留め、くれぐれも歳三へ告げてくれるなと念押しした。
「本当に口うるさいんです。きっと知られたら、今度は玉子が一日二個になりますから、どうかお願いします」
「ははは、んだ、言わねぇ。代わりに葛根湯さ、もう五つ渡しておこう。朝夕飲みっせい」
「はい、ありがとうございます」
「先生、種痘さ受けるってときも、だいぶ案じられてたかんな。なかなか、あったら気の使える方、いらんねぇよ。ははは」
千歳も愛想笑いに徹して、一礼を返した。
夕方、退勤の挨拶をしようと執務室を訪れると、部屋にいたのは伊東のみで、歳三は居室にいると伝えられる。
「先日、お姉さまに初孫がお生まれになったそうで、そのお祝いに書幅を贈りたいと」
「お姉さまって、日野宿の佐藤さまですか?」
「ええ、その娘さんの子ですから、土方くんは大叔父さんになったわけですね。おめでたいことです」
千歳にとっては
浄土寺にいたころ、能書の名手と謳われた和尚もまた、天気の良い日には広縁に書道具を広げて書をしていたが、書いている最中に話しかけられることは嫌っていた。千歳は廊下に座り、歳三が一枚を書き上げるまでを待つことにした。
首を伸ばして、すでに書き上げられた幾枚かを見る。軽やかにして時に大胆な筆致で、七言絶句の詩が
──────────
才名徳望重宇寰
梅樹竹林百歳間 梅樹竹林 百歳の
丈夫気識応如此 丈夫の気識 応に
独鶴高翔萬仭山 独鶴
生まれた子の才名と徳望が、天下に重ねて知られ、
梅の木、竹の林が百年栄えるように、長寿でありますように
立派な男子の気量と見識とは、まさにこのようにあるべきだろう
独りの鶴がどこまでも
──────────
生まれたのは、どうやら男の子らしい。歳三は、先行き不安なこの時代に、誇り高くあれ、自らの信念を貫けと、将来の武人に喚起する。
誕生とはめでたいことだ。千歳が生まれた日、志都は喜びを感じていただろうか。歳三にはきっと、何の特別なことはない十七歳の春の一日に過ぎなかっただろう。
小さなため息に、歳三が筆を止めて顔を上げた。
「なんだ、いたのか」
「あ、すみません。気を散らしてはいけないかと思ったんですが」
「帰るのか?」
「いえ、帰りませんが。熱はありません、元気です」
素知らぬ顔で大嘘を吐いた。一礼し、立ちあがろうとすると、歳三が筆を置いて呼び止めた。さすがにもう説教はしてこないだろうと思いつつも、居心地悪く入り口前に座り直す。
「はい、なんでしょうか」
「お前、漢詩はまだ書いているか?」
たまに書いてはいるが、見せろと言われては厄介だ。敬助に教わった日の初めての作詩を勝手に見られたことは、まだ忘れていない。志都を偲んだ詩であったことがなお、思い出しても腹が立つ。
「最近は全く」
「そうか。尾形くんに教わったりはしないのか?」
「尾形先生の講義は、詩歌より経典中心ですから」
「そうか、そうだな。──その着物は、来たときに着ていたものだな」
話の流れをどこに向けたいのか、千歳には検討が付かないが、今日着ているのはたしかに白茶の船底袖である。いつだか歳三が神保に会わせるには恥ずかしいと言ったことも忘れていない。
「そうですけど……そんなにみっともないでしょうか?」
「いや、そんなことはない。母さまに縫ってもらったものなんだろう?」
「いえ、浄土寺にていただいたものですが」
「え……?」
「そんな小さいころの着物、残ってるわけないじゃないですか。もういいですか?」
千歳は歳三の了承も待たず、形ばかり手を着いて一礼すると、足早に裏玄関を出た。
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