八、身勝手
雨音に消えるよう静かに、玄関の板戸を開けて、中を覗き見る。通り庭にも、奥の歳三の部屋にも明かりはない。幸い歳三の帰宅前に帰れたようだと安心して、脇差を抜き、敷居を跨いだところで、勝手口に人影が揺れた。
灯明皿を手にした歳三がこちらへ歩みくる。千歳は入口に直立して、来たる説教に備えた。しかし、歳三は濡れた髪を手拭いで拭きながら、台所の間への長式台に腰を掛ける。
「風呂を沸かしている、支度しなさい」
千歳が帰るとも限らないのに、夕立に濡れながら、風呂を焚いていたのだ。千歳は一礼して、歳三の前を抜けた。奥に続く廊下の上がり口には、手拭いが三枚、重ねて置いてある用意の良さだ。手足を拭い、自室へと入った。
風呂から上がると、通り庭では歳三が七輪で燗を温めていた。台所の間には盆が置かれ、五色豆の小皿と湯冷しと、白い薬包。団扇と、その奥には刀の手入れ道具まで出されていた。
「何か腹に入れてから飲んだ方が良いから、気分が悪くなければ食べなさい」
はい、と自身にも聞こえないくらいの小さな返事をして、座敷に上がる。豆を噛み砕くことで無心になろうと試みるが、七輪の炭に団扇で風を送る歳三の背中に、苛立ちは治らない。
この男は、なぜこうも甲斐甲斐しさを見せるのだ。歳三のなりたい父親像とは、奉公人のように娘の世話を焼く姿なのか。父の威厳など欠片もなく、土間に膝をついて火の具合を見る姿なのか。なんと情けない。父親とは、もっと泰然さと厳しさと、品格を備えたものであるはずだ。
非難の心が止まない一方で、歳三が心を砕く相手が自分である現実を哀れに思わずにもいられない。もっと素直で、受け取るままに謝意を表して微笑み返すような娘を持っていたら、歳三は幸せだったろう。例えば、君菊のような──。唇に浮かぶ涙の頬の柔らかさを振り切って、湯冷しを飲み干した。
翌朝、歳三と二ヶ月振りの朝食をとり、共に屯所への道を歩いた。互いの傘の下、一言も交わさないままに門をくぐる。前庭に五郎の姿はなかった。朝食時の集会堂にも、文学師範部屋にもいない。しかし、その奥の書庫には人の気配があった。
襖を開ける。出窓の枠に腰を下ろして、本を読む五郎と目が合った。五郎が本を閉じて膝に置き、窓枠の左端へと身を寄せる。
「おはよう、体調はどう?」
柔らかな声で笑いかけ、自身の右隣を軽く指先で叩いた。千歳はうなずくと、本棚の通路を抜けて隣に座った。
「おはよう、あの、昨日は申し訳なかった」
千歳が逸って頭を下げれば、手が伸びきて制する。
「僕の方こそ、すまなかった。三浦くんから聞いた。君に怒ったのは本当に見当違いだったし、謝ろうとしてくれたときに、聞く態度も見せずにいて、申し訳なかった」
「ううん、いいんだ。僕こそ、ちゃんと謝らなきゃいけない。すまない、殴ったりして。痛くないか?」
「うん、平気」
「そっか……」
気不味い沈黙に思い返せば、二月のあの一件の他は、喧嘩などしたことがない。五郎の性格からしても、他人の襟首を締め上げたのは昨晩が初めてかもしれない。
仲直りの方法を記憶に尋ね、迷いつつも、窓枠に所在なく置かれた五郎の手に向けて、自身も右手を出した。
「Shall we shake hands to be friends again……?」
(仲直りのために、握手をしませんか……?)
五郎がフッと笑い声を漏らして、照れ臭さと気まずさを滲ませながらも手を差し出し返す。
「Yes, of course」
(はい、もちろん)
結ばれた両手が上下に揺れた。解けて、手は各人の膝に収まる。雨音の中、渡り廊下からは、膳を運ぶ隊士たちの足音と話し声が絶えず響いた。
静かに時間が過ぎる。五郎を見遣れば、窓枠に頭をもたせかけて、膝の上にある本の角を意味もなく指先でいじっている。重たく瞬きを繰り返す薄い目蓋は少し赤かった。
五郎が千歳を見た。尋ねたがる目を向けながら、口にはしない。君菊のことかと問えば、申し訳なさそうにうなずかれた。
目を見ていられない。迫り上がる喉を精一杯広げて、息を吸い込む。
「身請け話が出た。受けるかはわからないって言ってたけど、会うだけ辛くなるから、もう会わない」
「……君が幸せにしてはやれない? 十年先になったとしても」
「僕なんかじゃ無理だ。それに、自分が相応しくない者だと自覚しながら会い続けるなんて、自分の欲を満たすために、あっちの好きって気持ちを利用しているみたいじゃないか。それは狡い。僕とのことは、さっさと思い出になるべきなんだ」
反論を受け付けない声で言い切れば、五郎もそれ以上は質問を重ねない。静かに手が伸びきて、左肩を触れられる。目を見ては泣いてしまうので、顔をしかめて足下の畳の縁を見続けていた。
「五郎くんは、愛の本質をなんだと思う?」
「……そうだな、愛とは相手を思いやり、相手の幸せのために動けることだろうか。男ならば、愛を放縦させてはいけない。君はそれを果たしたと思う」
「慰めはいいよ」
「慰めじゃない。相手の幸せを願って身を引いたんだ。これ以上の愛はないよ」
「本当に思っていること聞かせて。愛の本質は、本当に相手への思い遣りだけだと思う?」
優し気な眼差しに対し、非難の意を込めて鋭く見返す。五郎はわずかに眉根を寄せて手を離すが、それでも、微笑みに応じていた。
「僕が関わらないことが相手の平穏を保つのなら、僕は身を引くべきだ。僕だって側にいたいし、愛を返してほしいとは思う。けれども、自分が愛しているからと、自分の愛を押し付けるのは身勝手だ」
「……君は、実に
道徳規範をよく身に付けた五郎の回答は、千歳にも想定の範疇だった。しかし、知りたいのはその下に元来あるはずの道徳に適わぬ欲望の存在と、その内実だ。どう対応しているのか、知りたい。
千歳は、愛の本質を、身勝手な欲望であると考えていた。五郎の説く愛と対立するものではない。ただ、愛という言葉には、理想と欲望の二面性があるはずで、理想の側面からのみ愛を語っては、片手落ちに思えるのだ。
五郎は千歳の身勝手さをわかってくれるだろうか。それとも、正しくあれと諭すだろうか。自身が間違っているとは、十分に理解しているが、五郎にはわかってほしい。
少し同情を引くような、寂しさの微笑みを残して顔を背け、小さな声で語りだす。
「食べた物はさ、骨肉の一部となって、その人を形作るでしょ? 愛も一緒じゃないかって思う。与えられた愛は、精神の一部となる」
「精神……記憶とか思考の道筋とか?」
「うん、そう。人間の感性や意志は、いろんな人との記憶で作られていると思う。愛しさに誰かを抱き締めたのなら、それは、愛しさに基づいた抱擁を受けた記憶があるから、ということ。いや、記憶には限らないか、知識でも良い。愛しているなら、抱き締める。愛しているなら、口付けを交わす」
「えっと……じゃあ、君は愛の本質は、記憶とか知識とかに基づいた、愛あると見做される行いの模倣、と言いたい?」
「ううん、行為は意志の表れだ。意志は欲求に基づく。すなわち、愛の本質は欲求。相手の精神に及びたいと求める心」
五郎を振り返れば、赤い目は潤んで、心当たりを示していた。千歳は緊張が解けるのを感じた。あとはもう、感じたままに話せば良い。
「相手に幸せを感じてほしい、自分の行いによって。ほら、求めてるだろ? 相手の精神に、自身が及ぶこと」
「それは、身勝手だと思う……?」
「ときにね。精神に及ぶとは、ときに身勝手で暴力にも等しいことだ。だけど、自分の愛が相手の精神を侵害しうると自覚することは難しい。なぜなら、前提として、愛を与えることは良いことだと記憶にあるのだから」
千歳は歳三の内部に及びたいなど、欠片も願ってはいないが、歳三は自らの手で千歳を幸せにしたいと思い、自らが愛されてきた方法で、もしくは、常識や知識に基づく方法で、千歳を愛そうとする。千歳の精神に及ぼうとする。
「お腹空いてないときに、好きでもないものを勧められるとは辛いことだと、誰にでもわかるというのに、愛になればどうして……。『
「君は……純粋な愛はないと思う? もっと、美しい精神の交わり……」
先程までの学問を論じる硬質な声とは打って変わって、多分に迷いの含まれた声に尋ねられた。小さく首を振って、否定を示す。
「故人への愛のみは、純粋だと思える。相手の精神に及びようがないからね」
「祈りは捧げるだけだ、交わりとはいえない」
「じゃあ、君はどう? なんの報いも求めず、相手の精神に及ぶこともないままに、誰かと交わりを持てる? そこに、身勝手さはないといえる? 女に向ける愛だけじゃない、僕とか先生とか、君の周りの人、全て」
五郎の揺れた目が逸されて、膝下へと落ちた。軒先から止めどなく落ちる雨粒は、集会堂の喧騒からふたりを隔離する。立秋を明日に控えてもなお重たい風が出窓の格子より吹き込み、口を閉ざす五郎と千歳との肩の隙間を抜けていった。
千歳は文学師範部屋の襖を見遣りながら、やはり、自分は性格が悪いと思った。
五郎は千歳の言葉を真っ向から受け止めて、考えてくれる。自身の言葉が五郎の精神に深く及ぶこと、五郎がそれを拒絶しないことを知っているから、千歳は寂しさに任せて五郎に問い掛けるのだ。自分の隣で、自分と同じく答えを得られずに苦しむ者であってほしいというだけで。
申し訳なさに、五郎の膝へと手を寄せた。怪訝に見上げる目に、謝罪を込めて微笑む。
「君は人の気持ちをよく考えられる人間だから、きっと上手く人を愛せるさ。僕なんかとは違って」
「……どうだろうか。臆病者には、愛は鋭利すぎるように思える」
「君は臆病者?」
「うん」
しめやかな朝の光の中で、五郎の真っ直ぐなまつ毛が上下して、千歳を見つめていた。たしかに、五郎は極めて慎重に、千歳と交わろうとしてくれている。臆病ゆえであろうとも、とても慕わしい。
「君は思慮深いんだよ。良い人間だと思う」
「……Thank you so much, my friend」
(ありがとう、
「You're welcome, dear」
(どうも、親しき君よ)
五郎の手が重ねられる。どちらともなく視線が外れて、気怠いような呼吸が繰り返されるうちに、襖に隔てられる文学師範部屋から、誰かが来て座る衣擦れの音が聞こえた。手を引き、立ち上がる。
「じゃあ、またお昼に」
「うん。今日は午の下刻だ」
「待ってる。いってらっしゃい」
「うん」
いつもどおり約束を交わして、一日が始まる。千歳は書庫を出て、襖を閉じた。
五郎は、出窓の枠に腰掛けたまま、右手と膝の間にあった熱を惜しんでいた。霧のかかったような頭に、昨夕の情景が思い出される。
夕立の中でふたりと逸れたと気付いたとき、謀られたとの怒りが瞬時に湧いた。人波を掻き分けて、ふたりを探し、千歳が渋る啓之助の手を引いている姿を見つけたとき、もう何も考えられなかった。
横面を打たれ、泣きながら失恋の心境を露わにする千歳を前にしたとき、自身の抱く感情は友愛のみに基づくものではないと自覚した。
千歳が五郎だけを見てくれることはない、五郎だけに熱い思いを寄せてはくれない。今、目の前に迫る唇は、この先も、口付けしようと思えばいつでも出来る距離にあるが、決してしてはいけないのだ。
友人だから、側にあれる。五郎は、その
話しかけるなと突き放した。それでもなお、明日また謝りたいと訴える千歳の涙声は、五郎の心に愉悦を呼び起こした。あの瞬間、千歳は五郎のことだけを考えてくれていたのだ。
自己嫌悪が止まらないまま、夕立の中、屯所への道を戻った。堀川の辻に差し掛かったところで、啓之助に追い付かれた。五郎は啓之助を嫌ってはいないが、素直に好きと思えない理由は、この無神経さにあった。
『なんか、ごめんね? そんな怒ると思わなくて。俺が引っ張ってったんだよね、お仙くんのこと。ごめん、からかって悪かったよ』
当然のように隣を歩きながら、雨足の強さに文句を言ったり、甘味屋の娘の名を尋ねたりするのだ。適当にかわしつつ早足に道を進み、ようやく屯所の門に至ったが、啓之助はさらに五郎を呼び止めて、軒下に留めた。
『ちょっと聞いておきたいんですけどね』
『まだ何か? もう明日にしてくれないか?』
『これだけだから。なぁ、中村くん、お仙くんのこと、好きだろう?』
やはり、啓之助のことは嫌いだと思った。苛立ちを抑えて、ため息に顔を背ければ、啓之助はさらに続ける。
『だって、君、からかわれただけで、あんな怒りはしないだろう? お仙くんのこと好きなのに、彼は他の女を当てがおうとしてきたからって思ったんだけど』
『……あのさ、そうやって、勝手に気持ちを勘繰られるの、本当に勘弁してほしい』
『あー、じゃあ、君の気持ちはいいや、なんでも。だけど、お仙くんが望むのは、誠実な友人である君だから、それは裏切らないでやってほしいなって』
見下ろすような目が五郎を捉えていた。千歳とより近しく交わり、自分の方が一層、千歳を案じているようなことを言う啓之助に何度、嫉妬してきたか。
『……言われなくても、僕は彼の
玉砂利を蹴り上げて、集会堂へと駆けた。
恋心は打ち消して、友人としてあろうと、一晩かけて決意を固めた。
けれども、相手を思って身を引いたと強がる千歳の寂しさに手を伸ばさずにはいられなかった。純粋な心で交わろうとの覚悟も、当の千歳は、報いを求めない交わりなどありえないと言って認めない。五郎も、千歳に友人以上の情愛と距離とを求めていると認めざるをえない。
文学師範部屋に啓之助が来たのか、千歳の声が挙がり、挨拶もなく昨日の文句を言い立てていた。五郎は気付けば濡れていた頬を拭い、忍び足で書庫を出る。
愛を放縦させてはいけない、愛には責任がある。だから、五郎の取る選択は苦しくてもひとつのみ。これまで以上に、良き友人であろうと努めることだった。
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