七、落雷

 この一月近く、歳三は一切の小言を言ってこなかった。そのため、種痘後の朝夕ごとに、体調は悪くないか、熱は出ていないかと尋ねられても、千歳は一応の落ち着きをもって、問題なしと返答できていた。

 冷静ささえあれば、自身の態度が改めるべきものと反省できる。次第に申し訳なさも勝って、祇園御霊会の夕べには、歳三へと外出の旨を告げてから書院棟を出た。


 夕暮れに染まる四条大路は、蒸し暑さと混み合う人の熱気、町同士で張り合うように高く響く囃子に満ちていた。浴衣の袖を振って風を取り込みながら、同時に、のったり歩く見物客を避けながら、長刀鉾を目指して東へ進む。

 白絣の浴衣に下駄と装い涼しい五郎は、初めて目にする宵山の熱気にため息をこぼす。

「本当にお社の御殿が道を行くんだなぁ」

 漆に金の金具が施された山鉾の屋根や赤地の金襴は、連ねて掲げられる提灯の明かりを反射して鈍く光っていた。

「宇都宮では山車の出るお祭りはあった?」

「あったけど、こんな豪勢なのがひしめき合うものじゃなかった。美しいなぁ、よくぞ去年の大火を生き残ってくれたよ」

「そうだね、去年の今頃は、もう堀川から鴨川まで焼け野原だったから。今年、山鉾が見れるとは僕、思わなかった」

「人出もすごいね、逸れないように気を付けないと」

 うん、とうなずいて啓之助を振り返ると、いたはずの姿がない。目を凝らして元来た道の人混みを探せば、ひとつ前の辻にて、奥に停まる鉾を眺めて立つ洋眼鏡の男を見つけた。

「あいつはもうー。ちょっと待ってて」

 ため息をついた千歳は、五郎を残して、小走りに道を戻った。じきに暗くなる。次に逸れたら、また出会えるとも限らない。

「三浦くん、勝手に離れるなったら! 逸れたら、見つからないだろうが」

 千歳の説教口調は啓之助に全く響かず、隣に来て見るように手招きをされる。

「あの水引の結び方、見て! ああいうの見ると、どうやって結んでるのか解いてみたくならない? おもしろそうー」

 鉾を見れば、囃し方が座す胴の四隅には、角飾りの大きな金具から、これまた太い房飾りが垂れており、その中頃には複雑に組まれた水引飾りがあった。

「うん、確かに興味深い。しかし、見たいのなら、一声かけてからにしてくれ。僕らだって一緒に見るから」

「はいはーい」

 啓之助が歩みを進め、千歳も続く。しかし、啓之助の目はすぐに着飾った少女たちの一団に気を取られるので、千歳は啓之助の袖を引き掴んで歩いた。

「前見て歩けー、五歳の幼な子でも出来るぞ」

「へいへーい。ねぇ、心太ところてんかなんか食べなぁい?」

「食べたいですね、次見かけたらお教え願う。──五郎くーん!」

 空いた手を振れば、五郎も振り返す。千歳は大袈裟に困り顔を作って、啓之助を五郎の前に引き立たせた。

「この人と出会ってもう一年になるけど、僕の気苦労の半分くらいは、この人に依るものだった気がする」

「そ、そう……」

 千歳の訴えに、五郎は笑って良いものかと気まずそうに返したが、当の本人は、カラカラと笑い声を立てるのだ。

「どうもどうも、感謝してるよ。ところで、お仙くん、聞くところによると、君は俺の義母はは君に、俺と友人になれたことは幸いだったと言ってくれたそうじゃないか」

「うわ、知られてる。でも、それも一年くらい前の話じゃないの」

「ええー? じゃあ、今はー?」

「さあね。──ねぇ、五郎くん。さっき、ふと思ったんだけど、後にも先にもって言葉あるでしょ?」

 千歳は啓之助の袖を離さないままに、歩き出した。

 「後先」の後とは未来を指す言葉だが、「この先のこと」と言えば、先はこれまた未来を指す。発言者が過去と未来のいずれを向いているかで、用語の指す対象は変わってしまう。

「明日は未来だけど、明後日になったら、今日の明日は明後日の過去でしょ? もっと、固定された、常なる未来を指す言葉、ある?」

「それを未来と言うのでは?」

「それは、終着点の名ではないよ。未来は、僕より先にある『範囲』であって、一歩踏み出せば過去の範囲に移ってしまう」

「つまり、北とか南みたいに、どの場所にいても絶対に変わらない、向こう側のない極地としての、時間の進む方向をなんと言うか? うーん、難しいなぁ」

 五郎が腕を組んで考える。啓之助が小声で、

「宇宙には北も南もないと思うけどなぁ、極地って地極ちきょくだもの」

と言ったので、論題はまず、絶対的な指標の具体例に移り、何も挙げられないうちに、長刀鉾までたどり着いた。

 それから、心太を食べて、また少し歩いて、甘酒を飲んでと過ごすころには、日はすっかり暮れた。夜の空気はより重く湿り気を帯びて、祭囃子も鉦の音も、どこか戻り来るような響きがある。

 啓之助はすっかり絶対的な指標への考察に興味をなくしていたが、五郎との議論に夢中の千歳に大人しく袖を握られていた。

「──だから僕ね、確かに死は生によって始まった人生の極地だけど、でも、それは世界の果てではないと思うんだ」

「幽冥界とか、輪廻転生を言いたい?」

「うーん、それはちょっと置いといて……死は確かに終着なんだけど、それはその人の人生の終着であって、その人の中の絶対でしかないのかなって。時間の流れを、例えば鴨川と見立てたら、生、つまり起点が四条大橋、死、つまり終点が松原橋、となるみたいな。川は流れ続けるさ。どこから? どこまで? その果てはなんていうの?」

「人の人生が、過去から未来に流れる時間の中で切り取られた一部であるなら、それは線分、つまり果てなき線上の甲点から乙点まででしかない。じゃあ、この線の果てをなんと呼ぶのか、と考えているわけだから、たしかに納得できる考えではあるな、うん」

「なんで君は、僕のよくわからない例え話を、なんかいっつもきれいに翻訳し直すかなぁ……」

「おお、急に怖い顔になった」

 千歳が嫉妬に見上げれば、五郎は恐れを見せつつもおもしろがって笑う。一旦は議論の休息点に到達したとして、話題は山鉾の装いに戻った。屋根の上にそびえる鉾の先端を見上げていると、啓之助が反対方向、西南の空を指した。

「今、稲光りが見えた。夕立が来るかも」

 言い終わるやいなや、囃し方の高い笛太鼓の音にも負けず、低い雷鳴がとどろく。しかし、周りの見物客たちは涼が取れると夕立を歓迎して、囃し方へと負けるなと声を挙げる。

「どうする?」

 千歳が五郎を振り返れば、五郎は辺りを見回して、笠売りでもいないものかと探す。

「僕は濡れても構わないけど、仙之介くん、種痘受けたばかりだから、身体冷やすと良くないだろ?」

「あ、ありがとう。それなら、僕、管大臣の家に戻ろうかな、一旦。傘二本あったから、取ってくるよ。たぶん、被る笠もある」

 では道を下ろうとなったところで、

「あの、中村はん……!」

と、遠慮がちな少女の声が挙がる。

 振り返れば、西洞院通の甘味屋の娘だった。千歳にも気付いたようで、会釈をする。誰かと啓之助が小声で尋ねるので、千歳は五郎から一歩離れて、昆布茶を五郎にかけた娘だと説明した。

 娘は、連れ合う同じ年頃の少女たちの抑えきれない歓声と黄色い声にまごつきながらも、偶然だと五郎へ話しかけた。

「なんや、見知ったよな姿やぁ思うたら、やっぱし中村はんやった」

「うん、驚いた。久しぶりだね」

「へぇ、なんや先月も、えろう騒がしかったし、中村はん、お店来はらへんの、忙ししたはんのかなぁ、思てました」

 手許を見たり、五郎を見たり、しかし、ハッとしてまた俯いたり。落ち着きがない様子で、声も上ずる。五郎も顔に出さないよう抑えてはいるが、焦ったような緊張の背中で会話に応じていた。

 なかなかにかわいらしい恋愛模様を見て、千歳は啓之助を見上げて小突く。啓之助もニヤと笑って、囁いた。

「これ、中村くんの真意はどうなの?」

「いやぁ、どう見える? 僕、まだ恋ではないと思うけど、どうも一人でもあの店行ってるらしいところを見るに、悪く思ってもなさそうだ」

「へぇー、それは良いや」

 そう言うと、啓之助は千歳の手首を掴んで駆け出した。人を掻き分けて道を下り、千歳が呼びかけても速度を緩めない。

「ねぇ、ねえったら! 五郎くん、怒るよ?」

「せっかくの機会じゃないか」

「だけど……」

 振り返っても、群衆の向こう、山鉾の側にいるはずの若きふたりの姿はもう捉えられない。息も上がり、辻をふたつ越えて、啓之助はようやく脚を留めた。

「あの堅物、物語以外の女に恋をしてみたら、もう少し、柔らかさってものが出ると思うよ。今は、恋愛なんか丸っきり馬鹿にしてるんだもの」

「馬鹿にしてるっていうか、恋愛の仕方、わかんないだけだと思うけど。えー、どうしよう。ここまで来たら、家近いしなぁ。ちょっと君、先に戻ってて。で、怒られてて。僕、傘持ってくるから」

「こういうのは、一連托生だろう?」

「これ、今回のも本当、僕は巻き込まれただけなんだけど? おい、離せよ」

 ニヤニヤ笑いの啓之助は、千歳の手首を堅く掴んだまま、逃がさない。

「そも、俺さぁ、中村は君のこと好きなんじゃないかって思うんだけど」

「うん? 恋愛ってこと?」

「そう思わない?」

「君は馬鹿か。斎藤さんたちと同類だな、友情と恋情の区別も付かない奴が、他人の好意の種類を勝手に分別するもんじゃない」

「俺、わりと出来てると思うけど」

「どうだかぁ? こと君は、他人の思考および感情を察する力に弱い。そのために、いらない説教を喰らう。なのに、どうして、恋情だけは別で、察知が良いと思うのだね? え?」

 そんな問答を打ち切って、空は鮮烈な光を放ち、すぐさま雷鳴が地を揺らす。飛び跳ねた千歳が固くつむった目を開けたときには、大粒の雨が襲いかかってきていた。見物客たちは悲鳴を挙げて軒下へ入ったり、道を駆けたりと、路上は急に騒がしくなる。

「もー、離さないんなら、一緒に来い」

 啓之助を引っ張って、小走りに通りを下る。錦小路の辻に差し掛かったとき──

「仙之介くん!」

 肩を掴まれ、振り向かされた。啓之助の手も驚きに離れる。かつて見たことないほどの怒りを目に宿した五郎が、息を切らして千歳を睨んでいた。夕立は全身を貫く激しさで、囃子の音も聞こえない。

「ご、五郎くん……」

「君は──! こういうのは、卑怯だと思わないのか⁉︎」

 千歳が剣幕に押されて脚を引こうと、五郎は両襟を締め上げる勢いで詰め寄り、手を離さない。啓之助が落ち着くように諌めるが、肘で押し返し、口を挟むなと言い放つ。

「仙之介くんに聞いてるんだ! おい、答えろよ、何か良いことでもしたつもりか⁉︎」

「違う! 待って、苦しいったら!」

 片腕で五郎の胸を押し返し、身を捩って距離を取ろうと図っても、五郎の腕力には敵わない。

「君も結局は僕のこと、女ひとり愛せない欠けた人間だと思ってたんだな!」

「そんなわけないだろう、話聞けよ!」

「君が幸せな初恋を得られたからってな、それを僕にまで押し付けるな!」

 幸せな初恋。その言葉に、千歳の裏拳が五郎のこめかみを打った。五郎はよろめいて、千歳の襟首を離すが、今度は千歳が雨の染みきった五郎の襟首を掴み寄せる。

「──僕の何が幸せなものか!」

 涙を流しながらも、するどく睨む。あの結末は、千歳が欠けた人間であるがゆえに導かれたものだ。唇はいまだに濡れた頬の柔らかさと、別れ際のただ一言を鮮明に憶えている。

「僕はもうあの子には会わない! 何も知らないくせに、他人の幸不幸を決め付けるな!」

 握り込む両の拳から、五郎の浅い息遣いが伝わる。燃えるような怒りは、今や代わって震えとなり、失望か苦悩か、悲しみに揺れる目が千歳を見下ろしていた。

 稲光りに千歳も我に返り、突き放すように手を離す。ひどい八つ当たりだ。弁明も謝罪もないうちに、理不尽に逆上する。雨とも涙とも分けられない流れが、うつむいた鼻先から落ち続けた。

「……すまない、もう帰る」

 五郎が雨音でほとんど聞こえない呟きを残し、千歳の傍らを抜けて、足速に歩み始める。千歳はとっさに追い駆けて、手で制し、前面に周った。

「ごめん、待って! なぁ、待ってったら! 五郎くん──」

 両腕を押さえられた五郎は足を留めざるをえないが、千歳とは目も合わせず、腕も払い除けると、声だけは極めて淡々と告げた。

「今の僕は冷静さを欠いているので、話しかけないでいただきたい」

「……ごめん、あの、あのさ」

「雨で聞こえなかった?」

 嫌味など言わないはずの五郎の低い声に、千歳は一歩後退る。初めて見る五郎の頑なな背中が遠ざかる。声を張り上げた。

「明日……また、謝らせて……! いい……?」

 五郎が足を止める。うつむいて、振り向きはしない。少しだけ身体を向けると、小さくうなずいた。五郎の影は、雨煙とその中を逃げ惑う人混みに溶けて、すぐに見えなくなった。

「いやぁ、中村さん、怒ってたねぇ。俺もちゃんと謝っとこ」

 啓之助が千歳の肩を叩いて歩みを促すので、脇腹に肘を入れた。

「君も僕に八つ当たりされたくなかったら、さっさと帰れ、馬鹿!」

 八つ当たりを残して、別宅まで四町の道程を走りきった。玄関へと続く路地の引き戸をすり抜ける。脚にはいまだ五郎の剣幕を前にした竦みが残っていた。また明日になれば、友人に戻れるだろうか。戻れなかったらと思うと怖くて、なお脚が震える。

 しかし、やはり五郎は冷静な人間だとも思う。冷静さを欠いているから今は話しかけるなと言えるのだから。また、そんな申し出をしても良いものなのかと、千歳には大きな驚きでもあった。

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