六、牛酪

 翌朝、南部による講座では、豚皮を使っての縫合練習が行われた。

 それぞれの文机には、まな板と切れ込みの入った豚皮が置かれる。その傍に、鉗子かんし鑷子せっしはさみが一丁ずつ。大小三本用意された針は、全て畳針のように湾曲したもので、裁縫が得意な千歳でも、初めて触る形だった。

「まずは、糸さ通す。おお、酒井くんは早いなぁ。器用なもんだ。佐久間くん、よく見んせぇ」

 隣を見れば、啓之助はすでにやる気をなくして左手の針と右手の糸を突つき合わしているだけだった。

「真面目にやれったら」

「やってるさぁ」

 小声で諌めても、啓之助には効かない。千歳は糸の通った針を机の下で啓之助へと渡した。啓之助も礼と共に、針三本と糸を千歳の手の中に押し付けた。

 斯波が終え、山崎が終え、尾形もなんとか終えたが、千歳の前に座る武田は身を屈め、細めた目から手許を離しながら、二本目の針通しに苦戦していた。

「武田くんは、目ぇのお悪いがよ?」

「はい。嫌なものですね、歳でしょう」

「わかる、俺も近頃、夕方さなっと、もっといけねぇ。酒井くん、代わりにやってくんせぇ」

「かたじけないね」

 武田が振り返って、針と糸を渡す。千歳はにべもなく一発で通して返した。歓声に少し気分が良くなった。

 右手には針を挟ませた鉗子かんしを持ち、左手の鑷子せっしで切り込みの片端を持ち上げながら、針を表皮に刺す。

「傷の深さが半寸なら、針さ傷の淵から半寸の位置に刺す。湾曲さ上手く使って針さ進めて、また傷の淵から半寸の位置に針先さ出す。結び目は男結び。傷の上さかかんねぇように、手前さ寄せっせい」

 布と皮膚とでは、あまりに都合が違う。針は皮下をまっすぐ進まないし、針の湾曲と縫いたい半径が必ずしも合わないことは難点だ。何より鉗子の先から針がずれたり、外れたりとひとつ結ぶだけでかなりの時間を要する。それを十目繰り返すのだ。

 さすがに経験者の斯波には負けたが、それでも、千歳は二番目の速さで縫合を終えた。

「ほぅ、縫い目も均一で悪くねぇ。次は左右の皮膚さズレの出ねぇよう注意しっせい。後半、右側が少し余ってる」

「はい、気を付けます」

 たしかに、切れ込みの左側は引き攣りが強く、反対に右側には余裕があった。

 縫合を外そうと鋏を手にしたところで、啓之助が糸が抜けたと針を寄越した。自分でやれと文句を言いつつ、糸を通して返す。啓之助はもう隠すつもりもないらしく、堂々と受け取った。

「どうも、ありがとう。やっぱり、裁縫出来ると上手だよなぁ。君、縫合は初めてでしょう?」

「まぁ、初めてだけど、勝手は全然違うよ。お裁縫の方がよっぽど簡単」

「酒井くんは、裁縫なんかやるんですか?」

 振り返った武田が、厳しい顔で尋ねる。目を凝らした強張りが解けていないだけなのだが、千歳は瞬時に説教の体勢に身構えて、手を膝に置く。

「は、はい。少しですが」

「男子が一体、なぜ。どうして、君は習おうと思ったんですか?」

「え、えーと……」

 男子ならば裁縫はしない。答えに窮する千歳に代わって、かったるそうな啓之助の声が答えた。

「俺、儒学者のそういうとこ、良くないと思うんですよね。炊事から自分の墓誌まで、自らの一生を自らの手で営んでこそ、真の文士でしょうに」

 助け舟のつもりだろうが、寄越されたのは泥舟だ。冷や汗を覚えた千歳は、武田が啓之助の名前を呼ぶのに被せて、その肩を小突いた。

「そう言うのなら、君、糸通しくらい自分でおやり。君の言うとおり、身に付けて無駄な技術はないんだから」

 針から垂れる糸を引き抜くと、啓之助の机上に落とした。わざとらしく息をついて再び鋏を手に取れば、武田も矛を収めて机に向き直る。さらに小さく息をつけば、フフンと鼻で笑う声がして、顔を挙げると、武田の隣に座る山崎が労いにうなずていた。千歳もしかめっ面で大きくうなずき返した。


 講座の後には、半月と少し延期された千歳の種痘が行われた。南部の手技を見学したいということで、受講生全員に囲まれての接種だった。

 左袖を肩まで捲り上げ、腕を文机に置く。机の向こうには、やじりのような鋭い先端が据えられた漆の棒を手にした南部が構える。

「この先端、見えっか? 溝があんだろ。牛痘の種さ溜めて、皮膚の奥さ押し込む。一、二の三、くれぇの我慢だ。ちいと痛いけんじょ、三つの嬢ちゃんだって受けてんだ。怖がることはねぇ。まあ、力抜いてろ」

 南部は笑って見せるが、千歳は緊張で引き攣った笑いしか返せない。念のため、腕を抑える役が斯波に言い付けられた。

「仙之介くん、怖いなら見てないほうが良い。頭預けてな」

 斯波は自らの肩を叩いて、千歳に頭を収めるよう促すが、千歳には見ていないほうが怖い。それに、やはり恥ずかしいので断った。

「大丈夫です。先生、お願いします」

「いいか? いくぞ、はい」

 鈍くも重い痛みが左上腕に刺さる。一瞬、跳ね上がった腕は斯波によって固く机に押さえ付けられる。すぐに針が抜かれて、紅に染めた包帯が巻かれていった。

「今日は風呂さ入んな。痒くても触んねぇこと。包帯は俺が替える。三日間は稽古も禁止だ。熱出ることもあっから、そんときは大人しくしっせい。熱がねぇなら、いつもと同じ生活さしてかまわねぇ」

「はい、ありがとうございました」

 終われば一瞬のことで、腕は少し痛んだが、熱も出ず、夜も良く眠れた。


 松本による滋養対策は、牛乳の飲用も挙げられており、壬生村のとある農家から借りてきた牝牛が厩舎の隅に繋がれることとなった。

 朝夕の搾乳は賄い方の仕事として割り振られ、さっそく乳搾りが行われた。しかし、せっかく桶一杯に集まった牛乳も、

「なんでそんな畜生の子ぉらが飲むもん、うちらが飲まへんとあかんのです?」

という巌を始め、六兵衛以外の賄い方全員が試飲を拒否した。昼食の粥膳に添えて医務室へと出しても、初めて口にする脂味や香りに、ほとんどはそのまま厨へと返却される。

「滋養のある言うてるやんか。鼻摘んででも飲まんかい、薬やで!」

 六兵衛はブツブツと文句を言ったが、自身もその味に旨さを感じられないことには違いない。そこで、美味しい牛乳の摂り方を調べてくるようにと、千歳には牛乳の桶と共に任務が与えられた。

 千歳は厨の隅でひとり、恐々と杓に牛乳をすくった。生き血を飲まされる思いがしたが、自分も赤子のころは母の乳を飲んでいたのだと自らを奮い立たせ、口に入れる。

 たしかに美味しくはない。我慢すれば飲めなくはないが、舌に残るざらつきと、鼻に抜ける脂味の臭いが気になる。薄めればマシになるかと思うが、そうなれば必然、滋養も薄まる。

 まずは脂をどうにかしようと、井戸水で冷やし、上に浮かんできたものを取り除いて、さらに布巾で漉してみた。冷たい口当たりでいくらかは飲みやすいが、病人に与えるとなると、やはり温めるべきだろう。火にかけてみると、せっかく減じた脂臭さが再び出てきてしまった。

 飛鳥の昔、乳戸ちちべという牛乳を献上する部民があり、また蘇や醍醐と呼ばれる乳製品が作られていたことを思い出す。確かに何かの注釈本で読んだが、書名がわからずに伊東を訪ねた。

「蘇、ですか。乳を煮詰めるんですよね、たしか。乳戸なら格式きゃくしきに関わることので、『延喜式えんぎしき』でしょうか。書庫にありますよ。いずれにしても、醍醐の作り方は失伝していたはずですが」

 書庫に行って『延喜式』を確認しても、確かに、蘇とは牛乳を煮詰めて十分の一の量にしたものとのみ記述があった。

 試しに、夕食の支度に取り掛かる厨の竈門をひとつ借りて、大鍋に半升の牛乳を入れて半合程度になるまで煮詰めてみた。どろっとした個体の浮かぶ重めの液体が出来て、一口飲んでみるが一層美味しくない。脂臭さがこれでもかと濃縮されているのだ。

 良薬は口に苦いものだと、我慢させて飲ませるべきか。しかし、六兵衛からの指示は、美味しい牛乳の摂食法だ。蘇は効率良く多くの乳を飲めるが、美味しくなければ意味がない。

 薬として飲まれるのだから、元医師の武田なら何か良い調理法を知っているかもしれない。尋ねてみれば、牛酪ぎゅうらくという蘇をさらに煮詰めた菓子を教えられた。

「砂糖を入れるので、食べやすくなって、滋養も高まります。しかし、その分、焦げやすくなりますから、作るときには注意が必要です」

「わかりました、やってみます」

「そうだ、島田くんには何かお尋ねしましたか? 彼は大食漢ですからね、何かしら珍しい乳の品も食べたことがあるかと思いますよ」

 というわけで、観察部屋へと身の丈六尺の島田を尋ねる。島田は腕を組み考えを巡らせると、ハッと顔を挙げた。

「カステラが良い。カステラは普通、玉子と砂糖とうどん粉で作るもんだが、横浜の偉人街で食べたのは、そこにさらに牛の乳が入っていたみたいでな。──分量? さすがに、それはわからん。あ、斯波くんなら知っとるかもしれんぞ、あれだけの博識だ」

 文学師範部屋で講義の準備に励む斯波を訪ねたが、しかし、笑って返された。

「知るわけないだろう、カステラの作り方なんて!」

「まぁ、そうですよね」

「だけど、島田さんが言ってるのは、きっとpoundcakeパウンドケーク だな。それなら、分量は一斤ずつだ。牛乳じゃなくて、butterバター を使う」

「バタァ、も、酪のようなものですか?」

「そうだな、脂の塊りでとにかく滋養がある」

「作り方とかは」

「あー……搾った乳を、撹拌する。……うん、南部先生にお聞きしよう、明日」

 隊内の識者を廻った結果、ひとまずは牛酪なる菓子を作ってみることにした。厨の竈門は全て夕食の煮炊きに使われていたので、七輪に炭をもらい、赤らみ始めた夏空の下、土鍋をかき混ぜ続けた。

 一時ほどをかけて、桝三杯の牛乳は、掌に乗る程度の小さな饅頭になった。味見に欠片をかじってみると、甘味と程よい塩味が汗だくの身に沁みる。おいしいと言って良い。これなら、たとえ味が気に入らなくても小さく丸めて飲み込んでしまえる。

 六兵衛へと勇んで持ち行けば、満面の笑みで合格が与えられ、褒美にと来客用の羊羹が一切れ、棚から下ろされた。夕食後、五郎を茶室へと呼び付け、抹茶を点ててもらうと、ふたりで半切れずつ食べた。


 翌朝の講座では縫合の復習の後にバターの作り方が教えられた。生乳を冷やして、表面に浮かんだ脂肪分を掬い、木桶の中でひたすらにかき混ぜて、脂肪を結合させる。それを練って、成形するのだが。

「全っ然、固まりませんね……」

「腕疲れた、お仙くん交代!」

 月初めで仕事の少ない勘定方の昼前を費やしてかき混ぜ続け、なんとか作り上げたバターは、あまりに労力がかかるわりに量が取れないということで、常の調理としては行わないことになった。

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