五、殺生

 大坂から豚が届けられた日の夕方、厩舎に並ぶ新たな豚小屋の前には見物の隊士が溢れていた。

 赤みの差した白い肌、潰れて上を向いた鼻。十頭中の七頭は仔豚に近く、愛くるしい顔をして、かわいいと銘々に声を挙げる成人男子の人垣を見上げる。雄と雌は柵で分けられていて、やはり雌の方がよりかわいいとの意見だった。

 しばらくは肥育のため育てるが、一頭の雄は明日、南部の指導の下、屠殺から解体、精肉まで行うことになる。

「こんなにかわいいのに……」

 思わず千歳が漏らした声に、五郎も深く頷く。

「君、絶対名前なんか付けちゃダメだぞ」

「付けない、さ……うわぁ、なんで屠殺まで勘定方の仕事なのかなぁー! 逆さ吊りにして、首から放血するんだよ? 放血なんて言葉、初めて聞いたよ!」

 すでに今朝の講座で解体の方法が教え込まれている。千歳が思い出した身震いに手を擦り合わせれば、五郎も合掌して返す。

「南無阿弥陀仏。感謝していただきます。そして、仙之介くん、君たちのおかげで、僕らは滋養ある食事を摂れる。感謝してます」

「僕も、僕だって感謝する側だけでいたかったよ!」

 五郎の合掌を手で払ったが、その八つ当たりこそが自身の身勝手をよく表していると思い知らされて、千歳は両手で顔を覆った。

「……僕ってやっぱり狡い奴だよな、こういうところだよ、本当。自分の手は汚したくない、だけど、美味しいものだけ食べたいって」

「みんな、できたらそうしたいよ。だからこそ、かわいい子には旅をさせろと言うんじゃない? 自ら苦労に飛び込める人ばかりじゃないから」

「……そうだけど」

 千歳は柵から手を伸ばして、仔豚の弾力ある温かな背を撫でた。


 心構えなどまるで出来ないうちに、夜は明ける。医術講座の一同は稽古着に身を包み、南部によって小屋から連れ出される一番肥えた雄豚を取り囲んだ。千歳はすでに涙を堪えられず天を仰いでいるし、啓之助は千歳を慰める余裕もなく、組んだ手を忙しなく組み替えて落ち着きがない。斯波など、慣れているかと思いきや、青い顔をして一番離れて立っていた。山崎が小さな声で気遣う。

「斯波くん、なぁ、どうもあれへんか?」

「はい、ええ」

 斯波の声に張りはない。昨日の講座後、斯波は医学所を辞めた理由をこぼした。蘭学自体よりも、実際の商売に興味があったことも大きいが、血を見ることへの耐性がどうしても付かなかったのだ。

「南部先生も言うてはったけど、アカンなったら、座りやぁ? 始まったら、構うてられへんさかい」

「ええ」

 緊張は却って良くないと武田が言い、尾形が斯波の背をさするうちに、南部が厚い刃を備えた長柄の斧を地面に突き立てて、声を上げる。

「んだ、始めん前に念仏唱えっぞ。案じんな、ここは仏の庭だ。豚さもきっと往生なさる。はい、合掌。南無阿弥陀仏」

 十回の合唱がなされ、屠殺が始まった。雄豚も自らの運命を悟ったのか、凄まじい叫び声を挙げて暴れ、逃れようとする。斯波と尾形、山崎の三人がかりで押さえ付けて、武田が斧を峰打ちに構え、狙いを定める。

 千歳はその瞬間を見られなかった。最後の一声を弱々しく挙げて、雄豚の身体は地面に崩れ落ちた。それでもしばらくは、手足を震えさせていた。

 放血は二刻かけて行うために、その間に医務室での診療と朝食後、文学師範部屋にて解体作業の復習が挟まれる。千歳はとても朝食を食べる気になれず、早々に部屋へ赴くと文机を並べて、一番後ろの席に座った。

 机に重ねた手の甲に頬を乗せる。鮮血とその臭いは、否応なしに様々な記憶を呼び覚ましていた。

 すぐに斯波もやってきて、千歳の前の席に座った。顔を挙げない千歳の元結に、斯波の手が置かれる。千歳は頭を軽く揺らして、自ら撫でられた。敬助が偲ばれて、なおのこと息は詰まる。

「大丈夫?」

「はい。……先生こそ、平気ですか?」

「はは、心配かけてすまないね」

 千歳は小さく首を振ったのみで、斯波の稽古着に挿さる脇差の青い下緒の紐を見ていた。

「生命、感じると気が重くなります……でも、あの豚さんにだけ殊更祈るのも、僕、上辺だけな人間だって思いますし……」

「よくわかるさ。普段は生死なんか考えずに生きていられるんだからな。生死は表裏だ。だけど、死は身近に感じたくはないから、日常から遠ざける。すると、必然、生に対する実感や思考まで遠ざかる。ある意味、近代人の贅沢でもあるな、この悩みは」

「贅沢な悩みですか?」

「生死を考えずに平和な日々を送れている証ではないか? 戦さ世とか飢饉の貧村とかに生まれたら、死は明日の我が身に起こりうる事実だ」

「そっか、そうですね。うん……僕も死を自身に及ばざるものとして生きていたいのに、時々、避けきれなくて、目の前に突き付けられて……死を覚悟していない僕には、あまりに辛い」

「いっそお隣さんに駆け込んで、出家してしまおうか? 生臭坊主がふたり増えるだけだろうが」

「ふふ、そうですね。どうせ霞を食っては生きていけません」

 後半の解体作業は、千歳も大人たちの後ろに隠れていることは出来ない。賄い方と共に水を掛けては体表の汚れを擦り落として、四肢から肉を削ぎ、骨皮と分かつ。赤肉は両手に抱えるほどのたらい三つに山形に積まれた。皮は縫合の練習に使うため、千歳と啓之助には豚皮の毛抜きと洗浄の仕事が与えられた。

 井戸の側では、簡易な調理台と石の竈門が組まれ、賄い方が調理指導を受ける。初めて触れる豚の赤身に六兵衛は興味と興奮を抑えられない様子で包丁を入れていくが、他の賄い方の面々は恐れをなして、六兵衛の肩越しに覗くだけだった。

 鍋からは生姜と砂糖醤油の甘い香りが立ち始めた。

「生姜と酒はたっぷり入れっせい。臭み消しになる。熱しすぎると肉は硬くなる。程々が良いが生はいけねぇ、腹さ下す。加減さ重要だ」

「へぇ。先生、例えばですがね、葱や、今の季節、茗荷添えても美味しゅうございましょうかぁ?」

「んだんだ、旨ぇぞ!」

「なんや、お豆腐のよな使い方でよろしいんですかなぁ。南瓜さんと炊いたり、焼いて餡かけてみたり」

 六兵衛は次々と新たな料理の構想を練っていく。千歳たちが皮を洗い終え、まな板の上の晒し布に並べるころには、早くも豚の甘露煮は出来上がり、試食会となった。千歳は塩水で手を洗わないうちは何にも触れられない気がして、斯波と共に人垣の後ろに並び立ち、眺めているだけだった。

 甘く煮絡めた豚肉は、想像以上に柔らかく旨味があるらしく、青い顔で箸を口に運んだ面々が次第に顔色を良くしていった。南部も満足そうに笑う。

「美味いだろう。滋養も満点で、捨てるところもねぇ。よく育ててやりなさい」

 昼食に出された豚御膳に隊士たちは悲鳴を挙げたが、口にしてみればやはり美味いらしい。五郎と啓之助は、今度はどんな調理法で豚肉が出るか楽しみだと語り合っていた。

 しかし、それでも、獣肉を受け付けられない者は一定数いて、彼らには通常どおり、汁と漬物が出された。千歳の膳も二、三口分の麦飯に、椀半分の味噌汁で、そこに歳三からの茹で玉子がひとつ付いているとはいえ、なお彼らより食べ終わるのは遅かった。

「仙之介くん、大丈夫? この後、沖田先生と稽古って言ってなかった?」

「うん、大丈夫。むしろ、今日は何も考えない方がいいから、ありがたいかも。あ、稽古着貸してくれますか? 僕の……」

 医学講座一同の稽古着は、蔵の隣に並べて干されていた。


 一月振りの総司との稽古は、互いに少し固い挨拶で始まった。ほとんど屯所から出ずに過ごした身体は鈍り、十分に食べていないために力は入らない。四半刻も経たず、千歳は数多の打ち込みを受け続けるだけになっていた。

「下がるな、攻めろ! 真っ向から受けてちゃ、抑え込まれるだけだ!」

 籠手への打ち込みを剣先で払い、踏み込んで籠手を狙うが、そのまま胴を打たれるし、一本にもならない。

「気組が甘い! 構え!」

 間合いを取らされる。腰を落とし、一分の隙もない青眼に構えた総司は、もう一本と号令すると同時に、

「殺すつもりで来い!」

と発破をかけた。

 稽古にてよく使われる文言だ。斬り合いになれば、求められるのは竹刀稽古で一本と見做される軽い撃ち込みではなく、一撃で相手を無力化できるだけの一本なのだ。

 ここは新撰組で、新撰組の使命は日々の巡察と有事の従軍。そこに殺生が生じざるをえないこと自体に疑問を挟んではいない。

 けれども、人を殺すとはどういう心構えをすれば良いのだろう。あの雄豚のように逃れようとする生命に対して、南無阿弥陀仏と唱えながら振り下ろせば良いのか。違うと思う。あの秋雨の夜、総司は一体、自分自身に何を言い聞かせたのか。それから、何を考えているのか。

 構えが解けて、怪訝を見せる総司の目に問う。

「殺すとき、どんな気持ちなんですか……?」

 総司の身体全体が強張りを見せて、剣先が落ちる。沈黙の末に口を開いた顔は、泣きそうにも見えた。

「君は……剣術やってて、楽しい?」

「はい、楽しいと思います」

「だけど、この先、隊士にはならないつもり?」

「……はい、なりません」

「そっか」

 何度か瞬きして、再び総司が竹刀を正眼に構える。千歳も剣先を併せ、気組を整える。

「うん、そう。気組を乗せるんだ。一振ずつを捨てない」

「はい」

 悩みなど何もないように見えた総司にも、内奥に抱えているものはあるのだと知った。剣を愛するまま生きてきたこの男が、気付いたら、剣を愛するだけでは生きていられない立場になっていた。

 稽古を終えて、千歳は防具を片付けると、もう少し剣を振っていくと道場の隅に残った総司の許へと近付いた。

「何?」

 総司が素振りの手を留めず、宙を睨んだままに尋ねた。

「あの……先日は、申し訳ありませんでした」

「もういい。だけど、お友達には優しくしたほうがいいよ」

「はい、そうします。あの──」

 総司は何のために剣を振るのか。尋ねようとして、止めた。今の総司には迷いが見える。尋ねるべき時は、今ではないと思った。

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