四、花散る

 給与日を無事に迎えて、午後は半休となるはずの勘定方は、豚の買い付けと深雪太夫の身請けのために、千歳を残して大坂へと下っていった。

 翌日の夕方、千歳は調度品や薪炭の支度が万端になされた醒ヶ井新宅にて、女中のきよと出迎えの用意をしながら、一行の到着を待った。

「ご寮さん、べっぴんさんなんやてなぁ。新町で一番や聞いてますえ。ほんに、近藤先生……ああ、嫌やわぁ、もう旦那はんやなぁ。ご立派な方やわ」

 湯を沸かしながら、清はよくしゃべった。不惑を過ぎた年、清という名の女中。千歳は明練堂にいた下女を懐かしく思い出していた。

「お清さん、僕、二階の雨戸だけ先に閉めてきますね」

「へぇ、お願いさんです。やぁ、今日だけほんに晴れて、良え日ぃやなぁ」

 梅雨の晴れ間が、坪庭の東の壁を赤く染める。もうじきに、尾形たちが深雪を連れてくるはずだ。戸袋に手を入れて雨戸を引き出すうちに、前庭の塀の向こう、道の先から駕籠かきの声が聞こえた。身を乗り出して目を凝らせば、駕籠かきを先導する啓之助が千歳に気付き、手を振って合図した。

 清と共に門前に並ぶ。駕籠が下され、千歳は頭を下げた。駕籠かきによって揃えられた草履に、小さな足が乗せられ、甘い香りと共に深雪が立ち上がる。挨拶を述べようと顔を上げた千歳は、深雪の深い眼差しに言葉を失った。

 細く長い首から富士額まで、薄く施された白粉。口紅は艶やかに、眉は柳に引かれ、儚げな印象でありながら、美人薄命とは似つかわしくない。瞳と虹彩との境もわからないほど黒い目が、千歳を強く惹きつけて離さなかった。

 深雪を見つめて固まった千歳の横から、斯波が出て来て礼をした。

「長い道中でございました、ゆっくりとお休みください」

 奥へ連れるよう、清に手で示す。深雪は清に手を引かれ、残り香と共に静かに敷居を越した。斯波が振り返り、フッと鼻で笑った。

「君も美人に見惚れるくらいには、男だな」

「な、別に……!」

「やぁ、きれいな人だな、はっはっは!」

 顔を赤くして立ちつくす千歳の頭を軽く撫でると、斯波は尾形と共に駕籠の支払いに応じる。啓之助がニヤニヤと笑って、中に入るよう千歳の背中を押した。千歳は額の傷痕が脈打って痛むような気がした。

 薄暗い部屋の中で、深雪は微動だにせず座っていた。揺るぎなく美しい横顔は人形に勝るとも劣らない。長船に結った髷は、後ろから若紫色の手絡がのぞき、前髪飾りの白い丈長からも瑞々しさが匂う。圧倒するほどの気品に、千歳は話しかけられはしなかった。

 清が座敷へ顔を出して、ご寮はんと呼んだ。

「お茶ですねんけど、濃いんと薄いんと、どちらがよろしおすか?」

 深雪は黙ったまま、わずかに首を傾げた。浮き立つ首の筋まで、細く儚げで美しい。

 清は深雪の答えを待たず、

「こないに暑おすし、薄う作っときましょか。ほんに、暑い暑い……」

と早口に言って、また戻って行った。

 お茶を飲んでも、邸内を案内しても、千歳は深雪の声を聞くことは叶わなかった。二階の衣装部屋へ案内したとき、体調でも悪いのかと尋ねたが、深雪は静かに首を振るだけだった。行灯に照らされて、底知れぬ深い目と顔に落ちる陰影とが一層、深雪を美しく見せた。


(だけど、きれいなだけ……)

 新宅を辞して、千歳は日暮れの堀川通を上る。深雪の目に、未だ見つめられているような心地がした。

(きれいなだけで、あの目の奥には何もないでしょう? したいことも、欲しいものも。そんなの、つまらない……)

 けれども、強く惹かれる自分を否定できない。否、つまらないと否定していなければ、なす術もなく引き込まれてしまう。あの人の声は。あの人は何に笑顔を見せるのか。

 本願寺の前庭には、夜の巡察に集合し始めた井上班が数人おり、その中に五郎もいた。近寄って、五郎に自身の目を見るように言う。

「何? 睨めっこ?」

「いいから」

 昨秋よりも少し高い位置にある目が、千歳を見た。不思議が戸惑いに変わり、次第に照れが現れる。

 このように、普通なら人の目には何かを訴える力や、相手へと向かう気組があるはずなのだ。深雪には出で来るはずのものがないから、反対に人の気を吸い込んでいくのかもしれない。だから、千歳が引き込まれたとしても道理なのだ。ひとりで納得をしていると、五郎が降参を示し、顔を背けた。

「もういいだろう? なんなんだよ、もう!」

「目は口程にものを言うってのを確かめたかったのさ」

「君の目からは、何が言いたいのかさっぱり読み取れなかったけどね!」

 五郎が千歳に背を向けたまま訴えた。側で見ていた加納がからかう。

「わかんないものかね? 俺にはわかるぞ。酒井くんの熱ーい気持ち」

「加納さん、やめてくださいよ」

「この前、ちゅうしてたって」

「し、してないですったら!」

 相変わらず、五郎はからかわれることに弱い。千歳は呆れた息を吐いたのみで特に助け舟も出さず、一団から離れて書院棟の裏玄関へと向かった。

 身が入らないまま、長い廊下の雨戸を閉めていく。なぜ自分は、女に美を見出すのだろう。自分では美しい娘になれないから、せめて見ていたいと思うのか。それなら、まだ説明が付く。しかし──

 君菊の顔が浮かび来る。たしかに、君菊は美人だ。笑うとかわいらしいし、通りのいい声は耳に心地良い。とはいえ、それゆえに好きになったわけではない。文面に現れる素直な人柄ゆえだ。文を重ねる内に、親しみが愛しさに変わり、恋うるようになっただけだ。

「純粋に、愛してるもん……」

(──触れたいと思ったくせにな)

 鋭い声が頭の中に響く。翡翠の玉かんざしを挿してやったあの日、千歳は丸い頬に指先を添わせたいと思った。細い背中を抱き締めたいと思った。この欲の根源が何かを考えれば、言い訳できない。自身はやはり、道理に適わぬ存在なのだ。

 ため息を打ち消すように、雨戸を押し出した。重い戸板は、蝋が塗り込まれた敷居を滑り、反対側の柱の側まで流れた。


 将軍と守護職たちが下坂し、膳所城事件の始末もほとんど着いて、歳三による外出禁止令も一応は解かれたころ。近藤から上七軒での宴席の予約を託されて、千歳は蝉のやかましく鳴く千本通を上った。一月振りの自由な一人歩きだが、しかし、その足取りは重い。

 君菊には会いたくないが、最後に一目見たいとも思ってしまう。桔梗屋へと出向き、早々に要件を告げ終えると、嶋田屋に続く小路の辻をひとつ越えて、店先に提げられた赤い提灯の陰に隠れながら道を眺めた。

 三味線の箱を抱えた舞妓の集団が千歳の眼前を行き過ぎる。笑い合い、おしゃべりに興じ。二、三年のうちに芸妓になるのだろう。

 啓之助曰く、歳三は君菊を千歳の女友達として与えたがっている。余計な気遣いだ。君菊との関係は友情などではないというのに。

 もし本当に共に暮らすことになったら、君菊が好いた優しく気をかけてくれる仙之介ではなく、わがままで性格の悪い千歳として、寝食を共にすることになる。自身の正体も、生い立ちも、歳三への態度も知られる。

 それは嫌だ。せめて、仙之介とのことは、幼い日の若い恋愛として思い出に残ってほしい。君菊もそのうちに、歳三による身請け話も流れて、一人前の芸妓になって、誰か良い男と恋をするのだ。そこで得られる幸せを、心から祈りたい。

(帰ろう……)

 店先から踏み出したとき。

「──仙之介はん!」

 振り向かなくてもわかる、高く澄んだ声。この二月間、耳に浮かぶたびに打ち消してきた声だ。堪えきれずに、店の傍から延びる路地に駆け込んだ。

「待って、仙之介はん! お願い!」

 泣きそうな声で背中に呼びかけられては、千歳は振り切れない。脚は留まり、けれども振り向けず、黒い板壁の続く小路の真ん中に立ち尽くした。

「なぁ、なぁ……? こっち向いてや、仙之介はん……!」

 下駄の足音が、じりと寄り来るたびに、千歳の目は固く閉じられ、拳は握り込まれた。振り向いたら、泣いてしまう。

「仙之介はん……これ、返した方が良え……?」

 衣摺れの音と共に、手が差し出されている。翡翠のかんざしが握られているのだろう。戦慄きを抑えきれない声で返した。

「嫌なら、捨てて……」

「捨てれるわけ、ないやん……! うち、ほんに仙之介はんのこと──」

 千歳にも、自分が何をしているのか、わからなかった。振り返って、かんざしを握り込む両手を捕らえ、引き寄せると、君菊の濡れた熱い頬に口付けをしていた。涙が塩辛い。

 短い息を繰り返し、震える君菊の目を見れないままに、背を向けた。

「ごめん、もう会わない」

 一里の道をどう帰ったかも覚えていない。衝動を抑えられない自分は、初恋までも取り返しのつかないほど粉々に砕いてしまう。


 執務室へと帰営の挨拶をして退出しようとすると、近藤が思い出したような声を挙げて、千歳を呼び止めた。八木邸の仔猫を一匹、醒ヶ井の別宅で飼いたいとの依頼だった。

「お雪とは、初めの日に会っているだろう? あのとおり無口な女で、私もなかなか気を晴らしてやれないから、猫でもいれば慰みになるかと思ってだね」

「わかりました。では、明日にでも」

「うん、頼んだ。ところで、大丈夫か? 目が赤いが……」

「あ、はい。さっき、目の中に小さな虫が入って来まして」

 戯けた笑顔で返して、部屋を出た。

 翌朝、久々に八木邸を訪れて、竹輪の子どもの中で一番大人しい三毛猫を小さな行李に入れた。醒ヶ井宅を訪ねると、深雪は相変わらず何をするでもなく雨の中庭を眺めていた。藍の浴衣に生成の帯を緩く締めて、柔らかな腰を崩す。

 千歳は清によるお茶と菓子は何が良いかとの質問を断りながら、座敷へと上がり、深雪の側に座った。驚きも不思議もない深雪の目が千歳を見る。脈動に声が揺らされないように、ゆっくり息を吸った。

「ごめんください、突然に。局長より依頼を受けました。このお屋敷で猫を飼いたいと」

 深雪の目が千歳の膝前に置かれた風呂敷包に移る。風呂敷を解き、行李を開けると、古布に包まった仔猫が深雪を見上げて、小さく鳴いた。深雪の口許が緩み、お歯黒が覗く。白い指が差し出される。

「あ、あの……ご寮さん、猫は、お好きでしたか?」

 深雪の目が千歳を捕らえた。真闇の目は、深々と積もる雪の冷たさから、日を照り返す芙蓉へと変わって、千歳を見つめる。

「……飼うてもよろしいの?」

 高く細い声は、想像よりも少し掠れていたが、ゆったりとした甘みをもって千歳の耳に響く。近藤が深雪を愛する理由の一端を垣間見た気がして、胸の騒めきはなお背徳の気色を強める。

 翌日も、仔猫の様子見と世話を理由に、醒ヶ井宅を訪れていた。コウと名付けられた三毛猫は、深雪によく懐いていた。千歳は清による止めどない世間話を聞き流しながら、コウを撫でる深雪の横顔を眺めた。時折、紅の唇から染め上げたお歯黒が見える。コウを呼ぶ高く甘い声。薫香。

 心は、結局、思うようにならないと突き付けられている気がした。君菊を失った穴を埋めたがっているだけとも思うし、しかし、そうでなくても深雪はやはり美しいとも思う。

 浮わついた心のまま帰営し、そのまま書庫へと籠った。文学師範部屋の続き、六畳一間の小部屋には、いくつも並ぶ肩ほどの棚が各分野ごとに島を作る。千歳は適当に新古今の注釈本を取り、狭い通路に座って開いた。

 目は文字を追うが、頭には全く刻まれない。もうすぐ種痘を受けるので滋養を付けなくてはいけないというのに、食欲はますます落ちる一方だった。

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