三、種痘

 集会堂の西端には襖と畳が備えられた病室が新たに作られ、毎朝、松本の弟子で会津藩医でもある南部精一郎が派遣されて診察が行われた。診察後には文学師範部屋にて、医学の講習が行われる。初回は包帯術の講習だった。

「締め付けすぎたら血流さ妨げる、だけんじょ、緩すぎたら解けてくっし、傷口も開く。塩梅よく締めることさ、包帯術ヘルバンの要だ。ほう、武田くんは流石に上手だ」

「お恥ずかしい、昔取りたる杵柄です」

 元医師の武田は、これまた元鍼師の山崎と組み、その前腕に緩みなく包帯を巻く。見本のような出来栄えに比べて、千歳が啓之助に施す包帯は、ヨレて下部に隙間が生じている。

「お仙くん、君は器用だと思ってたのに」

「ごめんって。待って、もう一回やるから」

 隣の斯波尾形組を見れば、斯波は腕を差し出しながら、意外と不器用な尾形へと巻き方を指導している。帯と同じく下側を少しばかりキツめに巻くことがコツらしい。なるほど、と千歳も倣ってみれば、少なくとも隙間が生じることはなく結べた。

包帯巻きへルバン良しクラー

「うん、良しクラー。じゃあ交代」

 今度は千歳が袖を捲り、啓之助によって施術がなされる。圧迫が強い気がするが器用なもので、千歳の半分の速さで結び終えた。

「はい、良しクラー

「お上手だけど、キツいです」

「そう? 脈は──うん、取れてるから問題ないと思うけど。まぁ、もう一回やるよ」

 片カギの結び目を勢いよく引っ張って解くので、傷口があったら響くだろうと千歳は文句を付ける。

「君、医者になるのは嫌って言ってたけど、たしかに向いてないかもね、雑だから。器用なはずなんだけどな」

「そう、雑なんだよね。頑張れば丁寧に出来るけどさ、頑張らなくても出来る人に任せたいでしょ? 患者の身としては」

 再び手首から包帯が巻き上げられていく。先程よりは、少しばかりゆっくりとした手付きだった。その途中、急に啓之助が手を止めたかと思えば、千歳の袖を上腕まで捲り上げた。

「え、ちょっと、何さ」

「君、種痘してないの?」

「ああ、うん」

 天然痘の予防接種である種痘は、千歳の生まれた前後から広まり始めていたが、西洋の文物に対する偏見や、娘の身体に傷痕が残ることへの嫌悪、さらには受けると牛になるとの噂もあって、すぐには広まらなかったのだ。

「兵馬先生、わりと攘夷の意気が強かったからね」

「えー、今からでもしといたほうが良いよ。防げる病で死ぬなんて、もったいないにもほどがあるでしょ?」

「君はしてる?」

「もちろん。──はい、出来た。しかも、俺が松代第一号。父さん、種痘広めるの頑張ったんだ」

「佐久間くんは小せぇころ、種痘の痕さ見せて回ってたそうだな。先生、嬉しかったみてぇだ、何度も話してらったぜ」

 南部が啓之助の出来栄えを見ながら、膨よかな白い頬を緩ませた。南部は木屋町に診療所を構えており、佐久間家とは元より交流がある。

 しかし、思い出話に啓之助は不服顔だった。

「何度もってことはないでしょう、あの『同じことを二度言わすな』親父が」

「いいやぁ、何度もさ。ははは。でだ、酒井くん、佐久間くんさ言うとおり、受けるんなら早い方が良い。明日ん朝でも、皆に手技さ見せがてら、施術さしてやろう。あとで、先生にもお話さしておく」

 成り行きで決まった千歳の種痘接種だが、歳三が千歳の体調を案じたために、半月ほど様子を見てからと予定は延期となった。


 昼食後、千歳は空き時間の五郎を捕まえると、左腕を出させて、包帯術の練習を繰り返した。

「斯波先生の包帯術ヘルバン、すごいんだよ。素早いのに、ぴちっときれいに巻かれるんだ」

「さすが、元蘭学塾生。あれ、もしかして、その『ヘルバン』の『バ』も、発音としてはV音だったりする?」

「いや、それはB音で合ってる。ただ、語頭は『へ』じゃなくて『フェ』なんだよ。F音で、verbandフェルバント

 五郎は左腕を練習台に差し出したまま、先日、斯波から教わった正しいFの構音を作るべく下唇を噛みながら息を吐く。

「Fh……、Fh……、これで良いの?」

「うん、F音。出来てると思う」

「これさ、発音の中で作るの大変すぎない? Give me some food」

「あー、ギ me some フゥド になってますね。B音と、普通のフの音ですね」

「よく聞き分けられるよね。僕、自分で言ってても、同じにしか聞こえないんだけど」

「えぇ? よく聴いてよ」

 千歳は何故かブヨブヨと端が浮いてしまった包帯巻きを、首を傾げながら解きつつ、唇を突き出して蝋燭を吹き消す音を立てる。

「フゥ…… フゥ…… フゥ……、これは聞き慣れたフの音だ。だけど、F音。Fh……Fh……Fh……、ほら、こっちは掠れた音が掛かってくるだろ? Fh……」

「あー、はい」

「だから、まずはフの音の唇を作る」

 向かい合い、二人して唇を尖らしたところ、通りがかりの藤堂が、

「何なに? ちゅうの練習?」

と揶揄ったが、千歳は聞こえていないものとして処理をした。相変わらず顔を赤らめてまごつく五郎に、包帯をキツく縛り付けて気を戻させる。

「そのフゥの息を、上唇はそのまま、下唇だけで一瞬塞ぐ。Fh……と。そこに母音が乗ったら、Food。Photography、festival。包帯ヘルバンverbandフェルバント。な?」

「な、って言われてもなぁ」

 いまだに耳の赤みが引かない五郎は、帳面で顔を扇ぎながら、言われたとおりに発音練習を続けた。

 その間に、千歳の包帯術の復習も手首に進んでいく。どうも、手の中で包帯を持ち替えるときに、力が緩みやすい。均一な力で引っ張り続けると、浮きや緩みが出にくいことがわかってきた。

verbandフェルバント, klaarクラー. よし」

「クラーってのは?」

「完了。えーと、clearクリヤー だな」

「フゥ、ェルバンツ、クラーで包帯完了か。ね、他に何か蘭語は習った?」

Good morningグッドモーニング, Misterミスター. は、Goedemorgen,グフテンモルゲン meesterメィスタ.」

「メィスタ、か。なるほど、メィスタ酒井」

「うむ。では、次は上腕を貸したまえ、メィスタ中村」

 千歳が大仰に頷けば、五郎も笑いながら左腕を捲り上げる。肩下、筋肉の盛り上がった表面に、いびつに丸い傷痕があった。

「これ、種痘?」

「うん。七歳だったかな。藩校に上がるのに、受けた証明書が必要なんだ」

「へぇ、奉公上がるのに必要だったりするって聞いたことあるけど、学校でもか」

「珍しいかもね。君は受けてる?」

「ううん。だから今度、受けることになった。いやぁ、これは痛いよなぁ、結構深そうだもん」

 千歳は恐々と傷痕を突つくと、覆い隠すように包帯を巻いていった。

「こういうの見ると、親の愛を感じる。あ、別に受けさせなかったら愛してないってことじゃないけどさ。幼い我が子には、少しだって痛い思いさせたくないじゃないの。それでも、痘瘡とうそうで死ぬよりはって」

「そうだね、たしかにありがたいことだ。ふふ、僕は受けたくなくて、父上にしがみ付いて引き剥がすのに苦労したって。自分じゃ覚えてないけど、何度も聞かされたよ」

「ははは、そっか。君、小さいころから嫌となれば断固拒否してそう」

「そう、将棋で負けたなら、勝つまで岩のように動かないから、延々相手させられるお祖父さまが、この子は岩丸とでも改名させなさいって言ってさ」

「本当はなんていったの?」

「五人目だから五郎と名付けるような一族だからね、適当なものだよ。酉年生まれの鶴丸。同い年には何人もいたよ、鶴ちゃん。えっと、君は千歳だっけ?」

「え、なんで知ってんの……?」

 他にも何か知られているのか。思わず包帯を握る手に力が入るが、五郎は何事もない様子で返す。

「三木さんから聞いた。昔お世話になってたお寺さんから、お文が下されたんだってね」

 ひとりに知られたことは、隊全体に知れ渡るものだと覚悟した方がいいらしい。なおのこと、千歳の生い立ちは秘匿しなくてはいけない。

 何事もない風を装って応える。

「母さまの菩提寺さんがね、その、法要のこととか、お報せくださって。こっちに来てから仙之介って名乗ってることは、知らなかったみたいだからさ」

「そっか。千歳、千歳丸。僕のご先祖さま、義経公の遺児の、ご幼名を千歳丸といわれたんだよね。大成する名前だよ」

「大成するといいね、あやかりたいよ」

 大きく頷いて、手許に視線を戻した。

 志都には聞いたこともなかったが、千歳はなぜ千歳と名付けられたのだろうか。歳三と千歳とは名前に「歳」の字を共有しているが、せめてもの親子の繋がりを持たせたかったのだろうか。


 種痘までの間、歳三からは、滋養を付けるようにと、一日一個食べるように藁に巻かれた玉子の束を渡され、副長居室の棚には、胡桃や豆菓子の詰まった木箱が置かれた。

 初めの三日は大人しく食べていたが、川瀬夫人の死去を聞いた日には何も口にする気になれなかった。しかし、玉子が減っていなければ歳三の小言が飛んでくると予見されるので、五郎と啓之助に渡してしまおうと、鉄瓶に詰めて七輪にかけた。

 茹で上がりを待ちながら、ふと思い出す。ある冬の日、寝付いて久しい志都に一度だけ、茹でた玉子を渡したことがあった。玉子を見た志都はすぐに顔を曇らせた。明練堂の台所事情からして、玉子など出てくるはずがないのだ。

 推察どおり、その玉子は道場の向かいにある神明社で飼われていた鶏の小屋から盗んだものだった。志都はよろと起き出すと、泣いて謝る千歳を神主の前まで引き連れて、玉子を返し頭を下げた。

 志都は千歳へと正しさを教えるために、あの玉子を食べなかった。木枯らしに身を晒してまでの教えは、結局、志都の生命を削らせただけで、千歳の真髄には刻まれなかったように思う。誤魔化しとズルは上手くなったし、抵抗もなくなっていく。

 人を裏切ったり、傷付けたりすることも、また抵抗なく出来るようになっていくのかもしれない。そんな道徳心の欠片もない存在に十分なりうる自分が怖い。

 先日の夜、歳三の歩み寄りを撥ねつけて、二階へと逃げた。残された歳三は、どんな心地で自室へ帰っていっただろう。罪悪感と共に、しかし、身勝手にも志都を愛し、今となって千歳を愛そうというのだ、その苦しみは当然の報いではないか──とも思ってしまう。

 いつか父が現れて、志都と千歳を明練堂から連れ出してくれると思っていた。志都が死んでからは、夢想に描く父だけが千歳の血縁だった。それを裏切った歳三が悪い。

 だからといって、今さら愛情を見せて、謝罪をするのは、もっと狡い。謝られてしまっては、全てを許さざるをえない。許したのなら、千歳と歳三の関係性は父と娘に定まってしまう。そうなれば、仙之介としての心も、明練堂に生まれ育った記憶も消し去って、歳三を父と呼ばなくてはならない。

(兵馬先生……先生は、私に漢学と剣術を教えてくれて。この上なく愛してくれて。娘らしくなくちゃ愛せないあの人と違って)

 兵馬が与えてくれた千歳らしさは、兵馬との思い出、兵馬からの愛そのものであるのに、歳三はそれを受け入れない。だから、千歳は少しずつ遠のく兵馬との幸せな記憶を守るためにも、歳三の愛を受け入れることはできないのだ。

「……僕って本当に、嫌な人間だよな、そう思わない?」

 誰に語るでもなく呟く。鉄瓶の中に眠る、生を知ることすらなく死んでいったひよこたちを弔って、千歳は合掌した。

 しかし、やはり食べはしないのだ。「良い物をあげる」と口調ばかりはおどけながら、啓之助と五郎の袖へと密かに入れた。

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