二、自省
「あの子のことだが、肺病の兆候は今んとこ見えない。身体の方は、健康と言っていいだろう」
報告に上がった歳三とのやり取りの最後にそう告げると、松本は千歳によって新たに運ばれた煎茶の残りを飲み干した。歳三の眉根は、得心のいかなさに重たく寄せられている。一息と共に、高茶台へと碗を置いた。
「土方くん。俺の見立ても、その町医者と同じだ。発疹に食欲の減りに、しゃがみ込むのも、気が抜けがちなのも、身体が先じゃねえ、気を詰めていることが大元だろう」
「……やはり、そうですか」
松本の目の前には、悲しみを滲ませた男が座っていた。近藤から聞かされていた実務に長けた有能な奉行役の姿はない。
訳があり男装させて側に置く娘が、最近、具合の悪そうな様子を重ねて見せる、母は肺病で亡くなっているから、診てくれないか。小声のうちにそう願われて、松本は半ば興味本位に引き受けた。巴御前のような美麗な少女を想像していたが、現れたのは、自身の若弟子にでも紛れていそうな鋭い眼光に神経質さを滲ませる「少年」だった。
しかし、あの娘の険しさは、元来の気性ではない。張り詰めた気が切れれば、涙と共に、心の頼りとする者のない、寂しく不安な少女が顔を見せた。並みの娘らしくいられないことを、自分自身がもっとも気にしており、また罰せられるべき者だとも思っている。
「まぁ、詳しくは聞かねぇ。なるべく、心身共にゆっくりさせなさい。英語の勉強は好きだと言っていた、続けさせるといい。本は良いさ、本を開けば先哲はいつでも、あの子の語り相手になってくれる。……だけど、それだけじゃ、あまりに寂しいから。君だけは、せめて、あの子の味方でいてやりな。──いや、わかってはいるさ、君が愛していることは」
松本は思わず念を押した。歳三が苦い笑みを繕って詫びを述べれば、松本は言葉を選びあぐねつつ、言葉を重ねる。
「その、なんだ、味方というのは、帰って来られる居場所となってやる、ということだ。君、今はああしろ、こうしろ、よく言いやしないかい?」
「……ええ」
「それは止した方がいい。あの子はもう十分すぎるくらい、わかってんだから。この世の中は、あの子に優しくない。規範だの常識だの刻み付けてくるさ。君まで、しちゃいけねぇ。君は、傷付いたあの子が帰って来れる場所になってやってくれ。この人はいつだって私の味方だって安心が、あの子には必要だ。それから──」
もし、と付け加えた松本は、羽織の袖の中で腕を組みながら、千歳とはまるで似つかない面立ちの歳三へと語る。
「もし、の話だが、あの子が蘭語なり医学なり学んでみたいってなら、いつでも俺のところに寄越しなさい。どっちの格好でもいい。尽力、約束する」
歳三は勘定部屋の西の縁に立った。簾を抜けて指す西陽の部屋で、勘定方の四人は文机を突き合わせ、新たに購入する備品の予算を計上していた。歳三の落とす影に、尾形が顔を挙げた。
「おや、副長。すみません、ご用ですか?」
「ああ、今度、大坂に下るだろ、太夫の身請けに」
「はい、局長の。六日で考えています」
「そうか。ご苦労だが、町で豚の肉を買ってきてほしい。併せて、生きた奴も十頭ほど買い付ける手筈を頼む」
松本の助言により、残飯処理と滋養を付ける目的で養豚を行うことになったのだ。啓之助は小さく歓声を挙げて向かいに座る千歳の袖を引き、豚肉の美味さを語り出すが、千歳は連れなくも手を振り払い、算盤から目を離さない。啓之助が不機嫌をからかえば、その額を指で突いて押し退ける。
この娘は本当に手が出る。また小言を言いかけた口を閉じ、歳三は軽く頷いて立ち上がる。算盤玉を弾くのにさも忙しい様子の千歳へと、一言だけを残した。
「帰り支度が済んだら、執務室に来なさい」
では、と会釈をすれば、斯波が会釈を返しつつ、隣に座る千歳の肩を軽く叩いて礼を促した。申し訳程度に頷く礼が返されたが、部屋が薄暗くなっても千歳は姿を見せない。表座敷には誰もいなくなり、書庫を探しても、厨を訪ねても千歳はいない。裏玄関の
嵯峨の山向こうへと沈んだ落日の名残りが洛中の辻を浮かび上がらせるが、将軍上洛による厳戒態勢のために路上に人影はない。歳三は明かりも持たず、足速に進んだ。
父親の顔は知らない。父親というものが、子どもにどのように接するのか、歳三は知らない。父の代わりに、姉婿の彦五郎は良くしてくれた。
一度目の奉公へ出された十一歳の夏、番頭からの小さな説教が長引いた末に、態度が悪いと頬を叩かれた。体罰への謝罪を求めれば、生意気だとさらに殴られる始末。歳三はお仕着せの前掛けを床に叩き捨てて、そのまま、夕暮れの甲州街道を西へ駆け、ついに店には戻らなかった。
当主である次兄は、朝方に門を叩いた歳三を母屋へは上げず、庭に座らせて説教をした。戻れ、忍耐が足りない、今後どうするつもりで帰ってきたのだ。しかし、歳三は決して聞き入れず、先方からの謝罪がないうちに店に連れ戻されるくらいならば死を選ぶと言い続けた。
実家に居場所のない歳三は、姉婿の彦五郎の許に引き取られた。それからの二年間は、剣術に励み、俳句に親しみ、自己の鍛錬に時を費やした。彦五郎は歳三に奉公を急かすこともせず、十分に話し相手となり、武術で身を立てたいとの願いも、笑わずに受け止めてくれた。
その態度は甘いと、徳は何度も夫を諌めたという。しかし、彦五郎は妻を諭した。歳三も正しい道はわかっているが、選べないだけの道理が歳三の中にはある。いずれ自ら折り合いを付けられる日を待つのみ、と。
そのとおり、十四歳も過ぎれば、歳三も現実を理解してきた。いつまでも気楽な居候ではいられないし、このころには、若き日の近藤に出会っており、武術で身を立てていく人間の実力を知った。自身には奉公人の道が一番堅実だろうと、苦しい心を打ち明ければ、彦五郎はよく考えたと厚く労い、再び奉公先を手配してくれた。
そうして、奉公が明けた先に送る人生に希望を持てないまま働き始め、志都と出会い、彼女と共に生きることを誓った。しかし、歳三の人生は今や京都にあり、忘れ形見には十分な愛を与えてやれていない。
考えるうちに、菅大臣の別宅まで至った。路地を抜けて表玄関に手を掛けたが、戸はつっかえ棒で閉てられている。千歳が家にいることは確からしい。灯籠もない薄闇の境内を回った。
近藤は歳三と千歳の関係に何も口を出さないが、それでも、帰京した日の夕べ、千歳が送り迎えの役をしっかり果たしていた報告に、ひとつだけ忠言を添えた。
『彼は道理を弁えた人間だ。お前を何と呼ぶ存在であっても、お前が威厳をもって彼を正しく扱えば、必ず応えてくれる。お前が迷ってはいけない。絶対にいけないことはいけない、それ以外のことには寛容に』
実に近藤らしい言葉だ。義兄や近藤のような心の広さが歳三にあったなら、千歳との関係はもう少し落ち着きのあるものとなっていたかもしれない。
大人として動け。信頼できる人間になれ。千日手──。いくつもの言葉が、歳三を諌めてきた。受け入れてきたつもりだったが、そう簡単には自身の願望、欲望、わだかまりを捨てられない。
裏庭の竹垣越しに見れば、千歳は萌黄色の蚊帳の中、文机に右半身をもたせかけて本を読んでいた。虫たちの高い鳴き声に紛れて届かないが、千歳の口許は小さく動く。見えるはずもないのに、右側だけにある八重歯が覗く様が目に浮かんだ。
結局、自分は甘いのだ。千歳の姿を見たなら、愛したいと思ってしまう。だから、学問も友人も取り上げきれず、かといって、ありのままを受容する寛大さもないから、あれこれと気を揉む。愛を返さない娘に愛を注ぎ続けられるほどの強さはなく、かといって、手放せもしない。望む姿を求める心が、小言となって現れて、体調を崩させるほど。
枝折戸を抜けて、庭に踏み入れる。枇杷の木の下には熟れすぎた実が転がり、甘みのなかに刺すような酸味の気を立たせていた。
「すまないが」
千歳が驚いて身を強ばらせ、机にしがみ付くように背を向けた。
「話をしたいんだが、いいかい?」
大刀を外し、縁側へと置く。同時に、千歳は机に本を叩き付けて、肩を震わせる。歳三は庭に立ったまま、気の張り詰める千歳の背中に語りかけた。
「母さまと兵馬先生のことだ。これまであったことを話したい。それから、お前にはちゃんと、謝りた──」
千歳が蚊帳の裾を払い除けて、二階に上がっていった。歳三はしばらく立ち尽くしていたが、縁側から麻布の下に手を差し入れ、行灯の灯り皿を手に取ると、勝手口から家に入った。
自室の奥座敷に上がる。坪庭から離れの二階を見上げるが、障子の向こうに灯りを点けた気配はなかった。千歳が暗闇の中で厨子と向かい合っているような気がした。ふと、志都の位牌にはいまだ手を合わせていなかったと思い出す。
あの娘の帰る場所となれ。そう自らを諭しても、帰る場所とは一体何か。答えの輪郭すら見えなかった。
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