身勝手なémotion

一、聴胸器

 梅雨も深まる閏五月二十二日。将軍家茂一行の入京を出迎えるため、新撰組は三条蹴上まで赴いていた。

 隊士たちが出払った集会堂で、千歳は食中しょくあたりに臥せる小林を訪ねた。堂内には、小林の他にも三十人ほどが臥していた。間仕切りのない本棟では、ひとりが発症すると瞬く間に周囲も感染して倒れていく。

「どうも、小林くん。お加減は?」

「あんまり良くない……」

 薄布を被り、床板に直接寝転がる小林が上体を起こした。上京して一月あまり、さらには先日より続く膳所城事件での臨時勤務も重なり、疲れも出るころだろう。

 千歳は容体を尋ねながら、懐紙へと書き付ける。体調不良の隊士全員分の報告書を作成せよとの指示だった。啓之助へと下されたものが、当の本人は近藤について出ているため不在。出掛けに押し付けられた仕事だが、手は抜けない。この報告書は、将軍付きの奥医師である松本良順へと渡るのだ。

「なぁ、本当に御殿医なんかが診てくださるって?」

「うん。近藤局長がね、去年江戸に下られたときに、西洋事情の見識を伺いに訪ねたんだって。そこで、よろしく意気投合されたらしくてさ、上京の折には必ずって約されたんだって」

「そっかぁ。酒井くんも診てもらうのか?」

「僕? ううん。隊士の、診察だもの。六兵衛さんたちだって、診てもらわないよ、きっと」

「そっかぁ。君、ちょっと最近、顔色悪いように見えるから、診てもらったら良いと思ったんだけど」

 寝不足も欠食も、身体には確かに影響していたらしい。千歳は一切の感情の荒れを押し留めると、素早く微笑みを浮かべて応じた。

「身長伸びるころって、栄養取られるみたいだからね。ご心配どうも」

「そっかぁ。なぁ、俺、御典医なんて恐れ多くて、余計にお腹痛くなった気がする」

 小林は大きく伸びをして、再び床板に寝転がった。


 翌朝、雨の降り敷く中、診療道具を背負ったふたりの弟子と共にやって来た松本は、門にて出迎えた三長に軽快な挨拶を述べると、そのまま、生活状況を見学したいと集会堂へと上がった。

「話聞いたときから、不穏な予感してたんだ。襖も畳もねえ大部屋に百人詰め込んでるってな。そりゃ、病気にもなるさ」

 御典医に加えて、普段は奥に留まる三長が揃ってやって来たため、隊士たちは形ばかりでもと身なりを整えたり、開け放していた行李の蓋を閉じたりと、慌ただしかった。……という表の状況は、書院棟へと彼らの草履を運んで来た啓之助によって、千歳にももたらされていた。

「──それで、松本さまがさ、病室作れとか風呂作れとか、畳敷けとか、副長にどんどん言っていくんだ。身体とか身を置く状況とかをきれいに保ちおくことが、健康の第一歩なんだってさ」

「ふうん、清潔ってことか。男所帯じゃ、たしかに難しいからな、隊で揃えてやるべきか」

「また予算計上が大変だねぇ」

「あと、どこに頼むかだな。前川邸出るときにお願いした店だけじゃ、手が足りないだろうし」

 すっかり勘定方に慣れだした千歳と啓之助は、早くも手配の算段を話し合った。


 松本による診療の様子は、朗々とした声と共に、小姓部屋で本を読む千歳の耳にも届いていた。健康な隊士にはよく褒め、病気があると診た隊士には生活上の注意を与える。繰り返し聞こえる単語は、清潔と花柳病のふたつだった。

 手を洗うこと、身を清めること。皮膚病や眼病は、清潔にすることで対策できるらしい。

 花柳病は床を共にすることで伝染するという。手に紅斑があったり、顔に出来物のある妓や、床の回数が多い安女郎は買わないことと繰り返された。病が進めば、死ぬこともある。

 花柳病の熱で寝付いていた弥生は元気だろうか。優し気な美しい顔を思い出す。近頃の啓之助が隊を抜け出さないのは、どうやら弥生と約束しているらしい。真面目に努めて、自身の給与で弥生を受け出す、と。

 愛する者との約束は、人を変えるものだ。千歳は啓之助と出会ってからの一年間、振り回されてきた思い出をひとつずつ振り返りながら、斯波と共に診療補助に当たる啓之助の漏れ聞こえる返事の声を聞くでもなく耳にしていた。

 昼まで及んだ診療は、最後に三長が診られて終了となった。啓之助の案内で松本が表座敷を下がる。片付けだけでも手伝おうと本を閉じて立ち上がった千歳を、廊下から巌が呼びかける。

「酒井さん、お茶のお支度出来てます。表玄関の使者の間に、法眼先生のおいやしまっさかい、お出ししとくれやす」

「僕……じゃ、いけないから、三浦くんは?」

「副長先生と出たはります、風呂桶置く、言うたはりました」

「じゃあ、斯波先生呼んでくる」

「──そやけど」

 背を向けて、広間へ向かおうとする千歳を、巌は膝を浮かせて呼び止めた。隊士身分にない千歳が賓客である松本の前に出ないように、奥に勤める巌もまた、表の空間である座敷には入れないのだ。

「そやけど、副長先生は酒井さんにぃて」

「……そう」

 何を企んでいる。千歳の警戒は高まった。歳三が千歳を客人の前に、しかも朝廷から従五位下と法眼の号とを授けられた名医の前に出すはずがない。啓之助の仕事を中断させてでも行かせるはずだ。


 雨粒を抱く苔の坪庭を挟んで、表座敷の東。普段は近藤しか使わない表玄関の上がりの六畳間。千歳は長く息を吐いてから襖の前に座り、茶盆を静かに置いた。呼びかける前に、中から入室を促す軽快な声が挙がる。戸を開けると、花頭窓を背に座る松本が団扇を動かしながら迎えた。

「お運びご苦労さん。いやぁ、久しぶりにこんな大人数を診たよ」

「ご無礼いたします」

 千歳はなるべく顔を上げないように松本の前へと進み、座礼した。盆から高茶台と白饅頭の小鉢を下ろし、再び礼をする。立ち上がろうとすると、松本が留めた。千歳は平伏のまま冷や汗をかく。卒なくこなしたように思えた。ならば、やはり歳三は何か松本へと告げているのだ。恐らくは──。

「お前さん、酒井仙之介だって?」

「さ、さようでございます」

「まあ、かしこまらねぇで。顔、上げな」

 千歳は盆を傍に退けて、面を上げきらないように手を着いて上体を上げた。上質な正絹羽織の上からでもわかるほどに良い体格と、袴に殿中差を帯びた居住まいは、武士の風格を帯びる。松本が懐から聴診器を取り出して右腕をまくった。

「顔、上げなって。下向かれてちゃ、診れねぇだろ?」

 歳三が診察を依頼した。千歳が女子であることも告げているのだ。また何の説明もなしに、歳三は勝手に動いた。

 一呼吸置いて、千歳は挑む心地で顔を上げた。迎えられた目は、形ばかりは穏やかそうなつぶらさだが、眼光は鋭い。法眼らしく丸めた頭がなければ、とても医者には見えない壮健な男だ。

「君、前開けな」

 先程までの柔らかさはない、厳しい声だった。千歳は素早く一礼して辞す。

「お許しくださいませ──」

「待てまて、待て!」

 盆に手を伸ばし立ち上がろうとする千歳より先に、良順が盆を取り上げた。膝に置かれた聴診器が、床の間の前へと転がる。

「医者が怖い年でもねぇだろう?」

「恐れながら、私は健康でございます!」

「健康かどうか、俺が診るんだよ」

「お許しください!」

「頑固だなぁ。局長先生は、目上の者の言うことは素直に従えと躾けなかったのかね?」

 近藤の名を出されては、千歳も反抗の鉾を納めざるをえない。松本は有無を言わさず、千歳の肩を押さえ付けて座らせた。

「母ちゃん、肺病で見送ってんだろ? あれは血脈で遺伝つたわるとも、弱っていると伝染うつるとも言われてる。君が肺病じゃないか診るから。ほら、襟広げ──そんなに嫌かね」

 襟を握りしめて涙を流す千歳に、松本はうろたえ、浮かんだままの手で饅頭を掴むと千歳へと勧めた。千歳は首を振るが、口に押し込まれ、一口かじることになる。

「な? 俺は頼まれたから診る、それだけさ。君の事情とか、土方との関係とか、詮索したりしねぇ。身体の中のことだけだ、知りたいのは」

 松本がゆっくりと立ち上がり、床柱の下で留まる聴診器を拾い上げた。

「心配されてんだ、副長先生を安心さしてやりな」

 千歳は首を振り、定まらない呼吸で肩を震わせながら、恐々と松本を見上げる。歳三が千歳の身を明かしてまで松本に診察を願った理由が、単なる心配であるはずがないのだ。

「わ、私に……少しでも病気があれば、ここに……置かないつもり、なんです。お願い申し上げます、どうか……! 何も問題ない、そうお伝えください……!」

 手の中に饅頭を入れたままに、千歳は深く頭を下げた。松本は戸惑いの足取りで千歳の前へと戻り、肩へと手を差し伸ばすが留める。ため息を隠すように荒々しく座った。

「あー……なるほどねぇ、ああ、うん。わかったから、落ち着けよ。先生、そんなつもりで頼まれたわけじゃねぇからよ」

 松本は懐紙を差し出し、お茶を勧め、千歳が饅頭を食べ終えるまでを黙って待った。


 千歳が伝えて良いと言った所見しか歳三には伝えないと約束が交わされて、診察は始まった。懐紙と矢立を手に、松本は尋ねる。

「名前は酒井──? センノスケ、と。年は十五だね? にしては背丈がある、もう少し伸びるだろう。よく食べて備えなさい。熱とか、咳とかはないかね?」

 頷けば、続いて呼吸音を診るからと、諸肌脱ぐように指示される。千歳は目を閉じて、振袖の合わせを開き、両腕を抜いた。下にはさらに、愛染の帷子を着ている。前身頃には、硬く延べた綿が縫い付けられていた。

 紐を解き、上半身を晒す。痩せて肋骨が浮くが、胸周りだけは張りがある。千歳は松本に言われるまま、深い呼吸を繰り返していた。

 聴診器の冷たい筒先が、鎖骨へと当てられる。胸を下り、後ろを向いて背中。

「──良いぞ、問題ねぇ。健康なもんだ」

 松本が聴診器から耳を離すと、身なりを整えるように言った。千歳は襟を深く合わせながら、もし志都や兵馬がこのように診察を受けられていたらと考えてしまう。

「……蘭方では、肺病を治せるのでございますか?」

「難しいなぁ……絶対に効く治療はねぇんだよ。ただ、養生するうちに症状が軽くなって治る、ということがないわけではない」

「さようでございますか……」

「母さまのことは残念だったね」

 千歳が畳の縁を見つめて動かないあいだ、松本は小筆を走らせて、懐紙へと所見をまとめていった。

「一番は予防──事前に対策を講じることだ。少し痩せてるから、滋養のあるものを食べなさい。痩せは風邪を呼んで、長引けば肺病になる。でもまあ、先生には問題なく健康だと伝えておくよ」

 黙礼で応じる千歳に、松本はもうひとつ良いかと顔を上げさせた。下まぶたを裏返し、舌を診て、首回りを触り、小さな声で尋ねる。

「血の道はきているか?」

 月役のことだ。千歳が答えずに俯くと、首を振るだけでいいと問い直される。

「きているかい? ……そう。じゃあきたことはあるかい?」

「副長へはお伝えなさらないと……」

「約束する、案じるな」

「……十二歳の終わりに。それから半年間で、四回……だけです」

「だいぶ早いね。ふうん……それで十三の夏ごろ、何か病気したかい?」

「ございません」

「急に痩せたとか……」

 再び千歳が黙ったので、松本は姿勢を正すと、まくった袖を直した。

「この生活じゃ、ない方が楽だと思ってしまうだろうが、そのままだと、子どもができなくなるからね」

「それは、別に……私には、かまわぬことでございます」

「将来のことはわからない。備えなさい」

「私、私は……! ……どうも、本当に道理にそぐわぬおかしな奴で」

 幾重にも自分の肩に負わされた、道理外れの性質。生い立ちは抗えないし、幸の言うことが正しければ思考にも男女はない。けれども、こればかりは、やはり自分がおかしい。

「娘とか妻とか呼ばれて愛されたいなど、微塵も思わないのです。愛したいのは……男ではございません」

「……そうか、なるほどなぁ。うん、じゃあ、言葉を変えよう。将来のためではなく、今の身体のためだ。本来の機能が働かないとは、何かしらの負担の現れだ。無視しちゃいけねぇ。これも、大切なのは滋養だ。それから、薬。血の道は漢方のお得意だから、行きなさい。いいな?」

 千歳が浮かない顔で頭を下げる。雨音の中で昼の鐘が鳴り、窓からは膳をもらいに厨へと渡る隊士たちの足音が響いた。

「君、何が好きだい?」

「……はい?」

「これをするのが好き、あるだろ?」

 とっさには思い付かない。しかし、松本がビロードの袋へと仕舞う聴診器の形が、昨年の夏、前川邸の屋根に座り啓之助と共に洛中を見渡した遠眼鏡を思い出させた。望遠鏡テレスコープということは斯波が教えてくれた。五郎との英語学習は、連日の騒動によって中断されている。また出来る日はいつか──。

「英語を、一緒に勉強しております……先生と、友人と。一番好きです、私、今が一番好きです。だから、ここにいたいんです」

 自然と顔が上がり、松本の目を見ていた。自分の魂が語った言葉だと感じた。

「望まれない、認められないこととはわかってます。でも、私が決めたことです……」

 幸は千歳へと、伴侶と共に生きることを願った。歳三も和尚も雅も、志都もきっと、千歳が結婚して子を成し、幸せに過ごすことを望むだろう。けれども、彼らの願いを踏みにじろうと、千歳は今を選んでしまうのだ。

「その罪は、この先、一生背負う覚悟ですから……」

 頭を下げようと着いた手が、松本の硬く大きな手に包まれて、宙に浮いた。涙を堪えて目を合わせれば、松本の気迫ある目が見つめ返す。

「……酒井くん、よく聞きなさい。人生、選択に反対されることは多い。そんなときは、よくよく考えて、決断したなら後悔しないことだ。それとな──」

 両手を包む手が両肩へと伸ばされて、存在を確かめるように強く握り締められた。

「そんな、ひとりで生きてます、なんて顔するな。全てを分かり合えなくても……わからないままでも、君を愛したい人間はな、たくさんいるんだ」

 眼前に、夏空の下で差し出した白い桔梗の花が浮かんだ。涙が畳に落ち、抑えきれずに声が漏れた。松本はやはり、千歳が落ち着くまで静かに待っていてくれた。

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