十五、桔梗花

 幸が連行されてきて五日。千歳が昼の集荷を受け取りに監察部屋を訪れると、三木は書状を手渡しながら、何かを言いたげに顔を寄せた。報告と確認に交わされる声、紙をめくる音。騒がしさに隠れて、部屋の片隅で告げられる。

「今から奉行所に行ってくるよ、夫人を六角獄舎に移送するお許しを願いに」

 書状の束を手にしたまま立ち上がらない千歳へと、三木はさらに顔を寄せて耳打ちした。

「お迎えは明日の朝になるだろうから、今晩、お別れを言っておきたまえ」

 執務室へと書状を運んだ千歳は、財布の中身を確かめると、誰にも言わずに屯所を出た。

 花屋町通を歩き、白い桔梗を探す。本願寺の周りにある花屋を全て訪ねても、白い桔梗はなかった。清水坂まで足を伸ばしたが、あるのは、やはり青や薄紫ばかりだ。

 日が暮れ始めても、千歳は九条の野原や、啓之助と花火を上げた嶋原の西の野原を歩いた。手足は虫に刺され、指は草で切り、腹は空いたが、探す手は止めない。

 うるさいほどの虫の音、目が眩むような姫蛍の発光。白い花が目に付けばすぐに手に取ってみるが、どれも違う。白い桔梗など、元からないのではないかと思えた。欠けた月が東山から出て、門限の亥の刻が近いことを知らせた。

 閉まりかけた門へと駆け込み、前庭を抜ける途中、五郎が裸足のままに走り出てきた。

「仙之介くん! どこ行ってたのさ、副長がだいぶ──な、何かあったの?」

 千歳の全身は泥にまみれ、月明かりに照らされた顔は涙に濡れていた。俯いて目も合わせず、黙って首を振る千歳に、五郎は努めて冷静な声で呼びかけた。

「仙之介くん……裏の井戸、行ってて。手拭い、取って来るから」

 背中を押せば、千歳は遅い足取りで奥へと歩みだす。五郎は何度も振り返りながら、本棟へ戻り、行李から一番新しい手拭いを引き出した。

 蔵の傍の井戸で、千歳は袴と振袖を脱ぎ、長襦袢の裾をまくって手足を洗っていた。五郎は手拭いを差し出し、足許へとしゃがむ。

「何をしていたか、聞いても良いですか?」

 千歳は立ったまま顔を拭うと、つぶやくような抑揚のない声で、幸へと白い桔梗を渡したいことを話した。

「明日、川瀬夫人が六角獄舎に移されるから。何も食べてない、あちらの方が待遇良いなんてことも、ありえない」

「……それで、どうして桔梗を?」

「供えてくれと言われた……どうしても、今、渡してあげないといけないと思ったんだ……!」

 手拭いに顔を埋めて膝から崩れ落ちる。五郎は千歳の背中へと手を寄せた。不安の騒めきが指先を緊張させて、到底、安心感など与えられていないとわかっていた。五郎を受け入れようとはしない固さがあった。

「……明日、また探そう。僕も行くよ」

 普段は朗らかで聡明な友人は、たまに酷く寂しい孤独を見せる。心の奥を明かさない。

 裏玄関へと入る背中を見届けてから、五郎も寝床へと入ったが、なかなか寝付けなかった。

 初めて得た親友だと思ってはいるが、千歳と過ごした時間は、いまだ一年足らずなのだ。全てをわかり合うには、あまりに短い。

 空が白むより早く、五郎は巡察に使う呼び子の笛をふたつ持って、書院棟の裏玄関で待っていた。千歳へと笛の一方を渡すと、本願寺側との竹矢来を乗り越えて屯所を抜け出す。封境藪を抜け、野原へと至ると、千萱や薄は、風に揺れるたびに葉の朝露をこぼしていた。

「ピーと一声吹いたら、一声返す。所在を知らせ合うんだ。ピピーとふたつ吹いたら、見つけた合図。あまり離れ過ぎないように」

 五郎は一声を試しに短く吹いてから、草むらへと入って行った。千歳も両手を手拭いで包むと、津花に紛れる白い花がないかと草の根を分けた。時折響く甲高い一声に、鹿の鳴き声のような寂しさを覚えながら、一吹きして応じた。

 千歳は、他人の生き死にの意志へ介入しようとしているのではない。幸の決意を翻させようとか、無理にでも生きながらえさせようとか、そんなことを望んでいるわけではないのだ。

 一方で、幸の決意を尊い生き様だと、手放しに肯定することができない。黙って受け入れられない。

 幸の志と千歳の思いとは、対立する。それでも、幸のことを思っていると、千歳は示したかった。そのためには、白い桔梗を手渡すことが必要だと思えた。死後ではなく、今の幸に安らぎを与えるものを、千歳の手で。

 東山の縁が金色に光り、日向は次第に嵯峨野の山から洛中へと下りてきた。五郎が短く連続して呼び子を鳴らした。その音の許まで走って行ったが、見つけたわけではなかったらしい。

「戻ろう。残念だけど、時間だ」

「……君は戻って。三浦くんに、お食事出すのお願いしてくれるか?」

「仙之介くん……!」

 背を向けた千歳の腕を五郎が掴むが、千歳は俯いたまま謝った。帰るつもりはないと察し、手を離す。

「町に行ってみて。鉢植えで育てている人がいないか尋ねるんだ。これだけ探してないんだから、園芸の品種かも」

「……うん」

「僕は戻るけど、辰巳の刻に来るそうだから、それまでに戻って来い。な?」

 洛中への道を足早に歩く千歳の背を追いながら、五郎は敬助の葬式の日を思い出していた。千歳は人の死が怖いと言って、座敷から出なかった。

(君、先生を見送れなかったこと、悔いてる? だから、もう一度──もう一度?)

 人は異なる。しかし、自ら死を定めた者への別れを迫られた千歳は、今回もまた、その死に向き合おうとしている。五郎も同じく、千歳に寄り添いたいと願い、側にいることを選んだ。

「仙之介くん。お昼、一緒に食べよう? 待ってるから」

「……ありがとう」

「じゃあ、どうか……」

 堀川の辻で別れる。共には行けないが、祈りだけでも託そうと、五郎は町へと駆け行く臙脂色の振袖姿を見送った。


「──すみません……あの、白い桔梗を育てている方……ご存知ないでしょうか」

 長屋の井戸端や、髪結処を巡り尋ねた。切羽詰まった様子の少年に、京都の主婦たちは親切だった。何人かの家へと案内を受けたが、やはり、見つけることはできなかった。

 昨日の昼を最後に、何も食べていないからか、息が上がり、脚も震え出した。日は高くなりつつあり、辰の刻の鐘が鳴ってしばらく経つ。千歳は駆け足で京都の町を進んだ。

(あなたを思っているだなんて、そんな美しいものじゃないんです。川瀬さま……私の勝手。あなたが受け取ってくれるなら、なんだって……!)

 撫子の花を、幸は受け取ってくれた。墓前には、白い桔梗を望んだ。砂糖水は受け取らず、意志も曲げはしない。

 千歳は何か、幸に受け取ってほしかったのだ。

「あったなぁ! たしか、秀はんとこ!」

「そやなぁ。あっこの旦那はん、鉢物ぎょうさん作たはるし!」

「表ん並べたはるし、すぐにわかる思うわ!」

 子どもを背負った若いふたりが、すぐ先の辻を曲がって二本目の筋にある家を教えた。一礼して駆け出すと、商家の格子窓から時報の鐘が鳴った。九字、辰巳の刻だ。さらに脚を速めた。

 教えられたとおり、秀の家の前には、いくつもの棚に数々の鉢物が並べられていた。その中に、青い陶器の鉢に植えられた白い桔梗を見つける。しかし、それは五、六個の蕾ばかりで、咲いてはいなかった。

 お前の望みは叶わないと突き付けられた気がした。千歳は行き交う人の中で、声を挙げて泣き崩れた。


 三木は、屯所の火薬蔵の前で、幸を護送する六角獄舎の役人へと、身柄の引き渡しを行った。幸は既に立ち上がることもままならぬほどに衰弱していた。籠目に編まれた唐丸籠へと座らせ、厳重に封をする。前庭を行くと、稽古着の佐野が道場から出て来た。

「酒井は結局、帰って来たのか?」

「ああ、でも朝、また出たらしい。夫人に桔梗の花、差し上げたいって」

「……白い?」

「あ、中村から聞いてる? そう、白い桔梗」

 正門を出たところで、駕籠が一旦置かれ、三木が役人と挨拶を交わす。佐野は駕籠の中の幸を眺めていた。

 美しい人だと思い、心の中で手を合わせた。三木とやり取りをする与力がひとり、駕籠かきがふたりに、護衛がふたり。葬列にしては寂しい。しかし、佐野にも勤王の自負があり、幸はその手段を誤った罪人だ。石橋を渡って行く一行を、礼もなく見送った。

「川瀬は吐いたか?」

「いいや、まだだ。しばらくかかる」

「そうか」

 佐野は抜け出して来た稽古へ戻ろうと門へ足を向けた。

「あれ……酒井くん?」

 三木の声に振り向くと、臙脂色の振袖を着た少年が、堀川通を駆け上って来ていた。佐野が思わず道へ出て声をかけるが、千歳は一瞥もせずに通り過ぎて、前方の護送の列を追った。

「おい、待て!」

 千歳を追い、門前の囲いに設けられた北の総門を駆け出た。

「川瀬さま──!」

 護衛の与力たちが怪訝に振り返り、駕籠かきの脚が止まる。一行へと追い付き、駕籠へと近寄ろうとする千歳を、与力は手にした六尺棒にて制した。

「寄ったらあかん!」

「川瀬さま!」

 千歳は与力をすり抜けて、駕籠へと手を伸ばすが、襟首を掴まれて道脇に投げられた。与力が六尺棒を地に突き立てて威嚇する。

「なんや、斬られたいんか!」

 佐野は制止の声を挙げながら間に駆け入り、今にも再び立ち上がろうとする千歳を抱き抱えるように抑えた。

「ご無礼仕る! まだ子どもにあれば、ご容赦を!」

 千歳は佐野の腕の中でもがきながら、幸を見た。この騒動の中でも、幸は凛と背筋を伸ばし、前を見据えていた。乱れた髪、やつれた顔すらも、美しく見せる気品が、籠目の間から匂った。

 千歳の抵抗が止まる。護送の列は、先程よりも足速に進んだ。佐野は千歳の両腕を掴んだまま、立ち上がらせた。

「このたわけが、何考えてるんだ。……戻るぞ」

 涙の張った反抗の目付きが佐野を睨み上げていた。本当に子どもというものは、これだから嫌なんだと苛立ちが燃えると同時、千歳が勢いよく両腕を振り下ろしてしゃがみ込み、佐野の手から逃れると、脱兎の如く駕籠を追って駆け出した。

「酒井──!」

 千歳が護送の列を追い越し、先頭を行く与力の正面に平伏する。二度も脚を止められた与力は動揺にたじろぎ、道を行き交う町衆も、何事かと遠巻きに眺める。これは今度こそ刀が出るかと、佐野は冷や汗の中、与力の死角からにじり寄りながら、千歳を逃す算段を図った。

 街の喧騒が鎮まった中心で、千歳が顔を上げる。

「ご無礼お許しくださいませ」

 懐から取り出し与力へと差し出したのは、懐紙に包まれた桔梗の一輪だった。幸の願いどおり、真っ白な桔梗だ。玄関前で泣く千歳に驚いて出て来た秀が、裏庭で育てる鉢に咲いていた一本を切り取ってくれたものだ。

「酒井千歳と申します」

 幸に名を尋ねられたとき、千歳は自らを千歳と名乗る勇気がなかった。しかし、幸と向き合い、桔梗を手渡したいと願ったのは、やはり、千歳であると思った。

「──下がれ!」

 与力は千歳から桔梗を取り上げると、駕籠の窓から中へと差し入れた。千歳は脇に退き、平伏して行列を見送った。



「美しき人の守りぞ真心のかはらぬ色に花も咲くべき」


 幸に関する一連の話を佐野より聞かされた伊東が、一首を詠んだ。その歌は隊内に広まり、一切を秘匿して夫に殉じた幸へと同情の声が生じていた。

 賢夫人、武家の婦女子の鑑。ところが、その評価とは、川瀬の文を焼却したことや、自決を選んだことに向けられたもので、川瀬と共に計画を立て、尊王の意を遂げんとしたことではなかった。

 千歳は茶室を掃除しながら、幸を思って泣いた。幸は賢夫人と称えられることよりも、川瀬と同じ罪状で裁かれることを望んでいたはずだ。


『女の一生は、それほど悪いものではございません』


 幸は川瀬を愛し、共に子を育てた。千歳にも、そんな相手を見つけ出せと言った。けれども、千歳には難題が過ぎる。

(あなたは夫に恵まれた。女でありながら、学ぶことを許してくれる──)


『さようにつまらない理由で、物事を取り上げられたり、許されたりするのは、お飽きになっておいででしょう?』


 女であるとは、取るに足らない理由だと幸は言うが、千歳は納得がいかなかった。幸ほどの頭脳と志があれば、どこにでも遊学に出て、志士たちと交わることができたはずだ。男でさえあれば。

 志は魂に属し、魂に男女の別はない。幸の魂はたしかに自由だったかもしれないが、やはり幸も不自由だったのだ。幸の戦場は紙の上であり、幸の肉声では不足だったのだ。幸も千歳も、学問のために女の身体を悟られまいと働いたことに変わりはない。


 桔梗をもらったお礼に訪れると、秀は白い桔梗の鉢植えを千歳へと持たせた。五、六個の蕾は、あと数日で咲くという。千歳は書院棟の裏玄関へと鉢を置き、幸を思っては開花を待った。

 幸が亡くなったと三木より聞かされたのは、二十七日のことだった。千歳は本願寺の阿弥陀堂に上がった。花の活けられた水瓶へと、その日の朝に咲いたばかりの白い桔梗を押し込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る