十四、願い
幸が一切口を開かないとの尋問報告は、山崎によって執務室へと上げられた。歳三は監察方の中で一番物腰柔らかな三木を使うように指示したが、山崎は既に試したが通用しなかったと返す。
「返答得ておりますは、今のところ酒井くんだけですさかい、尋問、彼を使わしていただいてもええでしょうか?」
「いや……笞は使ったか?」
「いえ、まだです。えっと、手負いの女ですが……?」
「食べてもないんだろう? 何かしゃべっといてもらわなくちゃ、秘密を抱えたまま死なれても困る」
文書を焼かれた以上、供述から潜伏中の仲間を求めるしかない。
幸へと運ぶ砂糖水は結局、毎度厨に戻っては千歳自身が飲んでいた。幸は目に見えて痩せ始めており、唇は乾燥に荒れて、頬の張りもない。
十八日の夕暮れ、千歳は盆に砂糖水と撫子の切り花を一本乗せて、茶室へと入った。
「……きれいでございますこと」
微笑みながら、幸が震える手で撫子を取り上げる。その手の甲から袖口の奥にまで、出血の混じるミミズ腫れがあった。
千歳は監察部屋を訪ねた。普段なら退勤時間だが、監察方の隊士は全員残っていた。広間にまで机と資料が広げられ、尋問から得た情報を突き合わせての精査が行われる。
部屋の端で報告書を仕上げる三木の前へと進んだ。
「三木さん」
「うん、なんだい?」
筆が置かれて、少し疲れた笑顔が千歳を見上げる。千歳は向き合って座ると、幸の傷について尋ねた。尋ねずとも、それが尋問の笞打ちであるとはわかっていた。三木も眉を寄せて弁明する。
「あの人、何も話さないから、取り調べにならなくて。笞といっても、柳の根の細いのだよ」
「死ぬ覚悟を定めた人間に、そんなことが効くとは思えません」
「まずは、水を飲ませたんだ。死なれては困るから」
「飲んだんですか? あの方が?」
「飲ませた」
苦々しい表情から、無理やりに水を口に含ませたと察する。あの誇り高い夫人が、男たちに押さえられ、水を流し込まれたのだ。
袴の下で結ぶ手が震えた。水を飲ませた代償として、手の傷は一生残るだろう。千歳も幸に水を飲ませたがったが、こんな形でのこととは望んでいない。
どうしたら良いか。幸がこれ以上の辱めを受けず、しかし、生きながらえるには。はたして、その先が幸せかはわからないが、何もせずにはいられない。
「……聞き出したいことは、なんでしょう?」
「聞くつもりかい?」
千歳は顔を強張らせてうなずいた。三木に見つめられる数瞬が、非常に長く感じられた。三木が思案に小さくうめき、視線は迷いに逸らされる。しかし、すぐに険しい目が千歳へと戻されて、三木は指を二本立てた。
「川瀬が交わっていた人物と、計画の詳細について」
「わかりました」
「……本気か?」
「聞き出してきたら、手当てしてもよろしいですか?」
「内容によるね。報告書にして上げなさい」
千歳は返事をして、監察部屋を出た。裏玄関の框にて、一度泣いておいた。幸の前では泣きたくない。
行灯を手に茶室へと戻ると、緊張した面持ちへと幸が微笑んだ。
「何か聞き出してこいと命じられましたか?」
「いいえ……僕の意志です」
「さようでございますか」
幸がそのまま千歳の濡れた目を見続けた。母の慈しみの目なのだ。千歳は、幸を数日前に会ったばかりの他人とは思えなかった。
「あなたが……笞で叩かれることが、耐えられません」
手当てをしたいが、許しがなければしてやれない。許されるためには、話してもらう必要がある。手当てをさせてほしい。
千歳が涙を堪えて話すたびに、幸は動かない首で最大限に頷いた。決意を翻しはしないとの合図だった。
虚しさが何から生じているのか、怒りは何に向けられているのか。千歳には自分でもわからない。顔を伏せたまま、畳の上で拳を握り込むしかできない。
「どうかしてるんです、武家のご夫人を打とうだなんて……!」
「川瀬らは、もっとひどく打たれておるのでございましょう?」
返される声は、あくまでも冷静で優しい。千歳の語気は独り、さらに強まった。
「ですが……! ですが、川瀬さまは女子ではありませんか」
「女子ならば、なぜ打たれぬのでしょう?」
「なぜって、だって……女子です、から」
「ふふっ」
初めて幸が笑った。その目は、伊東の講義中に交わされるような、論じる者の鋭さがあり、痩せ衰えた女囚の姿はなかった。
「女子は殿方と同じ扱いを受けませんね。牢の代わりに座敷が用意されて、尋問も軽く……たとえ、私こそが計画を立て、同士と文の遣り取りをしていても」
「え……?」
四十五歳を過ぎたころから、川瀬は目を患った。初めは夫の文を代筆していたが、次第に、幸が自ら川瀬の名で諸士との文を交わすようになった。幸の勝手ではない。幸と川瀬とは互いに意見を交わし合い、勤王への志を作り上げてきた仲なのだ。二人の意見は分かちえない。
「将軍さまは遠く江戸にお住まいで、どうして、畏れ多くも帝の大御心をお察し申し上げることができましょうか。ご叡慮はご叡慮のままに、知ろしめされねばなりません」
禁門の変では長州兵を匿い、公家の岩倉具視とも交流した。三月には、長州の高杉晋作は、幕府への恭順を称える勢力を藩政から一掃し、それに対して、将軍はこの度、上洛することとなった。鯉沼から将軍上洛を報せる文を受け取ったとき、幸は川瀬へと読み上げて、決意を促した。
「──時は今なり、と」
微笑まれようとも、千歳には頷き返せすらしない。幸は夫も子もある身ながら、隊士たちと変わらない熱で国事を語る。信じられないものを見る目を向けられた幸は、傷の浮く手を自身の胸に当てた。
「私の志は、私の魂に属します。いずれ朽ちる肉体に従うものではありません」
「どうして……」
食を断ち、尋問にも黙り続けた幸が、千歳には話すのか。言葉にならない困惑は、幸にも伝わっていた。
「女の言葉は軽んじられますもの」
「だから、なぜ私には……」
「私の考えは、あなたにこそお聞きいただきたいと思ったからでございます」
「私が……女だから?」
ほとんど声にならない息のかすれだった。千歳も幸と同じく国事を学び、世を考える女子でありながら、世間には認められない存在だと言いたいのだろうか。しかし、幸は微笑んで否定を示す。
「さようにつまらない理由で、物事を取り上げられたり許されたりするのは、お飽きになっておいででしょう? ええ、ですから、あなたにならきっと私の言葉が届くはずだと思ったのでございます。私は彼らと共に計画を立てましたのに、ここの方々は私を彼らの仲間とは認めないのでございますもの」
仲間内にいる間は対等に交わっているのに、外に出れば、消されてしまう存在である虚しさ。千歳は大人の目を盗んで、この茶室で共に夜を明かした友を思い出した。泣くことも、顔を伏せることも堪えて、幸の目を見る。
「川瀬さまは……女に生まれたことを、不自由だと思われませんか?」
「思いませんわ」
「なぜ……?」
「魂に男女はありません。ひいては、魂より生ずる思考にも。文字にしてしまえば、審議されるのはその内容でございます。紙面こそが勝負所でございます」
「訴えたいことがあるとき、男であれば、その口を開けば良いものを、女であれば、その身を隠さねばならない。男であるかに見せなければ取り合ってもらえない。川瀬さまはそうおっしゃっています」
千歳の反論を受けて、幸は口を開かない。今度は自分が話を聞く番だと黙って促した。
一度きりの議論だ。この夫人を師と仰ぎ、学んでみたかった。女でありながら、どのようにして男の学問を学んできたのか。周りからの抑圧に耐えてきたのか。何を支えにしていたのか、どう生きてきたのか、何に駆られたのか。
千歳は大きく息を吸い、目を拭ってから話し始めた。
「世の中は、大人の男が支配します。だから、女子どもって言葉があって……言葉に力を与えられなくて……。それは悔しくて、虚しいです。魂に男女がないのなら、なぜ? ──言葉に力を与えてくれる学問から遠ざけて育てられるからです。娘らしさ、良妻賢母、世の中に働きかける力を持ち得ない姿こそが良しと、枝を打ち落とされ、添え木をされて育てられるからです」
「ええ、世の中は。けれども、あなたは諾々、それにお従いに? 女に生まれた事実は、たしかに、学問から遠ざけますが、自身に強い意志さえあれば、望むだけ手に入れられるものです」
「私の意志は、けれども、私の身近にある意志──例えば父親とか夫とか、彼らの意志によって、容易に挫かれるでしょう。女であっては、思うようには生きられません……」
「……あなたは、女の存在そのものをお厭いなさってるように見えますわ」
「そうですね、嫌いです。女に生まれて良いことはなかった」
低い声には敵意すら含まれる。それが向けられる相手は千歳自身だった。学問の不平等、教育の差。自身の弱さを育成過程に責任転嫁しても、結局、千歳が女であることからは逃れられない。女らしくいられないくせに、男になれもしない。だから、結局は歳三に負けてしまう。
うつむく千歳の手を、力なくも優しい両手が包み込んだ。
「女の一生は、それほど悪いものではございません。どう生きるか、これが肝心でございます」
「思うように生きられないのに……?」
「私は私の意志で、食を絶ちました。誰に命じられたことでもございませんわ」
「……それでも」
千歳の涙がふたりの手の上に落ちる。幸は千歳の乾燥したあかぎれの手を撫でた。
「私は幸せ者でございます。女子であったから、川瀬の最も側に立ち、川瀬と志を共有できました。最愛の人との間に、最愛の子を授かりました。あなたにも、そんなお方をご自身で見つけ出してほしゅうございます」
千歳は幼な子のように首を振り、泣き続けた。そんな物分かりの良い奇特な男など、歳三は与えてくれないだろう。従順で安らぎとなる妻を求める、世間様には申し分ない男の許へとやられるのだ。それが誰だろうと愛せる気がしない、母親になどなれやしない。
仙之介でいたい。五郎や啓之助の友人で、斯波の弟子で、国事や世界の情勢を学ぶ学徒で。自由でいたい、女になどなりたくない。
「嫌なんです……! 僕は……僕でいたいんだ……!」
「あなた……本当にしたいことを魂へ問うてごらんなさいまし。ご自分をそんなにお厭いにならなくても、きっと良うございます」
千歳は勘定部屋へ戻ると、幸からは新たな供述を得られなかったと報告書を作成した。実際に、計画の詳細も関わった仲間の名も聞き出せなかったのだから、偽りを述べてはいない。
例え、夫人が事件の立案者であると千歳が記したとしても、他の者たちへの尋問に基づくいくつもの証言によって、川瀬による立案と結果付けられるのだ。あまりに虚しい。幸が取り合われないからと話さずにいたのなら、せめて告白を胸に秘めておきたい。
千歳は幸を尊い存在として、重んじたかった。幸の志に添った生き方の果てに、死を迎えてほしいと思った。同時に、幸を愛してしまった。そのため、幸が志と共に死ぬことが受け入れられない。
茶室を下がる千歳へと、幸は名を尋ねた。千歳は言い淀んだ末に、「酒井仙之介」だと答えた。幸は憐れみに寄せた眉の下でしばらく千歳を見つめてから、酒井殿と呼びかけた。
『私、白い桔梗が好きでございますわ。酒井殿に手向けてほしゅうございます』
幸はそのときを間近に想定している。筆を握る手が震え、噛みちぎりたいような、叫びたいような、ままならない衝動が身体中を巡った。
三木へと報告書を提出すると、千歳は食事をとる気にもなれず、裏玄関を出て、屯所内をあてもなく歩いた。物々しい洛中へは出るなと言われている。朝夕の挨拶しかしない間柄になった歳三がわざわざ言ってきたのだ。町はよほど不安定な情勢なのだろう。
本願寺との竹矢来に沿って門まで行き、長屋門沿いに北の塀まで進む。道場や手水場の裏を通り、本棟と書院棟の渡り廊下をくぐり、馬場を一周したら、再び竹矢来に沿って門まで歩く。三周もするころ、渡り廊下の欄干に腰をかけた佐野が千歳を呼びかけた。
「何してんだい? さっきから」
「……自分の魂に尋ねごとしてるんです」
千歳は足を留めずに、佐野の下を通り抜けた。廊下をくぐる千歳に合わせて、佐野の足音が頭上に聞こえた。振り返って見上げると、佐野が見下ろしている。
「なんですか?」
「君、夫人の許に行ってるそうじゃないか」
「ええ」
「……私を恨むかい?」
千歳は一瞬で生じた衝動を抑えて、佐野を見上げた。欄干に手を着き、こちらを伺う佐野の表情は、暗くて見えない。
あなたのせいではないと言ってほしいわけではないはずだ。そんな弱い男ではない。となれば、佐野は千歳を案じているのだろう。
「……志は、その人のものですから」
「そうだな……」
「白い桔梗、見たことありません?」
「白いの? さぁ」
「そうですか、おやすみなさい」
千歳は一礼して、渡り廊下を離れた。
夜、千歳は副長居室に、歳三は勘定部屋にそれぞれ布団を敷いて寝ていた。
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