十三、女丈夫

 忙しない閏五月も過ぎ行きて二十八日。冷たい霧雨が煙る中、佐野七五三之助は笠も被らずに屯所の御成門を出て、堀川筋を下った。傘に隠れる参拝客の間を抜けて道を進み、しかし、すぐに本願寺の正門へと架かる石橋を渡った。銘々の読経が響く阿弥陀堂を過ぎて、奥の棟、座敷で算盤を弾く寺侍へ声をかけた。

「西村さん」

「へぇ、佐野はん。おはようさんです」

 西村兼文。歳三が本願寺との間借り交渉を行ったさい、交渉役となった寺侍だった。境内で砲術調練を行い、捕縛した浪士へ拷問することも厭わない新撰組のことは、至極迷惑な居候と嫌っていたが、幾人かの隊士とは、勤王思想において繋がりがあり、交流を持っていた。

 佐野は慣れた様子で、座敷に面した縁側へと腰を下ろすと、隣へ座った西村の前に服紗を広げた。紙に包んだ金子だった。

「供養をお願いしたい。お西さんで」

「ご供養ですか」

「川瀬太宰が捕まっただろう。その夫人だ」

「はぁ」

 西村の返答には、どのような関係があってわざわざ、との疑問が乗せられていた。佐野は紫色の服紗の端、ほつれかけた角の縫い目を見つめながら、川瀬太宰の妻──こうを捕縛したときの様子を語りだした。


 半月ほど前の十五日。折りしも、小雨の朝だった。前日に川瀬太宰は潜伏中のところを捕らえられており、佐野の属する四番組は、証拠品の押収と幸の連行とを図り、大津にある川瀬太宰宅へ出向いていた。

 玄関を叩くと、四十過ぎの小柄な武家夫人が出て来て、自ら川瀬の妻だと名乗った。佐野が川瀬の罪状を述べ、幸の身柄をも拘束すると手を延ばすと、幸は佐野を鋭く見上げながら片手を挙げて制した。

『お手をわずらわせはいたしません。されど、婦女子には婦女子の身支度がございます。今少しお時間いただいてもよろしゅうございましょうか』

 奥へ下がった幸を待つ間、佐野は数人の隊士と共に庭を周り、不審なものがないか調べた。琵琶湖に面した川瀬宅は、京都とは全く異なる涼しい風が吹き抜ける。屋敷へ目を向けると、障子戸や襖は全て開けられ、掃除の行き届いた広い座敷が見渡せた。

 その奥に、衣装箪笥を開ける幸の姿が見えた。妙に落ち着き払った様子を訝しんで見ていると、幸は箪笥から懐剣の錦袋を取り出した。手早く白鞘の剣を取り出し、引き抜く。

 佐野が制止の声と共に縁側へと飛び乗り、座敷を駆けたが、幸は佐野を睨んだまま、懐剣で喉を突く。素早く引き抜き、もう一差しを試みる。しかし、その一手は佐野に蹴られ、懐剣は座敷の隅へと転がった。

『手拭い、寄越せ! 手拭い!』

 抵抗する幸の口を手拭いで塞ぎ、止血を行ったが、結局、幸は何一つの証言も残さないままに亡くなってしまった。


「川瀬が捕まったさいに、文書の類いは全て燃やしたらしく、あの家からは何も出なくてな」

「まさに、夫君に身ぃ捧げはったんですなぁ」

「ああ。川瀬幸だ。三日前の日暮れに亡くなった。公には弔えなくてな、どうか頼む」

 佐野は阿弥陀堂へと上がり、手を合わせた。

 自身の行いは、隊務として果たすべきものだったと思う。けれども、幸の死に自らの責が一片もないとは言えない。責を感じているが故に、西村へは言えなかったのだ。

(──私の行いが、かの夫人に死を選ばせた、と……)

 懐剣を蹴った足先は、幸の頬までをも払った。その瞬間、佐野は自身へと恐ろしいほどの殺気が向けられたのを察知したのだ。そして、屯所へと連行された幸は治療を拒み、押さえ付けて治療を受けさせたと思えば、今度は食事を拒み。当然、口も開かない。川瀬の一番弟子と名高い女勤皇家は、評判に違わぬ志を見せた。

 強情な女囚は、しかし、この上なく美しかった。仏前の水瓶に盛られる花々の中に、白い桔梗があった。佐野はこんなところにも、幸との縁を感じずにはいられない。


 それは、夕方から、大雨が降り続く十六日の夜。病床に伏す隊士たちへと粥を出し終えた千歳が厨へ戻ると、六兵衛が巌の持つ小さな土鍋の蓋を手に取って、何やら怒っていた。

「また残さはったん? 手ぇすら着けてへんやんか!」

 巌が困った様子で謝罪を繰り返すので、千歳は盆を小脇に抱えたまま尋ねた。

「誰か食べてないの?」

「へぇ、川瀬夫人です」

「ほんま、昨日から一遍も食事に手ぇ付けんと。巌も何したはんねん、食べさせたらんと監察さんたち、困らはるやろが」

 喉を突いた幸には、わざわざ医者を呼んで手当てを受けさせ、滋養が肝心との指示に従って玉子粥が出されていた。隊士であっても、玉子は気安く食べられるものではない。六兵衛の叱責に縮こまる巌へと千歳が尋ねる。

「川瀬夫人、なんで食べないの? 何とか言ってた?」

「いえ、何聞いても答えとくれはらへんのです」

「お話できないの?」

「できまへん」

「もしかしたら、飲み込むのが辛いのかも。喉が痛くて」

 千歳の推論に、六兵衛もため息をついて気を治めると、砂糖水と剥いて小さく切った枇杷を用意して、持って行くように千歳へと言った。

 幸は監察方の見張りを付けられた上で、茶室に監禁されていた。激しい雨の中、蓑笠をまとい躙り口に立つ兵庫に一礼して、千歳は水屋から茶室へと入る。

 明かりのない四畳半の真ん中に、幸は正座していた。辛うじて、後ろ向きの輪郭が見える。千歳は幸の前へと周り、盆を置いた。

「傷は痛みませんか?」

 幸は返答の気配を見せなかった。千歳は穏やかな声で、盆の上に砂糖水の椀と枇杷の皿があることを告げる。

「暗いのでお気を付けください」

「……お嬢さん」

「え……」

 千歳の息が止まった。雨音に遮られ、聴き間違えたのかと思ったが、幸はもう一度、お嬢さんと呼びかけた。

「新撰組のお雇いでございますか?」

「ぼ、僕は……!」

「あれ……ごめんください、男子であられましたか」

「……はい」

「さようでございますか……お年は?」

「十、五でございます」

 戸惑いながらも答えれば、幸が暗闇の中で盆の縁を捉え、千歳へと差し返した。

「かようなところ、いてはなりませぬよ」

 掠れた声は淡々としていながら、優しい慈しみがあった。

「息子にお伝えくだされ、そなたの父も母も、恥じるような振る舞いは一切なかったと」

 雨音が騒がしい暗闇にあってなお、幸の気迫は揺らがない。強い意志にて不食を定めていると伝わり、気圧された千歳は盆を引き取るしかなかった。


 翌朝、千歳は六兵衛へ願って、もう一度、昨晩と同じ盆を用意してもらった。雨はまだ降り続いていた。

 朝の光の中で千歳の姿を見た幸は、二、三のまばたきを繰り返して、『古事記伝』は読んだことがあるかと尋ねた。

「ええ、あります。全部持っています」

「さようでございますか」

 幸は静かに一礼すると、膝前へと置かれようとする盆に手をかざして止めた。

「川瀬さま……せめて、お水でも飲んでいただかなくては」

「私は結構でございますとお伝えくだされ」

 凛とした姿勢で、幸は微笑んだ。包帯を幾重にも巻いた首は、動かすことができないらしい。

「どうして、お食事を……」

「誇りを穢された以上は、施しを受け取るわけにいかないのです」

「誇りですか……?」

「背の高い、月代の男が存じております」

 捕縛に向かった四番組のうち、その容貌を持つ者は佐野だろう。本棟へ渡り、朝の巡察へ向かう前の佐野を捕まえた。

「それで……心当たり、おありかなと思いまして……」

「あの女、しゃべれたのか?」

「お声に障りはないようです……」

 佐野は大きく息をつくと、廊下を降りて、欄干を両手で掴んだ。雨のしたたる竹矢来の向こう、阿弥陀堂には朝の勤行を務める僧侶の姿が行き合う。

「佐野さん……何か──」

「辱めようとなんて、思っちゃいなかったさ」

 静かな声だが、拳は欄干に叩き付けられた。

「確かに蹴った、顔にも当たったさ。だけど、それは自刃を遂げさせんためだ。口を押さえたのも、舌を噛み切られんようにしただけだ。手当もそうだ。逆恨みだ」

 一息に言い切ると振り返り、鋭い目で千歳を捉える。息を詰めた千歳は、それでも目は逸らさない。しばらく続いた沈黙は、佐野のため息と共に切れた。

「賢夫人だよ、あの女は。夫を支え、夫を庇い。夫が捕らえられたとなれば、自ら死のうとする。武家夫人の鑑だな。冥福を祈るよ、じゃあ」

 刀を取りに部屋に戻ろうとする背中を、千歳は呼び止める。

「──謝らないんですか?」

「職務だ、謝るようなことじゃない」

「……このまましゃべらなかったら、尋問も進みません、佐野さんのせいで」

「しゃべったんだろ?」

 面倒を滲ませて、背を向けたままに答えれば、今にも泣きそうな声が返される。

「しゃべりませんよ、死ぬつもりです……」

 振り向けば、涙を堪えた幼い少年が、見つめてきていた。

「あの方は、死ぬつもりです……」

「……君は女の肩を持つ奴だな。あんまり、好ましいとはいえないよ」

 反論を耐えて唇を噛み締める千歳の目からは、堪えきれない涙が溢れる。佐野は構えていた気を解いて、師範の顔付きで千歳へと向き合った。

「君も隊の一員なら、死を恐れてはいけない。自分自身でも、他の誰かでも」

 佐野は千歳の頭へと手を延ばすが、手首を掴まれ触れることを拒まれる。

「死ぬつもりの人に生きてほしいと願っては、ダメなんですか……?」

 悲しみに揺れる琥珀色の目に迫られた佐野は、この少年をかわいがっていたもうひとりの副長を思い出す。自身の手首から千歳の手を離させると、背を向けた。

「思うこと、そのものは悪くないんじゃないか?」

 佐野は子どもが苦手だった。純真でいたたまれない。

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